第11話 公衆トイレ
一
午後八時四十分。
津田は駅から自宅へと続く街灯の少ない暗い夜道を、疲れた足取りで一人歩いていた。
街灯の黄色い光が等間隔にぽつんと届くだけの、古い住宅街の入り口。
通り沿いには、昼間でも人影の少ない無人の広大な「緑ヶ丘公園」が静かに広範囲に広がっていた。
木々の枝が夜風になびき、黒い影が歩道の上に揺れていた。
公園の入り口付近の暗がりにぽつんと佇む、小さなコンクリート造りの公衆トイレ。
築三十年以上が経過した、外壁のペンキが惨めにひび割れて剥げかけた古い平屋の建物だった。
天井に裸で取り付けられた丸い白熱電球が、ジージーと低い電子音を立てながら、短い周期で淡い光の点滅を繰り返している。
薄暗い黄色い光が、湿って酷く汚れたコンクリートの床を寒々と惨めに照らしていた。
津田は胃のあたりに急な軽い不快感と膨満感を覚え、公園の公衆トイレへ立ち寄った。
男子トイレの狭く暗い入口のコンクリート壁を潜る。
室内には、濡れた古タイルの独特の匂いと、古い塩素系消毒液のツンとした匂いが鼻をつくように充満していた。
水洗便器の金属配管から、時折シューというかすかな水漏れの音が静かな室内に響いてくる。
足元のタイルはどこか湿り気を帯び、踏みしめるたびに靴底がペタツと嫌な音を立てた。
用を済ませたあと、津田は壁際に設置された古びた洗面台の前に立った。
ステンレス製の、押しボタン式の古い単水栓。
ボタンを強く手で押し込むと、チョロチョロと頼りない冷水が短い時間だけ吐き出された。
津田は両手を丁寧に洗い、手の水滴をパッパッと払うように振った。
冷たい水の刺激で、頭の芯の疲労が少しだけ和らぐ気がした。
ふと、目の前のコンクリート壁に固定された大型の古い鏡に視線を向けた。
縦一メートル、横五十センチほどの長方形の鏡。
四隅の銀引きが黒く酸化して大きなシケが走り、表面は薄く埃と乾燥した水滴の跡で白く曇っていた。
鏡の中に、自分の顔がぼんぼりと映っていた。
残業帰りの疲れた男の顔。
目の下の深いクマ、うっすらと伸ばしっぱなしになった髭の痕。
やつれた皮膚の質感。
いつもの、見慣れた自分自身の姿だった。
二
異変に気づいたのは、顔を冷水で洗おうと深く屈み込んだ時だった。
津田は両手で冷水をすくい、火照った顔面にパシャリと押し当てた。
肌に突き刺さる冷たさに息を呑み、指先で顔の水滴を拭いながらゆっくりと顔を上げた。
濡れた前髪から滴る水滴が、首筋へ伝う。
鏡の中の自分が、こちらをじっと見つめていた。
津田は自然に瞬きをした。
その瞬間。
鏡の中の自分のまぶたが、ほんのわずかに遅れて閉じた。
コンマ何秒かの、はっきりと目に見える明確な動作のズレ。
津田が目を完全に開ききったあと、鏡の中の顔が追いつくようにしてゆっくりとまぶたを開いた。
まるで、別々の映像ソースがわずかなタイムラグを挟んで再生されているようだった。
津田は動きをピタリと止めた。
呼吸を整え、まばたきをもう一度、意図的にゆっくりと試してみた。
パチリ。
やはり、明確にズレていた。
鏡の中のまぶたは、外側の津田の実際の動作から一拍遅れて動いていた。
津田の皮膚の感覚と、画面の中の動きが一致しない。
「疲れてるのかな・・」
津田は自分の額に強く手を当てた。
重い目の錯覚だと思った。
連日の残業による視神経の疲労で、脳の映像処理速度が一時的に低下しているのかと自分に言い聞かせようとした。
津田は鏡の中の自分の目を、逃げずにまっすぐに見つめ返した。
自分自身の瞳。
黒目の奥にある、暗い瞳孔。
息を殺し、じっと己の影を注視する。
津田自身は、口を固く一直線に結んでいた。
歯を強く食いしばり、顔の筋肉を微動だにさせなかった。
鏡の中の自分の右の口角が、ほんの二ミリほど、上方に向かってキュッと持ち上がった。
笑っていた。
津田自身は、一切表情を変えていない。
頬の筋肉も全く動かしていない。
それなのに、鏡の中の男だけが、かすかに右の口元を歪めて薄笑いを浮かべていた。
不気味な、挑発的な薄笑いだった。
三
津田の背筋に、氷の刃を直接突きつけられたような冷たい戦慄が走った。
首を激しく左右に振り、逃げるように公衆トイレをあとにした。
足早に公園の暗がりを去り、自分のアパートの自室へと逃げ帰った。
自室のドアに鍵をかけ、チェーンロックを掛ける。
自室に入るや否や、洗面所の鏡に向かった。
明るい白い蛍光灯の下で、自分の顔を注視する。
まばたきをする。
口を大きく開ける。
手を左右に振る。
自室の鏡では、何のズレもなかった。
鏡の中の姿は、寸分の狂いもなく津田の実際の動作と完璧に同期していた。
「やっぱり、あのトイレの光の加減か・・」
津田は胸を深く撫で下ろした。
古い公衆トイレの、チカチカと点滅する裸電球の不安定な光。
鏡の表面の汚れとシケ。
それらが重なって見せた、一時の脳の錯覚なのだと思い込もうとした。
二日後の、強い雨の夜。
津田は仕事帰りに、再び同じ公園の脇の道を通りかかった。
外は雷を伴う土砂降りの雨だった。
ビニール傘を差していても、ズボンの裾が冷たく濡れていく。
激しい風が吹きつけ、傘の骨が軋んだ。
急な強い便意に襲われ、津田は嫌な予感に躊躇しながらも、背に腹は代えられず、再びあのコンクリートの公衆トイレへ駆け込んだ。
外は激しい雨音「ザァァァ」という音が濁流のように響いている。
トイレの中は、雨音すら遮断されたように、死んだように静まり返っていた。
点滅する裸電球が、今日もジージーと音を立てて点滅している。
個室を出たあと、津田は冷や汗をかきながら洗面台の前に立った。
ボタンを強く押し、冷水で手を洗う。
水の流れる音が止まる。
津田は腹を括り、正面の古い鏡をゆっくりと見つめた。
四
鏡の中に、津田の全身の影が映っていた。
薄暗い裸電球の光の下。
濡れた髪、雨に濡れたスーツ、疲れた顔。
津田は息を殺し、左手を軽く胸の高さまで持ち上げた。
指先を二本曲げて見せる。
鏡の中の津田は、手を一切持ち上げなかった。
両手を体側にだらりと下げたまま、じっと立ったままだった。
「な・・」
津田の喉から、声にならない空気が漏れた。
津田が左手を激しく振っても、右手を高く上げても、鏡の中の男は微動だにしなかった。
鏡の中の「津田」は、腕を下げた姿勢のまま、冷たい目でじっと津田を見つめ返していた。
鏡の物理的な反射機能が、完全に停止していた。
津田は凄まじい恐怖のあまり、その場から脱出しようと反転しようとした。
足の筋肉に強く力を込めた。
動かなかった。
足先が、コンクリートの床に固着したように一ミリも動かない。
膝の感覚が失われていく。
手足を動かそうとする脳からの電気信号が、首から下の身体へ一切伝わらなくなっていた。
「あ・・あ・・あ・・」
声を出そうとあがいた。
舌が口の奥で硬直し、唇が酷く歪むだけで、意味のある言葉にならない。
津田の身体の感覚が、急速に剥ぎ取られていく。
手足の皮膚の接触感覚。
濡れたスーツが擦れる感覚。
足裏に伝わっていた床の冷たさ。
それらの感覚が、まるで強力な麻酔を全身に打たれたかのようにすーっと消えていった。
自分の意識が自分の肉体の主導権を完全に失っていく。
自分の体が、自分のものではなくなっていく。
五
鏡の中の「津田」が、静かに動き始めた。
津田自身は、金縛りに遭ったように完全に硬直している。
それなのに、鏡の中の男が、ゆっくりとこちらへ向かって歩み寄ってきた。
鏡の奥の暗闇から、ガラスの画面手前へ向かって顔を近づけてきた。
ガラス一枚を隔てた、数センチの至近距離。
男の吐息が見えるような近さ。
鏡の中の「津田」が、右手をゆっくりと持ち上げた。
細く乾いた指先が、ガラスの「裏側」に内側から触れた。
トントン。
指先がガラスの裏面を叩く、硬い高い音が室内にくっきりと響いた。
外側からではなく、鏡の内側から音が鳴っていた。
鏡の中の男の口元が、耳の下まで届きそうなほど大きく左右に裂けるように開いた。
声のない、歪んだ嘲笑。
その瞬間、津田は強烈な浮遊感と天地がひっくり返るような眩暈に襲われた。
視界が、ぐにゃりと一回転した。
自分の意識が、肉体の奥から無理やり引き剥がされていった。
すーっと後ろへ引き引っ張られ、冷たく暗い、ガラスの裏側へと引き込まれていく感覚。
自分の身体を、外側から客観的に眺めている不思議な感覚。
津田の意識は、鏡の「内側」の暗闇の中へと閉じ込められた。
ガラスの向こう側。
外側の、明るい公衆トイレの空間。
そこにぽつんと立っている、津田の「本物の肉体」。
鏡の中にいた男が、内側から手を開き、ガラスを強く押し倒すような動作をした。
すっ。
存在が、完全に入れ替わった。
外側に立っていた津田の肉体が、自然でスムーズな動作で首をぐるりと回した。
首の関節がコキリと爽やかに鳴る。
外側の肉体が、ゆっくりと自分の両手を見つめ、指先を一本ずつ曲げて動作と感覚を確認した。
津田の肉体を乗っ取っていた。
外側の「津田」は、静かに口元を緩めると、一度も振り返ることなく公衆トイレの外へ歩き出した。
土砂降りの雨の中へ、津田の肉体が夜の街へ消えていく。
鏡の「内側」の真っ暗な暗闇に残された、本物の津田の意識。
手足も動かせない。
悲鳴すら出せない。
暗いガラスの裏側から、誰もいなくなった公衆トイレの薄暗い洗面台を、見つめ続けることしかできなかった。
ポタリ、ポタリ。
壊れた古い水栓から落ちる水の滴る音だけが、静かに響き続けていた。




