第7話 SNSライブ
一
午後十一時三十分。
葵は自室のパソコンデスクの前に一人で座っていた。
都内にある築二十年の木造二階建てアパート「サンライズアネックス」、その二階の六畳間。
室内は部屋の中央にある主照明が消され、深い暗がりの中に包まれていた。
窓の外からは、ときおり遠くの幹線道路を走る自動車のタイヤ音がかすかに届くだけだった。
デスクの上に設置された直径三十センチの大きな丸いリングライト。
白いLEDの光が、葵の顔と上半身を強く眩しく照らしている。
広角のWebカメラが、二十四インチのパソコンモニターの上部中央にしっかりと固定されていた。
卓上のスタンドに取り付けられたコンデンサーマイク。
その黒い金属の質感が、リングライトの光を冷たく反射していた。
葵は黒いヘッドセットを頭に装着した。
耳元でごく微かな静電気のノイズが聞こえ、画面のオーディオ入力レベルメーターが緑色に跳ね上がる。
配信ソフトの画面を開き、画面下部の「ライブ配信開始」の赤いボタンをマウスでクリックした。
「こんばんはー。今夜もみんな、お疲れ様。始めていくよ」
葵はカメラのレンズに向かって自然な笑顔を作った。
声のトーンを意識して一つ上げ、明るくリスナーへ呼びかける。
画面の右側に配置されたチャット表示欄。
配信開始とともに、視聴者の数が二桁、三桁と瞬く間に増えていった。
「待ってました」
「こんばんは」
「今日も可愛い」
「お疲れ様ー」などのコメントが、流れるような速度で下から上へ滑り上がっていった。
葵は一人暮らしのこの部屋から、週に二回ほど定期的に雑談ライブ配信を行っていた。
リスナーとの何気ない会話のやり取り。
今日あった出来事や買ったものの報告。
それが、一人暮らしの夜の静けさと寂しさを紛らわせる、大切な時間だった。
Webカメラがレンズを通して映し出している画面の背景。
葵が座る椅子の真後ろには、部屋の押し入れが大きく映り込んでいた。
年月の経った木製の襖。
中央の引き手に小さな擦り傷がついた、至って普通の古い押し入れだった。
左右二枚の襖は、隙間なくきっちりと固く閉ざされていた。
二
配信が始まって四十分が経過していた。
壁の掛け時計の針は、深夜零時十分を回っていた。
葵はリスナーからの質問コメントを拾いながら、身振り手振りを交えて楽しそうに笑っていた。
「最近買って良かったもの? うーん、やっぱりこの卓上超音波加湿器かな。喉が全然痛くならないの」
キーボードのキーを軽快に叩くカタカタという音が、静かな部屋に響く。
画面右側のコメント欄は、早いテンポで絶え間なく更新され続けていた。
流れる白い文字の列を目で追っていた葵の視線が、ふと止まった。
数多くのコメントの中に、一つだけ異質な短文が混ざっていた。
「後ろ。」
文字はそれだけだった。
末尾に句点がついた、ごく短い無機質な言葉。
葵は表情を崩さず、笑顔を保ったままそのコメントを声に出して読んだ。
「ん?『後ろ。』だって。やだー、またそういう定番のドッキリやめてよ。私、一人暮らしなんだからさ」
チャット欄が瞬時にその発言に反応する。
「誰だよw」
「ホラーたすかる」
「脅かすなw」
「葵ちゃん後ろ見てw」
「また怪奇現象かw」などの文字が軽快に流れていく。
配信者への定番のイタズラコメントだと思った。
ライブ配信では、配信者を意図的に怖がらせてリアクションを楽しむ目的で、このようなコメントを打つ視聴者がたまにいた。
葵は苦笑いを浮かべながら話題を切り替え、次の質問コメントへと移った。
数分が経過した。
「後ろ。」
再び、全く同じ文字のコメントが流れた。
投稿者のアカウント名の表示欄は、空欄になっていた。
ユーザー用のアイコン画像も設定されておらず、透明なグレーの枠だけが表示されていた。
葵は少しだけ首を傾げた。
通常、配信プラットフォームの仕様上、アカウント名が完全な空白のままコメントを投稿することは不可能なはずだった。
「匿名さんかな? システムのエラーかな」
葵は小さく独り言を呟き、そのまま配信を続けた。
三
さらに十分が経過した。
「後ろ。」
「後ろ。」
「後ろ。」
連続して、全く同じ無機質な文章がコメント欄に猛烈な勢いで叩き込まれた。
コメントの流れる速度が異常に早くなる。
他の一般の視聴者のコメントを力任せに押し除けるように、「後ろ。」という三文字だけが画面の右側をギチギチと埋め尽くしていく。
葵の笑顔が完全に引きつった。
「ねえ、ちょっと連投はやめてね。みんなのコメントが見えなくなっちゃうから。タイムアウトにしちゃうよ?」
葵は右手でマウスを強く握り、コメント欄の「後ろ。」という文字の上にカーソルを重ねた。
右クリックを押し、モデレーター管理用のコンテキストメニューを開こうとした。
「このユーザーを一時的にタイムアウト」「このユーザーを非表示」の項目を選択するつもりだった。
カーソルが全く反応しなかった。
いくらクリックしても、管理メニューのウィンドウが開かない。
アカウントの詳細プロフィール情報を開こうとすると、画面の中央に真っ赤な文字で警告エラーが表示された。
「該当するユーザーアカウントは存在しません」
葵は息を飲んだ。
存在しないはずのアカウントが、現在進行形で画面のコメントを埋め尽くしている。
画面のチャット欄で、一般の視聴者たちも異変に気づいてざわつき始めた。
「連投ヤバくね?」
「荒らし?」
「てか、葵ちゃん」
「葵ちゃんの後ろ」
「押し入れ開いてない?」
「マジで開いてる」
葵の背筋に、氷水を直接流し込まれたような冷たい戦慄が走った。
画面内に映る自分自身の姿。
その背景に映る、古びた木製の押し入れ。
配信開始時には、間違いなく隙間なく固く閉ざされていたはずの二枚の襖。
右側の襖が、いつの間にかわずかに開いていた。
真っ黒な影のような縦の隙間。
幅にして、二センチほど。
底のない暗闇が、細い一本の縦線となって画面の背景にハッキリと映り込んでいた。
四
葵の胸の奥で、心臓がドクンと激しく打ち跳ねた。
「あ・・ごめんね、みんな。ちょっと部屋の様子を確認してくるね」
葵は頭のヘッドセットを慌てて外し、デスクの上にパタリと置いた。
リングライトの眩しい白い光の照射範囲から外れ、薄暗い部屋の床に立ち上がる。
背後の押し入れに向かって、ゆっくりと歩み寄った。
靴下越しに、フローリングの冷酷な冷たさが足裏へ直接伝わってくる。
押し入れの真正面に立った。
二センチほど無音で開いた襖の隙間。
隙間の奥は、光が届かず真っ暗で何も見えない。
湿った、古い木とホコリの混ざった臭気が、その細い隙間からスーッと漏れ出ていた。
「エアコンの風・・だよね・・」
自分を無理やり納得させるように、掠れた声で呟いた。
葵は震える手を前に伸ばした。
指先で襖の木枠のフチを掴み、力を込めて左へ勢いよく滑らせた。
ガラガラガラ。
高い摩擦音が静かな室内に大きく響き、押し入れの内部が完全に露わになった。
上段の棚には、綺麗に畳まれた冬用の厚手布団と、透明なプラスチック衣装ケース。
下段には、雑多な書類や衣類が入ったダンボール箱が整然と積み上げられている。
人の姿や怪しい影など、どこにも存在しなかった。
「だよね・・誰もいるわけないよね。風の悪戯か・・」
葵は安堵の溜息を深く漏らした。
自分の気の小ささに苦笑いを浮かべながら、襖の手すりを掴んで手前に引き戻した。
バタン。
木枠が枠にしっかりとはまり、隙間が完全に消失したことを目視で確認した。
デスクへ戻り、ヘッドセットを再び頭に装着する。
「ごめんごめん! 風で勝手に開いてただけみたい。誰もいなかったよ、安心して!」
明るい声を意識して作り、配信を再開した。
「良かったー」
「ビビらせるなw」
「安心した」
「おどかすなよー」などの温かいコメントが埋まり、画面は元の平穏を取り戻した。
午前一時ちょうど。
葵は予定通りの時間でライブ配信を終了した。
「それじゃあみんな、今夜もありがとう! おやすみなさい!」
配信終了の赤いボタンをマウスでクリックする。
画面が切り替わり、ライブ配信が停止した。
リングライトの電源スイッチを切る。
眩しい白光が消え、部屋はパソコンのモニターが発する青白い残光だけになった。
五
葵は椅子の背もたれに深く体を預けた。
全身の緊張が抜け、深い溜息が出る。
首筋を指で強く揉みながら、画面上の配信管理ソフトを操作した。
配信ソフトは、終了したライブの動画データをPCのローカルフォルダへ自動的にMP4形式で保存する仕組みになっていた。
葵は何気なく、今終了したばかりの配信の録画ファイルを開いた。
一時間半の長さの動画データ。
再生ボタンをクリックする。
画面の中で、自分が楽しそうにリスナーと会話している映像が再生され始める。
葵はシークバーの赤い点をマウスで掴み、動画を中盤の出来事の場所まで一気にスキップさせた。
開始四十五分。
コメント欄に最初の「後ろ。」という不気味な文字が書き込まれた時間帯。
画面の中の葵は、加湿器の製品を手に持って楽しそうに笑っている。
葵の視線は、画面の中の自分ではなく、その背景にある押し入れに集中した。
動画の表示サイズを最大化し、画面を拡大する。
暗い背景の押し入れの襖。
葵の目が、絶望的な恐怖で限界まで大きく見開かれた。
動画の0:45:12。
固く閉ざされていた右側の襖。
その引き手の部分が、内側からミリ単位の速度で動いていた。
ゆっくりと・・。
人間の目ではリアルタイムで直接認識できないほど、極めて緩やかで無音の速度。
1ミリ、2ミリ。
内側から引き戸が静かに滑っていく。
動画の0:50:00。
隙間が二センチに広がった。
動画の中の葵は、それに全く気づかず画面に向かって無邪気に喋り続けている。
葵は動画の画面をさらにデジタルズームで拡大した。
二センチの暗い縦の隙間。
隙間の真っ黒な暗闇の中から、細く白い物体がぬっと外へ突き出ていた。
指だった。
人間の指先。
爪が不気味な紫色に変色した、細長く干からびた五本の指が、押し入れの内側から襖のフチを強く掴んでいた。
さらに、その指のすぐ上の暗がり。
二つの小さな丸い光が、暗闇の奥からヌッと浮かび上がっていた。
人間の眼球だった。
白目が赤く血走り、黒目が異常なほど大きく見開かれている。
押し入れの隙間に顔をピタリと押し付け、暗闇の中から、画面手前に座っている葵の後頭部を、じっと、微動だにせず見つめ続けていた。
動画の中の葵が立ち上がり、押し入れへ向かって歩き出す。
その直前の瞬間。
隙間から覗いていた指と目が、スッと暗闇の奥へ素早く引き引っ込んだ。
そして、何事もなかったかのように、空っぽの押し入れが葵によって開けられる映像が流れた。
「あ・・あ・・あ・・」
葵の喉から、掠れた声にならない悲鳴が漏れた。
動画を一時停止する。
画面の中の暗闇の目。
それは、葵が振り返る直前まで、確実に、物理的にそこに存在していた。
押し入れの中に、誰かがずっと潜んでいた。
葵は呼吸を完全に止めた。
今、自分が座っているパソコンデスク。
その真後ろにある、木製の押し入れ。
背後の空気。
部屋のエアコンは切っていた。
それなのに、背中側に、生ぬるい湿った気配が漂っている。
衣類が擦れるような、微かな音が耳に届いた。
ス・・ス・・。
葵は後ろを振り返ることができなかった。
全身の血が凍りつき、指一本動かすことができない。
青白く光るパソコンモニターの画面。
その黒いプラスチック枠の反射の中に、自分の後ろで、ゆっくりと襖が開いていく影が映り込んでいた。




