第6話 コンビニ深夜勤務
一
午前一時三十分。
寺田はレジカウンターの中で、黄色いふきんを強く絞り、カウンターの拭き掃除をしていた。
国道沿いにポツンと立つ24時間営業のコンビニ「マートワン小金井店」。
夜間の店内は、天井に並ぶ何本もの直管蛍光灯が強い白い光を煌々と放ち、昼間のように明るかった。
蛍光灯の安定器から漏れる微かなハム音が、静まり返った店内に絶え間なく響いている。
店舗の最奥に設置された、大型の飲料用オープン冷蔵ケース。
重低音を響かせながら、冷却ファンが絶え間なく冷気を循環させ、低い唸りを上げていた。
揚げ物用ホットスナックケースの周辺からは、加熱された油の独特の残り香と、チキンのスパイスの香りが漂っている。
寺田はふきんを持ち直し、二号レジのステンレス製の天板を丁寧に擦り拭いた。
深夜のシフトに入ってすでに二時間が経過していた。
午前一時を過ぎると客の足はすっかり途絶え、レジの前を通過する者は誰もいなかった。
前の国道を時折、激しいエンジン音を立てて大型トラックが走り抜けていく。
タイヤが雨上がりの濡れたアスファルトを滑る音が、遠ざかっては闇の中に消えていった。
寺田はガラス張りの自動ドアの向こう側の、深い暗闇に視線を向けた。
真っ黒な夜の景色の中に、蛍光灯に照らされた自分の疲れた顔が窓ガラスに映り込んでいる。
大学の講義と深夜バイトの繰り返しで、目の下には黒い陰が色濃く残っていた。
レジの横にある小型のサーマルプリンターのカバーを開ける。
レシート用の感熱紙のロールが小さくなり、赤い警告線が見え始めていた。
足元の棚から新しい白いロール紙を取り出し、プラスチックの軸にセットする。
端を少し引き出し、蓋をカチリと音を立てて閉めた。
フィードボタンを長押しすると、ウィーンと音を立てて真っ白な感熱紙が数センチ吐き出された。
準備はすべて整った。
寺田はカウンターの端に寄りかかり、深夜の長い時間に耐えるように深い息を吐き出した。
二
午前二時ちょうど。
ピンポンパンポン、と店舗の入店チャイムが静かな店内に鳴り響いた。
自動ドアが左右に滑らかにスライドして開く。
夜の冷たい外気が、足元から店内へすーっと流れ込んできた。
寺田は背筋を伸ばし、マニュアル通りの声を掛けた。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、一人の老人だった。
薄汚れたベージュの作業用ジャンパー。
頭には深緑色のニット帽を眉のあたりまで深くかぶっている。
腰が大きく曲がり、右足を引きずるようにして歩いていた。
ツッ、ツッ、と靴底が床のPタイルを擦る乾いた音が、静かな店内に響く。
老人は迷いのない足取りで、一直線に店舗の奥へと向かった。
飲料コーナーの冷蔵ケースの前でピタリと立ち止まる。
ガラス扉を開け、ミネラルウォーター500mlのペットボトルを一本手にとった。
そのまま隣の雑誌コーナーへ移動し、ラックからスポーツ新聞を部手早く抜き出す。
そのまま、一定の歩調で二号レジの前へ歩いてきた。
寺田はこの老人の顔と佇まいに強い見覚えがあった。
今週に入ってから、毎晩深夜二時ちょうどに必ず来店する客だった。
買う商品も、歩くルートも、レジでの立ち位置も、完全に一致していた。
老人は一言も喋らない。
深くかぶったニット帽の影で、目元はまったく見えなかった。
かさついた鼻筋と、乾いて亀裂の入った唇だけが帽子のアゴ下から覗いている。
老人は手に持っていたミネラルウォーターとスポーツ新聞を、カウンターのステンレスの上に静かに置いた。
寺田は手元のスキャナーを持ち、商品のバーコードを読み取った。
ピッ。
「ミネラルウォーター、百一円になります」
ピッ。
「スポーツ新聞、百二十九円になります」
レジの液晶画面に、大きな青い文字で合計金額が表示された。
「合計で二三〇円になります」
老人は無言のまま、ジャンパーの右ポケットに細く乾いた手を深く突っ込んだ。
ポケットの中でジャラリと金属が擦れる音がする。
小銭を取り出し、カウンターのステンレス部分に直接並べ置いた。
百円玉が二枚、十円玉が三枚。
寸分の狂いもなく、ぴったり二三〇円だった。
寺田は小銭を指先で集め、レジの釣銭口へ滑り込ませた。
「二三〇円、ちょうどお預かりいたします」
現金ボタンを押すと、レジのドロワーがガチャンと勢いよく開いた。
同時に、サーマルプリンターがウィーンと小さなモーター音を立ててレシートを吐き出した。
寺田はレシートを手でピッと切り取り、老人の手元へ差し出した。
「お買い上げ、ありがとうございました」
老人はレシートを細く白い指先で受け取ると、軽く一度だけ頭を下げた。
そのまま背を向け、ツッ、ツッ、と足を引いて自動ドアへ向かった。
チャイムが鳴り、老人の背中は夜の暗闇の中へ吸い込まれるように消えていった。
三
老人が去ったあと、店内に再び重い静寂が戻った。
寺田は手元に残ったレシートの控えに目をやった。
店舗の売上管理用のジャーナルペーパー。
そこに印字された文字を見て、寺田は固まった。
日付「05/18」、時刻「02:01」、レジ番号「02」。
合計金額「¥230」。
そこまでは、黒い感熱インクで鮮明に印字されていた。
しかし、その間にあるはずの商品名の欄。
本来なら「〇〇ミネラル 500ml」「〇〇スポーツ紙」と印刷されるべき二行が、すっぽりと空白になっていた。
文字が薄いのではない。
印刷がかすれているのでもない。
まるで、最初から何も読み込まれなかったかのように、白い感熱紙の地色が綺麗に残っていた。
寺田は首を捻った。
「プリンターの印字ヘッドの目詰まりか?」
感熱紙の表面に、縦の白い線が入るトラブルは時々あった。
しかし、上下の日時と合計金額は完璧に印字されている。
中間にある商品名の二行だけが、綺麗にスポットで消えていた。
寺田は確認のため、スキャナーでレジ横に置いてある缶コーヒーのバーコードを読み込ませた。
預かり金額を入力し、テストのレシートを発行する。
ウィーン。
吐き出されたレシートを見た。
「〇〇缶コーヒー 140円」の文字が、黒々と鮮明に印字されていた。
プリンターの故障ではなかった。
寺田は違和感を覚えた。
なぜ、あの老人が買った商品の名前だけが、レシートから消えるのか。
レジのシステムエラーなのか。
胸の奥に、喉の引っかかりのような気味の悪い感触が残った。
四
翌日の深夜。
寺田は時計の針が二時に近づくにつれて、理由のない胸のざわつきを感じていた。
デジタル時計の表示が「02:00」に切り替わる。
ピンポンパンポン。
正確なタイミングで入店チャイムが鳴った。
自動ドアが左右に開き、あの老人が店内に入ってきた。
ベージュのジャンパー。
深緑色のニット帽。
右足を引きずる足音。
昨日と全く同じ姿だった。
老人は迷いなく冷蔵ケースから水を取り、雑誌棚から新聞を取り、二号レジの前へやってきた。
寺田は緊張しながら、老人の手元と顔を凝視した。
老人の手首から先は、乾燥して粉を吹いたように白くなっていた。
爪と皮膚の境界線には、黒い油のような汚れがこびりついている。
老人の首元から、古い防虫剤と湿った黒土が混ざったような、独特の臭気が漂ってきた。
寺田はバーコードをスキャンした。
ピッ、ピッ。
合計金額二三〇円。
老人はポケットから小銭を取り出し、カウンターのステンレスの上に置いた。
百円玉が二枚、十円玉が三枚。
寺田はその小銭を拾い上げようとして、指先を止めた。
コインの表面に、透明な粘り気のある油分が付着していた。
触れた瞬間、氷を直接押し当てられたような激しい冷気が指先から伝わってきた。
人間の体温ではなかった。
冷凍庫の中から取り出したばかりの金属のように、冷たかった。
寺田は息を飲み、小銭をレジに急いで放り込んだ。
レシートが発行される。
ウィーン。
手で切り取り、手元の記載を確認した。
やはり、商品名の欄だけが真っ白だった。
完全に無地。
金額と日時だけが、黒く印字されていた。
「あの・・お客様」
寺田は思い切って老人に声をかけた。
「レシートの表示が少しおかしいのですが・・」
老人は答えない。
顔も上げない。
ただ、白く印字が抜けたレシートを細く冷たい指先でつまみ上げると、無言のまま店を出て行った。
自動ドアが閉まる。
寺田は残されたレシートの控えを強く握りしめ、立ち尽くした。
五
早朝六時。
夜勤のシフトが終了する時間だった。
店のオーナーである五十嵐が、引き継ぎのために店内に入ってきた。
五十嵐は五十代のベテランオーナーで、面倒見の良い男性だった。
「お疲れさん、寺田くん。夕べは変わりなかったかい?」
寺田は悩んだ末、昨夜と一昨夜のレシートの控えを五十嵐に見せた。
「オーナー、これを見てください」
「ん? なんだいこれ。商品名が綺麗に抜けてるね。プリンターの不調か?」
「いえ、他のレシートは普通に出るんです。毎晩深夜二時に来るおじいさんの時だけ、こうなるんです」
五十嵐は眉をひそめた。
「深夜二時のおじいさん? うちの店、深夜二時頃は客なんてほとんど来ないだろ」
「来ますよ。毎日、水とスポーツ新聞を買っていく人です」
五十嵐は腕を組んだ。
「うーん・・気になるな。念のため防犯カメラの映像を確認してみようか」
二人でバックヤードの狭い事務室へ入った。
壁に設置されたモニターを操作し、昨夜の午前二時の防犯カメラ映像を再生する。
画面「カメラ01(レジカウンター全体を捉えるアングル)」。
午前一時五十九分。
画面の中の寺田が、カウンター内で一人で立ち尽くしている。
午前二時〇〇分。
入店チャイムが画面から流れた。
自動ドアが左右に開く。
寺田と五十嵐は画面を食い入るように注視した。
自動ドアが開いた。
誰も入ってこない。
誰もいない空間に向かって、自動ドアがスッと開き、そして静かに閉まった。
「え・・?」
寺田の声が引きつった。
画面の中の寺田は、誰もいない自動ドアに向かって丁寧にお辞儀をし、「いらっしゃいませ」と口を動かしている。
映像が進む。
画面の中の寺田は、店内奥の無人の通路へ視線をゆっくりと動かしている。
誰もいない冷蔵ケースの前。
誰もいない雑誌コーナー。
やがて、画面の中の寺田は、二号レジの前に向き直った。
レジの前には、誰も立っていなかった。
空っぽの空間。
床のPタイルが、蛍光灯の光を白く反射しているだけだった。
画面の中の寺田は、何もない空間から「何か」を受け取る仕草をした。
空中に向かってバーコードスキャナーをかざす。
ピッ、ピッ、と静かな音だけが鳴る。
寺田は画面を見ながら、猛烈な吐き気に襲われた。
全身の毛穴が開き、冷や汗が吹き出してくる。
指先が激しく震えた。
画面の中の寺田は、誰もいないカウンターの上にスキャナーを向け、一人で会話をしている。
次の瞬間。
レジカウンターのステンレスの上。
何もない空中の空間から、ポトリ、と二三〇円の小銭が突然出現し、落下した。
画面の中の寺田がその小銭を拾い、レジへ入れる。
レシートが発行される。
画面の中の寺田は、真っ白なレシートを空中に向かって差し出した。
寺田の指先から、レシートがスッと離れる。
レシートは空中に浮いたまま折れ曲がり、そのまま消えるように視界からなくなった。
「な・・なんだこれは・・」
五十嵐の声が激しく震えていた。
画面の中の寺田は、誰もいない自動ドアに向かって深くお辞儀をし、見送っていた。
映像が止まった。
事務室の中に、重い沈黙が流れた。
寺田は自分の両手を見つめた。
昨夜、あの小銭に触れた指先。
あの「何か」からレシートを手渡した手。
自分は毎晩、誰に接客していたのか。
誰から、あの冷たい小銭を受け取っていたのか。
寺田はバックヤードを飛び出し、二号レジのカウンターへ駆け寄った。
朝の光が差し込むレジカウンター。
ステンレスの表面を、上から覗き込んだ。
朝日に照らされたステンレスの上に、くっきりと残されていた。
黒くべっとりとした、腐敗した油のような汚れ。
そして、人間のものではない、異常に細く長い指紋の痕跡。
毎晩、何かがそこに立ち、カウンターに手を置いていた確かな痕跡だった。
寺田は口を手で覆い、その場に膝から崩れ落ちた。
店内には、いつもと変わらない蛍光灯の強い光と、冷蔵ケースの低い唸り声だけが響き続けていた。




