第10話 地下駐車場
一
午後十時十五分。
小野寺は愛用の乗用車を駆り、マンションの地下駐車場へ通じるコンクリートの急なスロープを下っていた。
都心に佇む築十年の十五階建て分譲マンション「パークサイドタワー」。
地下二階の広大なフロアに設置された、全天候型の自走式地下駐車場。
スロープを下りきると、明るい黄色いセンサーランプが点灯し、重い自動セキュリティシャッターがガラガラと音を立ててゆっくり上へと持ち上がった。
天井には、経年劣化で少し黄ばんだ直管蛍光灯が二列にずらりと並び、淡い不気味な光を床に落としていた。
蛍光灯の安定器の奥から、ジージーという微かな虫の羽音のような電子音が絶え間なく響いている。
広々とした室内には、乾燥したコンクリートの粉っぽさと、車のエンジンの排気ガスの残り香が混ざり合った独特の重い匂いが充満していた。
乗用車が数台ぽつんと停まっているが、人の気配は全くなかった。
小野寺はアクセルペダルを軽く踏み、自分の指定駐車区画である「B-12」の場所へ向かった。
銀色の国産中型SUV。
小野寺が毎日の通勤と休日のドライブで大切に乗っている愛車だった。
「B-12」のスペースは、建物を支える巨大な四角いコンクリート柱のすぐ横に位置していた。
小野寺は慣れたハンドルさばきで車体を斜めに切り返し、バックで白い駐車枠の中へ車を静かに納めた。
後輪のタイヤが、床に固定された黄色いプラスチック製の車止めにカツンと軽く当たる。
キーをひねり、エンジンを停止させた。
ヘッドライトの強い白い光が消え、車内が地下駐車場の薄暗い静寂の中に包み込まれた。
キーを引き抜く金属音が、静かな車内に小さくカチャリと響く。
小野寺は運転席のドアを開け、革のカバンを持って車外へ出た。
いつもと変わらない、何の変化もない無機質な帰宅の風景だった。
二
異変に気づいたのは、二日後の水曜日の夜だった。
午後十時三十分。
小野寺は同じように地下スロープを下り、「B-12」の区画へ車をバックで入れた。
車を停め、エンジンを切る。
運転席のドアのレバーを引き、外へ出ようとした。
ガチン。
ドアが、わずか十センチほど開いたところで、硬い金属にぶつかって止まった。
小野寺は眉をひそめた。
わずかに開いたドアの隙間から、顔を覗かせるようにして外の状況を確かめた。
隣の駐車区画である「B-11」に停まっている車。
黒塗りの古い国産高級セダンだった。
フロントガラスにも、リアガラスにも濃い真っ黒なスモークフィルムが貼られ、車内の様子は外から一切窺い知ることができない不気味な車だった。
その黒いセダンが、小野寺の車へ異常なほど近づいて停められていた。
二つの区画を隔てる、コンクリート床に塗られた厚い白色の境界線。
車は白線の中央に綺麗に収まるように停めるのが最低限のマナーだった。
しかし、黒いセダンの左側の前後のタイヤは、白線のギリギリの上にぴったりと踏み乗っていた。
小野寺の「B-12」の領域へ、あからさまに寄って停められていた。
「マナーの悪い奴だな・・」
小野寺は不機嫌そうに低く呟いた。
身体を小さく細くすぼめ、狭いドアの隙間から擦り抜けるようにして何とか車外へ抜け出た。
自分の車のボディにスーツの生地が擦れる感触があった。
隣の黒いセダンを改めて見つめる。
このセダンは、数ヶ月前から「B-11」の枠に停められていた。
所有者の顔や性別を、小野寺は一度も見たことがなかった。
出庫しているところも、入庫してドライバーが降りてくるところも、目撃したことがなかった。
小野寺は小さくため息をつき、地下駐車場をあとにした。
三
金曜日の夜。
小野寺は残業を終えて帰宅し、地下駐車場へ車を入れた。
「B-12」の区画の前に車を差し掛かみ、小野寺は自分の目を疑った。
隣の黒いセダン。
その位置が、さらに小野寺の「B-12」の区画内部へ大きく侵入していた。
左側の前輪と後輪が、境界の白線を完全に踏み越えていた。
小野寺の駐車スペースの中に、三十センチ以上も車体を斜めに突っ込ませて無造作に停められている。
「おいおい、冗談だろ・・」
小野寺は車をバックで枠に入れるのを一瞬躊躇した。
このままバックで車を入れると、自分の車の運転席側と、隣のセダンの助手席側が、数十センチの至近距離まで接近してしまう。
小野寺は慎重にハンドルを切り、極限まで右側の巨大なコンクリート柱に車体を寄せて車を停めた。
エンジンを切る。
運転席のドアノブを引き、押し開けようとした。
ドアは、わずか五センチしか開かなかった。
隣のセダンの真っ黒なボディが、運転席の窓ガラスのすぐ目の前に、圧迫感のある壁のように立ちはだかっている。
完全に、運転席からのドアが開かない状態だった。
「ふざけるなよ、本当に・・」
小野寺は車内で強い怒りを覚えた。
運転席からの降車を完全に諦め、センターコンソールのシフトレバーを跨いで、苦しい体制で助手席側へ身体を移動させた。
助手席のドアを開け、外へ出る。
車外に出て、二台の車の位置関係を改めて確認した。
小野寺のSUVは、右側のコンクリート柱に擦りそうなほど寄せてある。
それなのに、隣の黒いセダンが大きく斜めに傾いて小野寺の区画へ侵入しているため、二台の間の隙間は人一人通れないほど狭まっていた。
日を追うごとに、物理的な距離が着実に詰まっている。
まるで、意図的に小野寺の車へ向かってじわじわと寄ってきているようだった。
小野寺はスマートフォンを取り出し、異常な駐車状況を何枚も写真に収めた。
明日、必ずマンションの管理会社へ連絡を入れて対応させようと強く決意した。
四
土曜日の午前中。
小野寺は自室の固定電話から、マンションの管理事務所へ連絡を入れた。
「地下駐車場のB-11に停まっている黒いセダンなんですが」
小野寺はこれまでの経緯と、ドアが開かない現状を細かく説明した。
「白線を完全に踏み越えて、私のB-12の枠に大きく入って停めているんです。車から降りられなくて本当に困っています。所有者に厳重に注意してもらえませんか」
受話器の向こうで、管理会社の担当者が困惑したような声を上げた。
「ええと・・小野寺様。B-11の区画ですか?」
「そうです。隣の黒いセダンです」
「おかしいですね・・B-11の区画は、半年前からご解約されていまして、現在は契約者様のいない『空き区画』になっているはずなんですが」
小野寺は言葉を失った。
「空き区画・・? ですが、現に黒いセダンが毎日そこに停まっていますよ」
「弊社で把握している最新の駐車場契約リストには、B-11のお車は登録されておりません。無断侵入の無断駐車でしょうか・・。本日、担当者が現地を確認しに向かわせます」
電話が切れた。
解約済みの空き区画。
契約者の存在しない車。
なぜ、そんな車が毎夜そこに停まり、日ごとに小野寺の車へ物理的に近づいてきているのか。
不気味な悪寒が、背筋をすーっと這い上がってきた。
その日の深夜。
日曜日の午前一時。
小野寺は友人とのお酒の席からタクシーで帰宅した。
車は使っていなかった。
しかし、気になって地下駐車場へ階段を使って一人で降りていった。
地下二階の重い鉄扉を開ける。
静まり返ったコンクリートの密閉空間。
小野寺は自分の「B-12」の区画へ歩み寄った。
そこにあった光景に、小野寺は息を飲んだ。
小野寺の銀色のSUVは、今夜は乗っていかないため「B-12」に停まっている。
その真横。
隣の黒いセダン。
二台の隙間は、わずか十センチ足らずにまで狭まっていた。
小野寺の車が最初から停まっている状態であるにもかかわらず、そのすぐ真横にぴったりと寄せて停められていた。
白線など、完全に無視されていた。
五
小野寺は背中を壁に強く打ち付けた。
深夜の地下駐車場。
誰もいない、蛍光灯がジージーと鳴るだけの不気味な空間。
黒いセダンの前へおそるおそる回り込んだ。
フロントガラスも濃いスモークがかかり、中の様子は全く見えない。
ボンネットの塗装面にそっと手を触れてみた。
冷たかった。
さっきまでエンジンがかかっていた熱など、微塵も存在しなかった。
冷凍庫の中から取り出した金属のように、冷え切っていた。
小野寺は自分のSUVの鍵をリモコンで開けた。
ハザードランプがアンサーバックで二回ピカッと点滅する。
助手席側のドアを開け、車内に滑り込んだ。
車の中から、警察へ通報しようと思った。
助手席に座り、ドアを強く閉めた。
バタン、と重い金属音が車内に響く。
その瞬間。
ガタタッ!
激しい金属の摩擦音が、地下駐車場全体に轟いた。
隣の黒いセダンが、激しく揺れた。
エンジンの回転音は一切しない。
タイヤが地面を転がる音もしない。
そのまま、横方向へスーッと滑るようにして、小野寺の車へ向かって平行移動してきた。
ドスン!
凄まじい衝撃とともに、黒いセダンの側面のボディが、小野寺のSUVの側面に直接激しくぶつかった。
金属と金属が押し潰される、ギギギという耳を覆いたくなるような凄まじい摩擦音が響く。
小野寺の車体が大きく横に傾いた。
運転席側の窓ガラスのすぐ外側。
隣のセダンの窓ガラスが、ミリ単位の隙間もなくピタリと全密着した。
「うわあああ!」
小野寺は悲鳴を上げ、助手席のドアノブを必死で掴んだ。
押し開けようとする。
ガチン。
助手席側のドアも、全く開かなかった。
小野寺の車が右側のコンクリート柱に強く押し付けられ、助手席のドアも柱の側面によって完全に塞がれてしまったのだった。
両側のドアが完全に物理ロックされた。
前後のスペースも狭く、車内に完全に閉じ込められた。
密閉された車内。
エアコンの送風音すら出ない、完璧な静寂。
小野寺は恐怖でガタガタと全身を激しく震わせた。
運転席の窓ガラスを血走った目で見つめる。
ガラス一枚を挟んで、隣のセダンのスモークガラスがピタリと密着している。
スモークガラスが音もなく静かに降りた・・。
暗闇の向こう。
隣のセダンの車内で、何かが動いた。
ベタリ。
湿った嫌な音がした。
小野寺の運転席の窓ガラスに。
隣のセダンの内側から「何か」が直接押し当てられた。
白く湿った、人間の掌。
指先から手のひら全体が、ガラスに強く押し付けられ、皮膚が丸く押し潰されていた。
掌は一つではなかった。
二つ、三つ、四つ、五つ。
黒いセダンの暗い車内から、無数の白い掌がガラス一面にべったりと隙間なく押し当てられていく。
ペタ、ペタ、ペタ、ペタ。
ガラスを滑る、生ぬるい擦れ音。
無数の掌が、ガラスを擦りながら、小野寺の顔がある方向へ向かって、ゆっくりと這い上がってきた。
暗い車内。
逃げ場のない狭い座席で、小野寺はただ呼吸を忘れたまま、ガラスを覆い尽くしていく無数の白い手に囲まれていた。




