第3話 エレベーターの通過点
一
午前一時五分。
加藤はマンションのエントランスに入った。
築七年の十五階建て分譲マンション「グランドタワー」。
ガラス張りの自動ドアが、静かに横へスライドする。
広々としたロビーは、昼間の華やかさが嘘のように静まり返っていた。
大理石の床に、加藤の革靴の音が響く。
コツ、コツ、と高い音が天井に跳ね返った。
加藤は肩にかけたビジネスバッグを持ち直した。
残業続きの体が、鉛のように重い。
目の奥が熱く痛んでいた。
ロビーの奥にあるエレベーターホールへ向かう。
ステンレス製の扉が二基、並んでいる。
右側の号機の呼び出しボタンを押した。
下向きの三角が黄色く点灯する。
機械が作動する低い音が、壁の奥から聞こえてきた。
上の階から、ゆっくりと籠が降りてくる。
表示パネルの数字が減っていく。
「15」「14」「13」・・。
加藤は息を深く吐き出した。
首筋を指で強く揉む。
疲労が蓄積し、頭の芯が重く痺れていた。
数字が「1」に到達し、ポン、と電子音が鳴った。
ステンレスの扉が左右に開く。
誰も乗っていない箱の中。
蛍光灯の白い光が、鏡張りの壁を明るく照らしていた。
加藤は一歩足を踏み入れた。
フローリング模様の床が、靴底を受け止める。
操作パネルの「8」のボタンを押す。
自室のある八階。
緑色の丸いランプが点灯した。
「閉」のボタンを押すと、静かに扉が合わさった。
一階を離れる浮遊感。
エレベーターが上昇を始める。
箱の中は静寂に包まれていた。
壁の鏡に、自分の姿が映っている。
ネクタイは緩み、髪は乱れていた。
疲れた男の顔が、鏡の中から加藤を見つめ返している。
二
数字が切り替わっていく。
「2」「3」「4」「5」。
上昇速度は一定だった。
モーターの静かな回転音が、足元から響いている。
「6」を通過した。
「7」が点灯する。
その瞬間だった。
ヴ、と低い振動が足裏に伝わった。
エレベーターの籠全体が、わずかに下に沈み込む。
速度が落ちた。
上昇する力が弱まり、車体が浮くような感覚が胃のあたりを襲う。
加藤は壁のグリップを握りしめた。
速度が半分以下に落ちている。
表示パネルの「7」の数字が、チカチカと微かに明滅した。
七階と八階の間。
階層と階層をつなぐ、コンクリートの壁の途中。
そこで、エレベーターは急激に減速していた。
二秒。
いや、三秒ほどだっただろうか。
籠が完全に停止しそうなほど重くなった直後。
ガタン。
小さな衝撃とともに、モーターの音が戻った。
エレベーターは再び元の速度を取り戻し、上へと向かい始める。
「8」が点灯した。
ポン、と電子音が鳴り、扉が開く。
目の前に広がるのは、見慣れた八階の共用廊下だった。
静かな廊下。
非常口の誘導灯が、緑色の光を放っている。
加藤は息を吐き出し、エレベーターを降りた。
振り返る。
何事もなかったかのように、扉が静かに閉まっていく。
異変を感じ始めたのは、三日前の夜からだった。
仕事で遅くなり、深夜零時を過ぎて帰宅するとき。
エレベーターは必ず、七階と八階の間で同じ減速を起こしていた。
昼間に乗るときには、一度も起きたことがない。
深夜、加藤が一人で八階に向かうときだけ、その現象は現れた。
最初は、機械の初期不良だと思った。
電圧の揺らぎや、経年劣化による制御基板の乱れ。
そう自分に言い聞かせていた。
三
翌日の午後。
加藤は在宅勤務の時間を使い、マンションの管理事務所へ足を運んだ。
一階の受付窓口。
年配の管理員が、メガネを直しながら加藤の話を聞いていた。
「七階と八階の間で減速する、ですか?」
管理員は首を傾げた。
「そうなんです。深夜に乗ると、必ず一瞬引っかかるような動きをするんです。点検してもらった方がいいんじゃないでしょうか」
管理員はカウンターの奥から、厚いバインダーを取り出した。
「うーん・・先週の木曜日に、エレベーターの定期点検が終わったばかりなんですよ」
バインダーのページをめくる。
「保守点検会社の報告書がありますが異常なしとなっていますね。モーターもワイヤーも、制御センサーもすべて正常です」
「ですが、実際に揺れるんです」
加藤は声を強めた。
「七階を過ぎたあたりで、急に重くなる感じがするんです」
管理員は申し訳なさそうな顔をした。
「他の住人の方からは、そういった報告は一件も出ていないんですよ。八階の他のご家庭からも何も・」
「そうですか」
「一応、保守点検の会社には伝えておきますね。次回の点検時に詳しく見てもらいます」
会話はそこで終わった。
加藤は管理事務所を出た。
エレベーターホールを見る。
昼間の明るい光の中で、ステンレスの扉が佇んでいる。
気のせいなのだろうか。
疲れによる平衡感覚の乱れ。
自分が過敏になっているだけなのか。
その夜も、加藤は深夜一時過ぎに帰宅した。
エレベーターに乗り込む。
「8」を押す。
一階から上昇する。
「6」「7」。
七階を通過した瞬間。
ヴ。
足元が沈み込んだ。
やはり、減速した。
速度が落ち、表示パネルの「7」のランプが明滅する。
気のせいではなかった。
間違いなく、エレベーターは何かに引っかかっている。
七階と八階の間の、真っ暗なシャフトの中で。
四
金曜日の深夜。
外は冷たい雨が降っていた。
加藤は傘を折りたたみ、マンションのロビーに入った。
ビニール傘の先から、雨水が床に垂れ落ちる。
濡れたスーツが重く、肌にへばりついていた。
時刻は深夜一時二十分。
ロビーには人影も無く、雨音だけがガラス窓を叩いていた。
エレベーターホールの前へ進む。
下向きのボタンを押した。
扉が開く。
籠の中に足を踏み入れる。
壁の鏡に、雨に濡れた自分の顔が映る。
髪が額にへばりつき、目の下の陰は以前より濃くなっていた。
「8」のボタンを押す。
扉が閉まる。
静かなモーター音が響き、上へと移動し始めた。
「2」「3」「4」「5」。
加藤はエレベーターの扉の正面に立った。
二枚のステンレス扉が合わさる、中央の境界線。
縦に一本伸びる、黒いゴムパッキンの隙間。
「6」を通過。
「7」が点灯した。
ヴ。
足元が沈む。
減速が始まった。
いつもなら、二秒ほどで元の速度に戻るはずだった。
戻らなかった。
速度がどんどん落ちていく。
モーターの回転音が低くなり、最後には、うめき声のような音に変わった。
ガタガタガタ。
車体が大きく揺れた。
頭上の蛍光灯がパチパチと点滅し、一瞬、完全に消えた。
暗闇。
次の瞬間、非常用の薄暗いオレンジ色のライトだけが点灯した。
エレベーターが、止まった。
「な・・」
加藤の声が狭い籠内に響いた。
ボタンパネルを見る。
「7」と「8」の間で、ランプがすべて消えていた。
完全に停止している。
七階と八階の間。
上下をコンクリートの壁に囲まれた、完全な密室。
加藤は慌てて非常ボタンに手を伸ばそうとした。
その時。
カチャリ。
扉の外側から、音がした。
金属と金属が擦れ合う音。
エレベーターの防音構造を通り抜け、はっきりと聞こえた。
加藤の手が止まる。
息を殺した。
音は、正面の扉のすぐ向こうからしていた。
コンクリートの壁のはずだった。
エレベーターの戸外部には、各階の乗り場以外に足場など存在しない。
上下へ伸びる巨大な吹き抜けのシャフト。
鉄骨とワイヤーが走る、暗黒の空洞。
そこに、何かがいる。
五
ス・・スス・・。
扉の外側で、何かが擦れる音が聞こえた。
布が金属を擦る音。
重いものが、壁を這い上がるような気配。
加藤は半歩、後ろへ退がった。
背中が鏡にぶつかる。
正面の二枚の扉。
その合わせ目である、数ミリの隙間。
そこに視線が吸い寄せられた。
非常灯のオレンジ色の光が、隙間を薄っすらと照らしている。
隙間の向こうは、本来なら真っ暗なシャフトの空間だった。
何かが、隙間を塞いでいた。
黒い影。
隙間のすぐ向こう側に、何かが密着している。
加藤は呼吸を忘れた。
心臓が破裂しそうなほど強く脈打つ。
隙間の奥で、かすかに何かが光った。
二つの小さな光。
加藤は目を凝らした。
光ではなかった。
濡れた、人間の目だった。
隙間のわずか数ミリの空隙を通して、外側にいる誰かと目が合った。
白目が血走り、瞳孔が異常に開いている。
その目が、隙間にピタリと押し当てられ、籠の中の加藤をじっと見つめていた。
「ひっ・・」
喉から引きつった悲鳴が漏れた。
外の何かが、動いた。
ガツン!
ドアの外枠が激しく揺れた。
指だった。
隙間に、細く黒ずんだ指が押し込まれてきた。
一本、二本、三本。
人間の指先が、外側から二枚のステンレス扉をこじ開けようとねじ込まれてくる。
爪は割れ、指先は黒い油で汚れていた。
皮膚が引き裂かれそうな圧力で、指が隙間に食い込んでいく。
メリメリと音がした。
ドアのゴムパッキンが歪む。
隙間が数ミリ、広がった。
油と汗の混ざった、生温かい匂いが籠の中に流れ込んでくる。
外の何かが、荒い息を吐き出していた。
シュー・・シュー・・。
隙間から覗く目が、歓喜に歪む。
指がさらに奥へ侵入してくる。
第一関節、第二関節。
鍵を壊し、扉を力任せに開けようとしている。
「やめろ! やめろ!!」
加藤は非常ボタンを狂ったように連打した。
非常ベルが高らかに鳴り響く。
ジリリリリリリ!!
その音に応じるように、外の指がさらに激しく押し込まれた。
ドア枠の金属が歪み、悲鳴を上げる。
指先から滲み出た黒い油と皮脂が、ステンレスの表面にべったりと塗り付けられていく。
指が、完全に扉の隙間を掴んだ。
両側に押し開けようとする力が加わる。
その時だった。
ガタン!!
激しい衝撃とともに、頭上のモーターが突如として大音量で回転を始めた。
エレベーターの籠が、猛烈な勢いで上へと跳ね上がった。
「うわあああ!」
加藤は床に倒れ込んだ。
ブチ、という湿った音が外で聞こえた。
引きちぎられるような音。
エレベーターは一瞬で八階へ到達した。
ポン。
電子音が鳴る。
非常灯が消え、いつもの白い蛍光灯が点滅した。
左右の扉が、何事もなかったかのようにスムーズに開いた。
明るい八階の廊下。
静まり返ったフロア。
誰もいない。
雨の音だけが、遠くの窓から聞こえていた。
加藤は床に倒れたまま、荒い息を繰り返した。
全身が汗で濡れていた。
ゆっくりと起き上がる。
目の前の扉を見つめた。
左側のステンレス扉の縁。
そこに、生々しい痕跡が残されていた。
黒い機械油と、人間の皮膚から擦り付けられた白い油分。
明確な手形。
四本の指が、扉の端を力任せに掴んでいた痕跡だった。
指紋の渦が、油でくっきりとステンレスに浮かび上がっている。
爪が削れた跡。
そして、ほんのわずかな、フレッシュな血の赤。
外側のシャフトの暗闇。
足場もない壁の途中に、誰かがぶら下がっていた。
毎夜、深夜に通過するエレベーターを待ち伏せし、ドアをこじ開けようとしていた。
加藤は立ち上がることができなかった。
開いたままのエレベーターの扉。
その足元の暗い隙間から、今も誰かの荒い息遣いが上ってくるような気がしていた。
エレベーターの扉は、加藤を乗せたまま、静かに閉まった。




