第5話 午前三時の防犯カメラ
一
午前一時三十分。
岡野は地下二階の防災センターで、パイプ椅子に深々と腰を下ろしていた。
築十五年の複合オフィスビル「東亜ビル」。
地下二階の狭い室内に、エアコンの微かな送風音だけが静かに響いている。
部屋の壁は灰色の塗装が剥げかけ、特有の湿ったコンクリートの匂いが充満していた。
壁一面に整然と配置された、大小様々なモニター群。
二十台を超える液晶画面が、モノクロの映像を無機質に映し出していた。
一階のエントランス、エレベーター前、各フロアの共用廊下、地下へ続く非常階段。
深夜のオフィスビルは完全に静まり返り、画面の中の風景はどれも静止画のように動かない。
廊下に飾られた観葉植物の葉一枚すら、揺れることはなかった。
岡野は紺色の警備服の襟元を少し緩めた。
首筋に固まった汗を、指先で拭う。
パイプ椅子の脇に置いた、冷めた緑茶のペットボトルを口に含む。
人工的な苦味が、乾いた舌の上に広がっていった。
夜勤のシフトに入ってすでに五時間が経過していた。
目の奥に、鉛のように重い疲労感がじわじわと溜まってきている。
机の上のデジタル時計が、音もなく秒を刻んでいく。
相勤の警備員である村田は、奥の仮眠室で浅い眠りについていた。
午前一時から午前四時までは、岡野が一人でモニターの監視と定時巡回を担当する時間帯だった。
防災センターの室内は、モニターの発する青白い光だけが室内をぼんやりと照らしている。
岡野はパイプ椅子からゆっくりと立ち上がった。
革製のベルトを締め直し、腰の後ろに装着した警棒と小型懐中電灯の位置を確認する。
金属製のホルダーが、カチャリと小さな音を立てた。
手元の懐中電灯のスイッチを一度押し、光量を確認した。
白く鋭い光が、部屋の暗がりを直線的に切り裂く。
「定時巡回、行ってきます」
誰もいない部屋で小さく呟き、岡野は防災センターの重い鉄扉のレバーを下ろした。
二
地下の共用廊下は、氷のように冷え込んでいた。
コンクリートの壁の隙間から、地下特有の湿った冷気が伝わってくる。
岡野の革靴の足音が、静まり返った廊下に規則正しく響いた。
ペタ、ペタ、と硬い床を叩く高い音が、天井のパイプに反射する。
エレベーターに乗り込み、一階へ上がった。
一階ロビーのガラス窓越しに、深夜の街灯の光がうっすらと差し込んでいる。
岡野は正面玄関の重い防犯シャッターの施錠を確認した。
ガラス扉の鍵穴に指を触れ、左右に強く揺すってみる。
遊びはなく、しっかりと金属が噛み合っていた。
懐中電灯の光を広いロビーの奥へ向け、不審者や異物がないことを確かめる。
白い光が、無人の受付カウンターを静かに照らし出した。
階段を使い、二階のオフィスフロアへ上がる。
非常階段の空間は、外の静寂がそのまま凝縮されたように静かだった。
手すりの冷たい金属の感触が、掌を通じて全身へ伝わる。
壁に取り付けられた非常口誘導灯が、不気味な淡い緑色の光を足元に落としていた。
二階の廊下を歩く。
消灯されたオフィスフロアのガラス越しに、整然と並ぶ無人のデスクが見えた。
パソコンの電源ランプが、暗闇の中で小さな緑色の点となって明滅している。
死んだように静かな空間。
岡野は二十分かけて三階までの巡回を終え、地下の防災センターへ戻った。
巡回日誌の用紙に、青いボールペンで時刻と「異常なし」の文字を記入した。
ボールペンを置く音が、静かな室内に小さく響く。
再びパイプ椅子に腰を下ろした。
岡野は疲れの溜まった目を擦り、モニター群へ視線を戻した。
画面の配置は、左上が一階エントランス、その隣がエレベーター内部。
右側の列には、非常階段のカメラ映像が縦に並んでいる。
「カメラ04」の表示。
一階から二階へ続く、西側非常階段の踊り場を捉えたモノクロ映像だった。
岡野は何気なく、カメラ04の画面に目を向けた。
画面の隅で、小さな影が動いた。
三
岡野は思わず身を乗り出した。
パイプ椅子がキィと軋む音を立てる。
モニターに顔を限界まで近づけた。
カメラ04のモノクロ画面。
画面の下部、一階からのドアを開けて、一人の人物が階段を上ってくるのが映っていた。
着ているのは、濃い紺色の作業服。
両肩には、岡野が所属する警備会社のワッペンがついている。
腰のベルトには、警棒と懐中電灯のホルダー。
岡野が今身につけている警備服と、完全に同じ装備だった。
男はゆっくりとした、一定の足取りで、コンクリートのステップを一つずつ踏みしめていた。
がっしりとした背格好。
少し左肩が下がった、特有の歩き方。
短く切り揃えた黒髪。
岡野は自分の胸元へ視線を落とした。
首から下げた透明なプラスチック製のIDカードケース。
画面の中の男の胸元にも、全く同じカードケースが揺れていた。
ケースの中の顔写真の位置まで一致している。
「村田さん・・?」
声が低く漏れた。
村田が仮眠から起きて、代わりに巡回に出たのだろうか。
岡野は机の上のデジタル時計を見た。
時刻は、午前三時ちょうど。
岡野は受話器を取り、仮眠室の内線番号を素早く押した。
ツーツーという呼び出し音が三回鳴り、ガチャリと受話器が上がる音がした。
寝ぼけた村田のだるそうな声が聞こえてくる。
「はい・・仮眠室です・・」
「村田さん、今どこにいますか?」
「え? 仮眠室ですよ・・まだ三時でしょう・・」
「今、階段の巡回に出ていませんか?」
「出てないですよ。ずっと寝てました・・どうかしたんですか?」
「あ・・いえ。すみません。見間違いでした」
岡野は電話を切った。
プラスチックの受話器を置く自分の手が、微かに震えていた。
村田は仮眠室にいる。
なら、今画面に映っている男は誰なのか。
モニターへ視線を戻す。
カメラ04の映像の中で、男は二階の踊り場に到達していた。
そのまま画面の枠外へ向かって、静かに消えていく。
岡野はキーボードを操作し、過去の録画データの再生画面を立ち上げた。
一分前の映像を急いで巻き戻す。
午前二時五十九分。
画面には誰もいない。
空っぽの階段。
午前三時〇〇分。
一階のドアが静かに開き、男が階段に姿を現す。
画面の中の男が、階段を上る途中でふと顔を上げた。
カメラのレンズをかすめるように、視線が動く。
モノクロの、解像度の低い画面。
そこに映っていたのは、他人の顔ではなかった。
岡野自身のアゴのライン、鼻の形、まぶたの重みだった。
岡野の背筋に、氷を押し当てられたような激しい寒気が走った。
今、自分がこの防災センターの椅子に座り、モニターを見つめているまさにその瞬間。
カメラの中の「自分」が、ビルの中を確かに歩いていた。
四
翌日の夜勤。
岡野は勤務開始の数時間前から、胸を締め付けるような強い緊張感を覚えていた。
昼間、自宅の布団に入っても、一睡もすることができなかった。
瞼を閉じると、モノクロ画面の中で階段を上っていく自分の姿が、鮮明に脳裏に浮かんでくるのだった。
午前二時四十五分。
岡野は地下の防災センターで、相勤の村田に向き合った。
「村田さん。頼みがあるんです」
「どうしたんですか、岡野さん。顔色がすごく悪いですよ。体調崩しましたか?」
「午前三時になったら、カメラ04のモニターをずっと注視していてくれませんか」
「カメラ04? 西側の非常階段ですか?」
「そうです。僕、今からそこへ直接行ってみます。三時ちょうどに僕がカメラの前に立つので、モニターにどう映るか確認してほしいんです」
村田は不審そうに首を傾げた。
「何か不審者でも映るんですか?」
「いいから、僕が戻るまで画面から目を離さないでください」
岡野は小型懐中電灯を握り締め、防災センターの重い扉をあとにした。
エレベーターを使い、一階へ上がる。
西側の非常階段の重い鉄扉を開けた。
ひんやりとした冷気が、廊下から勢いよく吹き込んでくる。
午前二時五十七分。
岡野は一階の階段の踊り場に立った。
頭上のコンクリート壁に、黒いドーム型の防犯カメラがしっかりと固定されている。
赤外線LEDの赤く小さな光が、暗闇の中で不気味にポツンと点灯していた。
岡野はカメラのレンズを直接見上げた。
自分は今、確かにここにいる。
防犯カメラの真下に立っている。
実体のある自分が、ここに存在している。
手元の腕時計の針が、チクタクと刻限を進めていく。
午前二時五十九分。
午前三時ちょうど。
周囲は完璧な静寂に包まれていた。
階段を上る足音もしない。
一階の扉が開く金属音もしない。
風の音すら聞こえない、密閉された空間。
五分間、岡野はその場所から動かずに立ち続けた。
何事も起きなかった。
ただの機械の誤作動だったのかもしれない。
画面のデジタルバグ。
疲労による他人の見間違え。
岡野は安堵の深い息を吐き出し、階段をあとにした。
地下二階の防災センターへ戻る。
鉄扉を開けて中に入ると、村田がパイプ椅子から勢いよく立ち上がった。
その顔は、血の気が完全に引き、紙のように真っ白になっていた。
「岡野さん・・」
村田の声が、喉の奥で酷く震えていた。
「どうでしたか? 僕がカメラの前に立っているのが映っていましたか?」
村田は絶望したように、ゆっくりと首を横に振った。
「岡野さんが・・その階段に来る前のことです」
「え?」
「三時ちょうどに・・カメラ04に岡野さんが映りました。一階のドアから入ってきて、そのまま迷いなく二階へ上っていきました」
「そんなはずは! 僕は二時五十七分からそこに立っていたんです! 三時にも確実にそこにいました!」
村田は震える指先で、モニター画面を指差した。
「あなたが階段の真下に立っていた時・・画面の中の『もう一人のあなた』は、すでに三階の廊下を歩いていたんです」
五
岡野は膝の力が急激に抜けそうになるのを、机に両手を突いて必死で耐えた。
心臓が破裂しそうなほど、胸の奥で激しく脈打っている。
「録画を見せてください」
村田とともに、過去数日間の全カメラの再生映像を遡った。
一日前。
午前三時。
「岡野」は一階の階段から二階へ上がっていた。
二日前。
午前三時。
「岡野」は二階の廊下を歩き、三階への階段に向かっていた。
三日前。
午前三時。
「岡野」は三階のオフィスフロアの前の廊下を通過していた。
一日ごとに、一階ずつ確実に上へ進んでいる。
そして、今夜。
四日前。
画面の中の「岡野」は、四階のホールに到達していた。
村田が録画画面を再生する。
四階のカメラ15の映像。
廊下の暗がりの突き当りから、濃い紺色の警備服を着た男がゆっくりと歩いてくる。
足取りに迷いは全くない。
まっすぐに、カメラの設置場所に向かって近づいてくる。
カメラの真下で、男がピタリと足を止めた。
ゆっくりと顔を上げる。
画面いっぱいに、男の顔が大きく映し出された。
岡野と全く同じ顔。
目の下の深い隈。
頬のほうれい線。
今朝カミソリ負けした、顎の小さな赤み。
男は、モノクロの画面越しに、じっとカメラのレンズを見つめていた。
次の瞬間。
男の薄い唇が、ゆっくりと左右に裂けた。
黄色い歯を見せて、静かに笑った。
その目は、天井の防犯カメラのレンズを見ているのではなかった。
防犯カメラの回線を通じて、地下のモニター画面の前に座っている、本物の岡野の目を、正確に射抜いていた。
「ひっ・・!」
村田が短い悲鳴を上げ、椅子ごと後ろへ転がった。
画面の中の「岡野」は、気味の悪い笑みを浮かべたまま、画面へ向かって手を伸ばした。
バチバチッ!
黒い画面に激しいノイズが走り、カメラ15の映像が完全に切れた。
砂嵐のような灰色ノイズが画面を覆う。
部屋の中に、狂おしいほどの沈黙が戻った。
岡野は呼吸を忘れていた。
全身の毛穴という毛穴から、冷や汗が噴き出していく。
指先が冷たくなり、感覚がなくなっていく。
その時た。
卓上に置かれた業務用のアナログ無線機が、ザザッと激しいノイズを立てた。
「ザザッ・・岡野さん・・聞こえますか・・」
スピーカーから漏れてきたのは、ノイズ交じりの声だった。
岡野自身の声。
声のトーン、喋り方の癖、息遣いまで、岡野そのものの声だった。
岡野は目を見開き、無線機を睨みつけた。
手元のアナログ無線機は、受信モードのままデスクに置かれている。
村田も触れていない。
誰も送信ボタンを押していない。
「今・・四階の巡回が終わりました・・」
ノイズ交じりの自分の声が、狭い部屋に虚しく響き渡る。
「次は・・地下へ降ります・・」
ザザッ。
通信がぶつりと切れた。
岡野は一歩も動くことができなかった。
恐怖で筋肉が硬直し、悲鳴すら声にならない。
一階から順に上へ登っていた「何か」。
四階の防犯カメラを壊した「何か」。
今度は、階段を降りてくる。
この地下二階の防災センターへ向かって。
部屋の外の暗い通路から、足音が聞こえ始めた。
ペタ、ペタ。
硬いコンクリート床を叩く、革靴の音。
規則正しい、少し左肩が下がった歩調の足音。
音はゆっくりと近づき、防災センターの重い鉄扉の真外で、ピタリと止まった。
カチャリ。
ドアノブが、静かに、ゆっくりと下へ傾いていく。
岡野は呼吸を止め、ノイズの走る黒いモニター画面に映る自分の影を、ただ絶望とともに見つめ続けていた。




