第4話 届き続ける予備品
一
午後八時三十分。
坂本はマンションの一階ロビーに立っていた。
築五年の五階建てマンション。
自動ドアの横に設置された、暗い金属製の宅配ボックス。
タッチパネルに部屋番号と暗証番号を打ち込むと、カチリと乾いた機械音がして四号扉が開いた。
中に収まっていたのは、見慣れた茶色のダンボール箱だった。
大手ECサイトのロゴマークが、箱の側面に印刷されている。
貼り付けられた伝票に目をやる。
お届け先の欄には、坂本のフルネームと「四〇一号室」の部屋番号が黒いインクで鮮明に印字されていた。
坂本は両手で箱を抱え上げた。
重さは軽い。
空気を運んでいるかのような軽さだった。
左手に重いビジネスバッグを持ち、エレベーターで四階へ上がった。
薄暗い共用廊下を歩き、自室の四〇一号室に入る。
鍵を回してドアを開け、靴を脱いだ。
壁のスイッチを押し、部屋の蛍光灯をつける。
一人暮らしの静かなワンルーム。
坂本は抱えてきたダンボール箱を、部屋の中央にあるローテーブルの上に置いた。
胸のポケットからカッターナイフを取り出す。
刃をカチカチと二目盛り滑らせ、テープの合わせ目に刃先を刺し入れた。
スーッと引き切る音が、静かな室内に響く。
ダンボールの蓋を開いた。
中に詰められた紙の緩衝材を取り除くと、整然と並んだ商品が現れた。
特定メーカーの歯ブラシ、五本パック。
いつも使っている液体洗濯洗剤の詰め替え用、二包。
坂本は首を小さく傾げた。
歯ブラシの毛の硬さも、洗剤のハーブの香りも、自分が長年愛用しているブランドそのものだった。
そろそろストックが切れそうだと思っていた気もする。
数日前の夜、自分でスマートフォンのアプリから注文したのだろう。
記憶は曖昧だった。
今週は残業続きで、連日深夜までデスクに向かっていた。
疲労のせいで頭がぼんやりしていた。
無意識のうちに注文ボタンを押したのだと、自分に言い聞かせた。
坂本は届いた商品を洗面所の棚に整然としまつた。
空になったダンボール箱を平らに畳み、ゴミ箱の横に立てかける。
いつもの夜のルーティンだった。
二
三日後の火曜日。
帰宅途中に一階のロビーを通ると、再び宅配ボックスの黄色い通知ランプが点灯していた。
操作パネルに暗証番号を打ち込む。
開いた扉の中に、またしても前回と同じサイズの茶色のダンボール箱が入っていた。
坂本は眉をひそめながら、箱を自室へ持ち帰った。
ローテーブルの上に置き、カッターナイフでテープを裂く。
箱の中から出てきたのは、黒いインナーシャツの三枚組セット。
自分がいつも着ている衣料品ブランドの、Lサイズのものだった。
もう一つは、洗面所で愛用しているボディソープの詰め替え用パック。
坂本の手が、箱の縁で止まった。
インナーシャツのストックは、すでにクローゼットの引き出しに十分な数があった。
当分買い足す必要はなかった。
ボディソープも、先週新しいパックを開けたばかりだった。
ストックを切らすはずがなかった。
坂本はスーツのポケットからスマートフォンを取り出した。
ショッピングアプリのアイコンをタップする。
画面右下のマイページから、購入履歴の項目を開いた。
履歴の一番上に、今手元にある商品がずらりと並んでいた。
注文日時の詳細表示をタップする。
「五月十四日 午前三時十四分」
坂本は画面の数字をじっと見つめた。
五月十四日の午前三時。
その時間、自分は確かにベッドの中で深く眠っていた。
前日の夜十二時には布団に入り、目覚まし時計が鳴る朝七時まで一度も目を覚ましていない。
酒は一滴も飲まない。
睡眠薬の類も服用していない。
寝ぼけてスマートフォンを操作するような癖も、これまでの人生で一度もなかった。
画面をさらに下にスクロールする。
先週届いた歯ブラシと洗剤の注文日時も改めて確認した。
「五月十一日 午前三時十八分」
いずれも、深夜の三時過ぎだった。
自分が意識を失い、深い眠りに落ちている時間帯。
坂本はスマートフォンをローテーブルの上に置いた。
暗い部屋の中で、液晶画面の青白い光だけがポツンと浮いていた。
翌日の日中、仕事中もその数字が頭から離れなかった。
パソコンに向かいながら、自分の指先が勝手に動き出すような錯覚に襲われた。
三
金曜日の夜。
三度目の荷物が届いた。
今度の箱は、以前届いたものより一回り大きかった。
重さもずしりと手首に響いた。
部屋に運び込み、カッターナイフの刃でテープを切り裂く。
箱の中から現れたのは、厚手のグレーのバスタオル二枚。
自分が洗面所で長年使っているものと、全く同じメーカー、同じ色、同じ肌触りの品だった。
その下には、室内用のスリッパが入っていた。
今、自分の足に履いているものと全く同型、同寸法の新品だった。
坂本は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
スマートフォンを取り出し、クレジットカードの利用明細Webページにアクセスする。
画面を慎重にスクロールさせた。
決済履歴を確認した。
見知らぬ第三者によるカードの不正利用ではない。
注文に使われたIPアドレス。
端末の個体識別番号。
すべて、坂本が今手に持っている、このスマートフォンからのアクセスだった。
自分の手で、深夜三時にアプリを開いている。
自分が日常で愛用している日用品を正確に検索している。
カートに入れ、登録済みのクレジットカードで決済ボタンを押している。
データは、すべての操作が坂本自身によって行われたことを示していた。
「自分がやっているのか・・?」
声が掠れた吐息となって部屋に漏れた。
自分の中に、記憶のない時間が存在するのか。
眠っている間に身体が起き上がり、暗闇の中でスマホの画面をタップしているのか。
それとも、起きている間の記憶そのものが、少しずつ削り取られているのか。
坂本は自分の額に強く手を当てた。
頭痛はない。
記憶の乱れも、日中の生活の中では一切感じられない。
部屋の中をぐるりと見回した。
一人暮らしの六畳間。
自分で選んだ木製のデスク。
自分で買ったテレビと冷蔵庫。
この部屋で暮らしている自分は、本当に「自分」なのだろうか。
底のない疑念が、足元から静かに広がり始めていた。
四
日曜日の午後。
坂本は部屋の大掃除を始めた。
気味の悪い妄想を頭から追い払いたかった。
ひたすら体を動かしていれば、余計なことを考えずに済むと思った。
掃除機を念入りにかけ、床を雑巾で拭く。
最後に、届いたバスタオルとスリッパをしまおうと、部屋の奥にあるクローゼットへ向かった。
木製の引き戸を横にスライドさせる。
コロコロと古い車輪が滑る高い音が響いた。
クローゼットの中には、坂本の服が整然と吊るされていた。
仕事用のスーツ、シャツ、休日のジャケット。
季節ごとの服が、ハンガーに並んでいる。
坂本は奥の棚に届いたタオルを置こうとして、ピタリと手を止めた。
ハンガーの並びの中に、見慣れない服が混ざっていた。
黒い不織布のカバーがかかった一着。
坂本は眉をひそめ、カバーのジッパーをゆっくりと下ろした。
中から現れたのは、仕立ての良い黒の無地スーツだった。
坂本が持っていない、見知らぬ高級ブランドのタグがついている。
袖口の生地を手に取り、サイズ表記のタグを見た。
「AB5」
坂本の体型と、ミリ単位まで完全に一致する寸法だった。
坂本は息を飲んだ。
こんなスーツを購入した覚えは、人生で一度もなかった。
さらに奥へ視線を滑らせる。
ハンガーラックの一番端。
全く同じ黒の不織布カバーがかかったスーツが、もう一着吊るされていた。
中を確認すると、同じブランドの新品スーツだった。
紙のタグがついたまま、静かに吊るされていた。
坂本は膝を突き、クローゼットの下段にあるプラスチック製の衣装ケースを手前に引き出した。
透明な引き出しの中を覗き込む。
綺麗に畳まれた新品のインナーシャツ。
透明な包装袋に入ったままの靴下。
下着。
それらが、隙間なく整然と詰め込まれていた。
すべて、坂本が普段身につけているものと同じサイズ、同じメーカーの品だった。
上段の棚を見上げる。
棚の奥の暗がりに、四角い箱が幾つも整然と並んでいた。
坂本は背伸びをし、箱を手前へと引き出した。
一つ目の箱。
坂本が目覚ましに使っている時計と全く同型の、箱入りの新品。
二つ目の箱。
坂本が毎朝使っている電気シェーバーの、新品の予備機。
三つ目の箱。
普段履いているスニーカーと全く同じモデルの、26.5センチの新品の靴。
四つ目の箱。
愛用しているメガネと同じ度数の、新品の予備フレーム。
すべてが、用意されていた。
坂本の生活に必要なもの。
坂本が身につけるもの。
坂本が日常で消費するもの。
そのすべての「予備」が、クローゼットの暗闇の中に、完璧な配置と数量で揃えられていた。
五
坂本はフローリングの上に力なく座り込んだ。
心臓が早鐘のように鳴り響く。
手先からすーっと血の気が引いていくのがわかった。
深夜三時。
注文されていた日用品。
届いた荷物は、単なる買い間違いでも、自分の無意識の行動でもなかった。
誰かが、準備を進めている。
この部屋で、坂本として生活するための準備。
坂本が明日消えても、何一つ支障なく日常を継続するための「完全な交換用品」。
坂本はクローゼットの中に並ぶ二着の黒いスーツを見上げた。
新品の生地が、暗がりの中で静かに光を反射している。
自分が会社へ行っている間。
あるいは、夜中に深い眠りに落ちている間。
誰かがこの部屋の鍵を開け、中に侵入してきているのか。
それとも、自分自身という存在が、少しずつ「何か」に書き換えられているのか。
部屋の玄関鍵は施錠されている。
窓のクレセント錠も固くかかっている。
外部から侵入された痕跡はどこにもない。
それなのに、クローゼットの奥は、見知らぬ「自分用の予備品」で埋め尽くされていた。
坂本は立ち上がろうとした。
膝がガクガクと震えて、うまく力が入らない。
部屋の中は静まり返っていた。
壁の掛け時計が刻む、チク、タク、という乾いた音だけが響く。
その時。
ピコン。
机の上のスマートフォンが、甲高い通知音を立てた。
坂本はビクリと肩を激しく跳ねさせた。
ゆっくりと這うように机へ近づく。
震える手でスマートフォンを持ち上げ、画面を覗き込んだ。
画面の中央に、新しいポップアップが表示されていた。
「お荷物の配達が完了しました。玄関前をご確認ください」
注文した覚えのない、四度目の通知。
配達場所は、宅配ボックスではなかった。
次の瞬間。
コトン。
自室の玄関ドアのすぐ外。
共用廊下のアスファルトの上に、重い箱が静かに置かれる音が響いた。
ドアのすぐ外側に、何かが届いていた。
坂本は息を殺した。
全身の毛穴が開き、冷や汗が吹き出す。
玄関へ続く短い廊下の暗闇。
ドアスコープのレンズへ近づき、ゆっくりと外を覗き込んだ。
覗き穴の丸い視界。
外の共用廊下の蛍光灯が、ぼんやりと灯っている。
扉のすぐ下の床に、大きな茶色のダンボール箱が置かれていた。
箱のすぐ横。
画面の端に、薄いグレーのトレンチコートの裾が見えた。
誰かが、扉のすぐ外に立っている。
ドアノブに手を伸ばすこともなく、立ち去ることもなく。
ドアスコープのレンズの真前で、じっと動かずに佇んでいた。
坂本は動けなかった。
ドア一枚を隔てた外側の気配。
そして、部屋の奥で開いたままのクローゼット。
整然と並ぶ「自分」の予備品たちが、暗闇の中から静かにこちらを見つめていた。




