第8話 忘れ物センター
一
午前八時三十分。
塚田は駅の地下にあるお忘れ物承り所のシャッターを上げた。
ガラガラガラ、と重い金属音が薄暗い地下通路に響き渡る。
JRと複数の私鉄路線が入り組んで交差する大規模ターミナル駅、東武新宿駅。
その改札外の地下連絡通路の最も奥まった角に、お忘れ物承り所はひっそりと位置していた。
室内には蛍光灯の白い光が寂しく灯り、地下特有の湿った空気が満ちていた。
雨の日に持ち込まれた大量の濡れたビニール傘の匂い。
湿った羊毛のコートの匂い。
長期間保管された古紙とダンボールの埃っぽい匂い。
壁一面に隙間なく並ぶ、高さ二メートルを超える灰色のスチール製保管棚。
棚には、日々の落とし物がカテゴリごとに番号札を付けられて、整然と区分けして置かれていた。
塚田は受付カウンターの古びたパイプ椅子に腰を下ろした。
スチールデスクの上に置かれた管理用パソコンの電源ボタンを押す。
ブーンという冷却ファンの起動音とともに画面が立ち上がり、緑色の枠線で囲まれた遺失物管理システムの入力画面が表示された。
このターミナル駅では、毎日数百件から千件近くの忘れ物が持ち込まれる。
傘、財布、スマートフォン、家の鍵、鞄、衣類、土産物の箱。
乗客が混雑する電車内やホームのベンチに置き忘れた品々は、駅員や清掃員の手によって逐一ここに集められていた。
塚田の仕事は、それらの物品を受け取り、細かく状態を観察して分類番号を割り振り、システムに入力して保管棚へ収めることだった。
足元の床から、規則的な微かな振動が伝わってくる。
上の階のホームを、満員電車が次々と通過していく音だった。
ゴーッという重い地鳴りが、地下の密閉された室内を静かに揺らしては去っていく。
塚田はカウンターの上の黒いボールペンを取り出し、本日の拾得物受付票の厚い束をデスクに並べた。
いつもの、無機質で静かな一日の始まりだった。
二
午前九時ちょうど。
受付カウンター横の木製ドアが、コンコンと控えめに二回ノックされた。
駅のホーム清掃を担当している作業着姿の老作業員が、扉を少し開けて入ってきた。
「お疲れ様です、塚田さん。今朝のホームの拾得物を持ってきたよ」
作業員がカウンターのステンレス天板の上にポツンと置いたのは、一つの鞄だった。
古い本革製の、真っ赤な子供用ランドセル。
塚田はボールペンを握る手を止めた。
現在の小学生が背負うような現代的な軽量デザインではなかった。
人工皮革ではなく、重厚な本革のズッシリとした質感。
背当ての白い革は黒ずみ、金属の留め具部分は全体が黒く錆びついていた。
表面の鮮やかな赤色は、半世紀近い年月を経てエンジ色近くまで深く暗く褪せていた。
「またこれですか・・?」
塚田は眉を潜め、思わず声を漏らした。
老作業員は困ったように、作業帽の上から頭をぽりぽりと掻いた。
「そうなんですよ。今朝も四番線ホームの一番端の木製ベンチに置かれていましてね。乗客の置き忘れかと思って声をかけたんですが、周りには誰もいなくてね」
拾得場所は、いつも決まって四番線ホームの一番端。
中央線上りホームの最も古い、薄暗い階段の下にある木製ベンチだった。
この古い赤いランドセルが届けられるのは、今週で三回目だった。
毎週月曜日の朝九時ちょうど。
全く同じデザイン、全く同じ古さの赤いランドセルが、四番線ホームから回収されて持ち込まれてくる。
塚田は受付票の用紙に、拾得場所と品名を淡々と記入した。
「四番線ホーム端ベンチ 学童用本革ランドセル(赤・著しい経年劣化)」
作業員にお礼を言い、受付票の控えを手渡した。
作業員がドアを閉めて去ったあと、塚田はカウンターの上に残された赤いランドセルをじっと見つめた。
三
塚田は作業用の白い綿手袋を両手に装着した。
カウンターの上のランドセルを両手で持ち上げる。
ずしりと重い。
革の表面には、長年使い込まれたような細かなひび割れが無数に入っていた。
かぶせと呼ばれる大きな蓋の表部分。
そこに、硬い刃物で意図的に付けられたような大きな傷が存在していた。
「X」の形に深く刻まれた、二本の交差する深い引っかき傷。
塚田はその傷に指先で触れた瞬間、胸の奥に冷たい小さな引っかかりを覚えた。
この「X」字の傷。
どこかで見た強い記憶があった。
自分の遠い過去の記憶の奥底。
思い出そうとすると、頭の芯がジンジンと痛んだ。
塚田は管理システム端末の前に座り、キーボードを叩いて過去の保管データを詳細に検索した。
一週間前、二週間前の月曜日の受付データ。
確かに、全く同じ「赤いランドセル」がシステムに登録されていた。
通常、規定の保管期間である三ヶ月を過ぎて引き取り手がない物品は、まとめて廃棄処分されるか、警視庁の遺失物総合管理センターへ移送される手筈になっていた。
システム上のステータスは、過去二回の分もすべて「警察移送済み」と表示されていた。
塚田はパイプ椅子から立ち上がり、部屋の奥の暗がりにある「Dエリア」の保管棚へ向かった。
先週届けられたランドセルが一時保管されていた棚の最下段。
当然、移送済みのため空っぽになっているはずだった。
棚の奥の暗がり。
そこに、先週のランドセルが静かに置かれていた。
今朝届けられた分は、受付カウンターの上にある。
なのに、棚の奥には、全く同じ「X」字の傷がついた赤いランドセルが、もう一つ行儀よく鎮座していた。
塚田の手の動きが完全に止まった。
データ上は警察へ搬出されたはずの品が、なぜこの地下の棚に残っているのか。
なぜ、今朝また全く同じものが四番線ホームから届いたのか。
塚田は冷や汗を拭い、息を飲みながらカウンターへ戻った。
四
今朝届いたランドセルのベルトの金具を外し、かぶせをゆっくりと開いた。
内部の錆びた金属レバーが、カチャリと乾いた音を立てる。
教科書やノート、筆箱などは入っていなかった。
メインの大きな収納スペースは、空っぽだった。
塚田は手袋をした手で、前の小ポケットのファスナーを開けた。
壊れかけた金属ジッパーが、ギギギと重い音を立てる。
中に、何か硬い紙の感触があった。
指先を深く突っ込み、それを慎重に引き出した。
出てきたのは、一枚の古びた写真と、一枚の破り取られた紙切れだった。
写真は、縁が波打った少し黄ばんだカラー写真だった。
表面には細かな擦り傷がつき、角が丸く折れ曲がっている。
昭和の終わりのどこかの小学校のグラウンド。
秋の運動会の風景だった。
赤い布のハチマキを頭に固く締め、必死の表情でトラックを走る男の子が写っていた。
塚田は写真を蛍光灯の光にかざし、目の前に近づけた。
写真の中の男の子。
その顔は、三十年前の塚田自身だった。
小学三年生の秋。
運動会の鮮明な記憶。
自分でも長年忘れていた、幼少期の自分の姿。
なぜ、この写真が、見知らぬ置き忘れのランドセルに入っているのか。
両手の手袋越しに、血の気がすーっと引いていくのがわかった。
塚田はもう一枚の紙切れに目を向けた。
小学校で使われる国語のマス目付き学習帳から、ビリリと力任せに破り取られた一ページ。
マス目の中に、青い鉛筆で稚拙な文字が書かれていた。
「きょうはがっこうの帰りみちに、あかいかばんに・・」
そこまでで、鉛筆の文章はプツリと切れていた。
塚田の頭の中に、強烈な記憶のフラッシュバックが駆け抜けた。
三十年前の、冷たい雨の夕方。
同じ小学校に通っていた、おとなしい同級生の男の子。
名前は、確か「木村君」といった。
木村君は、家の事情で姉のお下がりの古い本革の赤いランドセルを背負って登校していた。
男子なのに女の子のような赤いランドセルを背負っていることで、クラスの男子から日常的にからかわれていた。
塚田は、あの日、彼と一緒にこの東武新宿駅の四番線ホームにいた。
五
塚田の指先が、激しくカタカタと震え始めた。
破られた学習帳の紙。
青い鉛筆の文字の下の余白に、別の文字が書き加えられていた。
鉛筆の稚拙な文字ではない。
最近、黒い万年筆で力任せに書かれたような、湿ったインクが紙に滲む大人びた筆跡。
「つかだくんは、あの日、ぼくのあかいかばんを四ばんせんのおほーむにおきわすれて、一人ででんしゃにのってにげたね」
塚田の喉から、ヒッという掠れた空気が漏れた。
脳裏の底から、塞がれていた記憶が一気に吹き出した。
あの日。
ホームで木村君と口論になった。
塚田はからかうノリで、木村君の赤いランドセルを力任せに奪い取った。
ポケットからカッターナイフを取り出し、かぶせの革に「X」の傷を深く刻み込んだ。
怒りと恐怖で泣き出した木村君を置き去りにし、塚田はそのランドセルを四番線ホームの端のベンチの上に放置した。
ちょうど入線してきた電車に、一人で飛び乗って逃げたのだ。
木村君は、奪われたランドセルを取り戻そうと、ホームの端へ向かって走った・・。
その直後、ホームに響いた悲鳴とブレーキ音。
そこからの記憶は、罪悪感と恐怖によって三十年間完全に頭の奥底に封印されていた。
「あ・・ああ・・」
塚田は持っていた写真と紙切れを床に落とした。
その時。
部屋の奥の暗闇。
「Dエリア」の保管棚から、異様な音が響き始めた。
カサ・・カサリ。
乾燥した古い本革が、互いに擦れ合う乾いた音。
塚田は恐る恐る、ゆっくりと首を奥へ向けた。
Dエリアのスチール棚。
そこに置かれていたはずの二個の赤いランドセル。
そして、その周囲の棚。
いつの間にか、棚の段全体が、数十個の全く同じ「Xの傷がついた赤いランドセル」で隙間なく埋め尽くされていた。
すべてのランドセルの革の傷が、暗闇の中でくっきりと白く浮かび上がっている。
カチャリ。
一番手前の棚に置かれたランドセルの金属金具が、自ら外れた。
かぶせが、内側からゆっくりと持ち上がる。
真っ暗なランドセルの口から、細く干からびた手がぬっと外へ伸びてきた。
紫色に変色した爪。
小さく冷たい子どもの手が、スチール棚の縁を強く掴んだ。
カツン、カツン。
湿った靴底が、コンクリートの床を叩く高い足音が、棚の暗闇の奥からこちらへ近づいてくる。
三十年前、ホームの端に置き去りにされたものが。
毎週月曜日の朝、塚田自身を回収するために、この地下へ届いていた。
受話器のツーツーという無機質な音だけが、静まり返った地下の室内に響き続けていた。




