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あなたが毎日過ごしているその日常は、誰かが静かにすり替えた偽物かもしれない 〜都会の隙間に潜む二十の違和感〜  作者: かーすけ


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2/11

第2話 隣の空室

 一


 午後十一時。

 木下は六畳間の布団の上に腰を下ろした。


 薄い畳の香りが、鼻をつく。

 アパート「サンハイツ」の302号室。

 築三十年を超える木造二階建ての物件だった。

 壁は驚くほど薄い。

 隣の301号室の生活音は、毎日のように木下の部屋へ響いていた。


 夜十時を過ぎると、隣人が帰宅する。

 ドアが閉まる鈍い音。

 靴を脱ぐ足音。

 フローリングを歩く素足の擦れ音。

 深夜の乾いた咳払い。

 缶ビールを開ける小さな金属音。

 テレビの低い重低音。

 水道の蛇口を強く捻る音。

 浴室でシャワーが壁に当たる音まで、はっきりと届いていた。


 木下はその音を不快に思っていた。

 深夜まで続く足音に、頭から毛布をかぶる夜もあった。

 壁を一度、強く拳で叩いたこともあった。

 ドン、と乾いた音が響く。

 叩いた直後は、ぴたりと静かになる。

 翌日には、同じ生活音が戻っていた。

 それが、この部屋での当たり前の日常だった。


 異変に気づいたのは、先週の月曜日だった。

 午後十一時を過ぎても、隣の音が聞こえなかった。

 玄関のドアが開く音もしない。

 靴を脱ぐ音もしない。

 テレビの音も、水の音も、一切響いてこなかった。

 木下は壁を見つめた。

 白い壁紙に、小さな汚れが幾つかついている。

 いつもなら、壁の向こうからかすかな生活の気配が滲み出ていた。

 その夜は、ただ静かだった。

 残業で遅くなっているのだろう。

 そう思った。

 木下は電気を消し、眠りについた。


 二


 火曜日も、隣は静かだった。

 水曜日も、同じだった。

 木下は自室のローテーブルに向かい、パソコンの画面を眺めていた。

 部屋の中は、自分の息遣いしか聞こえない。

 エアコンの送風音が、やけに大きく響いていた。

 耐えかねてテレビをつけてみる。

 タレントの賑やかな声が流れる。

 その声が部屋の虚無感を際立たせるだけだった。


 木下はすぐにリモコンで消音にした。

 以前なら、今頃は隣のテレビの音が聞こえている時間だった。

 バラエティ番組の笑い声や、CMの音楽。

 それらが完全に途絶えていた。

 木下は出張にでも行っているのだろうと考えた。

 一週間ほどの長期出張。

 あるいは、実家に帰省しているのかもしれない。

 隣の騒音から解放された。

 静かな夜は、本来なら歓迎すべきものだった。


 四日目の木曜日。

 木下は帰宅途中に、アパートの階段を上った。

 ギシ、ギシと古い木製の階段が鳴る。

 301号室の前を通りかかる。

 ドアの横の表札立てを見た。

 プラスチックの枠には、名前の書かれた紙が入っていない。

 最初から入っていなかった気もした。


 隣人の顔を、木下は一度も見たことがなかった。

 朝のゴミ出しでも、夜の帰宅時でも、すれ違ったことすらなかった。

 ドアの前に立ち止まる。

 郵便受けの差し込み口を覗き込んだ。

 チラシや郵便物が溢れている様子はない。

 鍵穴は黒く沈んでいた。

 金属のドアノブに、そっと指先を触れさせてみる。

 氷のように冷たい金属の感触だけが伝わってきた。

 部屋の中に耳を澄ませる。

 何の音もしない。

 空気の動く気配すらなかった。

 木下は自分の部屋の鍵を開け、室内に入った。

 靴を脱ぎ、部屋の灯りをつける。

 明るくなった六畳間が、急に広く感じられた。


 週末の土曜日。

 昼過ぎに目を覚ました木下は、洗濯物を干すためにベランダへ出た。

 隣の301号室のベランダに視線を向ける。

 ベランダには、何も置かれていなかった。

 物干し竿すらない。

 エアコンの室外機の上に、薄くホコリが積もっていた。

 窓のカーテンは固く閉ざされている。

 遮光カーテンの隙間から、部屋の中を覗くことはできない。

 木下は洗濯物を物干し竿にかけながら、首を傾げた。

 先週まで、確かにあの部屋には人がいた。

 夜になれば明かりが漏れ、カーテン越しに人影が揺れていた。

 それが、一夜にして消えていた。


 三


 月曜日の朝。

 木下は出勤前に、アパートの管理会社へ電話をかけた。

 手元のスマートフォンを耳に当てる。

 呼び出し音が数回鳴り、女性担当者の声が聞こえた。

「はい、大日不動産管理部です」

 木下は咳払いをひとつした。

「あ、302号室の木下ですが」

「はい、木下様。どうされましたか?」

「隣の・・301号室のことなんですが」

 言葉を選びながら話す。

「先週から急に静かになりまして。引っ越されたんでしょうか?」

 受話器の向こうで、パソコンのキーボードを叩く音がした。

 担当者の声が返ってくる。

「301号室ですか? ええと・・そちらの部屋は、先月の末で退去されていますよ」


 木下は足を止めた。

「先月末・・ですか?」

「ええ。契約解除の手続きも終わり、クリーニングもすでに完了しております。現在は空室の状態で、次のご契約もまだ決まっておりません」

 頭の中が白くなった。

 先月末。

 今は今月の半ばだった。


「ですが・・先週まで、普通に生活音がしていました」

 木下の声が少し低くなった。

「夜になると足音がして、テレビの音や水道を使う音も聞こえていました。本当に誰もいないんですか?」

 担当者は困惑したような声を出した。

「そんなはずはありませんよ。鍵は弊社で保管しておりますし、リフォーム業者の出入りも先週の時点で終了しております。現在、301号室は施錠されております」

「誰かが無断で入っているということはありませんか?」

「鍵は厳重に管理しておりますので、それはないかと・・。念のため、現地を確認しておきますが」

「あ・・はい。よろしくお願いします」

 電話が切れた。

 ツーツーという無機質な音が耳に残る。


 木下はスマートフォンを握りしめたまま、立ち尽くした。

 先週まで聞こえていた、あの音。

 足音。

 水道の音。

 テレビの重低音。

 壁を叩くと、ぴたりと止まっていたあの反応。

 誰が、あの部屋にいたのか。

 誰もいない部屋から、音が出続けていたのか。


 四


 その夜。

 木下は午後十時に帰宅した。

 アパートの外観を見上げる。

 二階の301号室の窓は、真っ暗だった。

 ガラス戸の奥に、人の気配はない。

 階段を上り、301号室の前の廊下を通る。

 ドアノブに手を伸ばしそうになり、手を引っ込めた。

 自分の302号室に入り、鍵を二重にかけた。

 チェーンロックの金属音が、部屋に虚しく響く。


 部屋の中は静まり返っていた。

 壁を見る。

 薄い壁紙の向こうは、空室だ。

 家具も何もない、空っぽの空間。

 そう自分に言い聞かせた。

 管理会社のミスかもしれない。

 別の部屋の音が、壁を伝って響いていたのかもしれない。

 木下は自分を納得させようとした。


 服を着替え、敷布団を敷く。

 部屋の電気を消した。

 漆黒の暗闇が部屋を満たす。

 畳の上に横になる。

 頭を置いた枕の位置は、301号室との境界である壁から、わずか三十センチほどの場所だった。

 目を閉じる。

 暗闇の中で、耳だけが研ぎ澄まされていく。

 静寂が重い。

 エアコンの電源は切っていた。

 自分の心臓の鼓動が、トックン、トックン、と耳底で鳴っている。


 午前二時。

 ふと、目が冴えた。

 理由はなかった。

 ただ、意識が唐突に鮮明になった。

 暗闇の中で、木下は天井を見つめた。

 息を潜める。

 聞こえる。

 ごく小さな音が、壁の向こうから響いていた。

 衣類が擦れ合うような音。


 ス、ス・・。

 ごく僅かな、布と布が擦れる音。

 木下は身を硬くした。

 布団の中で、指先が凍りつく。

 音は、壁のすぐ向こう側から聞こえていた。

 床の上ではない。

 壁の、ちょうど木下が寝ている高さと同じ場所。

 ス・・スス・・。

 何かが、壁に擦れ合っている。

 ゆっくりと、滑るように動いている。


 木下は寝返りを打つことすらできなかった。

 金縛りに遭ったわけではない。

 動けば、こちらの存在を悟られるという直感があった。

 音は止まらない。

 擦れる音が、少しずつ形を変えていく。

 じわり、と感覚が皮膚に伝わってきた。

 熱だった。

 薄い壁を通して、かすかな温度が伝わってくる。

 生き物の体温。

 生ぬるい、湿った熱が、壁の向こう側から滲み出ていた。


 壁の真裏。

 そこに、誰かがぴったりと身を寄せている。

 背中を壁に押し付け、じっと動かずにいる。

 木下の背中と、壁を挟んで数十ミリの距離。

 木下の額から、冷や汗が流れた。

 空室のはずだった。

 家具もなく、人もいない、無人の部屋。

 そこに、何かがいる。


 五


 カリ。

 乾いた音がした。

 木下の耳が跳ねる。

 カリ・・カリカリ・・。

 爪で、何かを引っかく音。

 壁紙の表面を、固い爪先で擦る音だった。

 音は小さかった。

 静寂の中では、耳元で鳴っているかのように鮮明だった。

 カリ、カリ。

 爪が壁を削る音。

 壁の向こうの「何か」が、爪を立てている。

 木下は歯を食いしばった。

 恐怖で全身の毛穴が開く。


 壁一枚。

 合板と石膏ボードでできた、わずか数センチの薄い壁。

 それだけが、自分と「それ」を隔てていた。

 カリカリカリ。

 音の周期が早くなる。

 位置が移動し始めた。

 足元の方から、頭の上へ。

 壁に沿って、爪を引く音が滑っていく。

 木下を探している。

 確信があった。

 壁の向こうの「何か」は、布団の中にいる木下の位置を確かめようとしている。

 頭がどこにあるのか。

 耳がどこにあるのか。

 カリ。


 頭の真上の壁で、音が止まった。

 沈黙が戻る。

 静寂が、以前よりも重く部屋にのしかかる。

 木下は息を止めていた。

 胸が苦しい。

 酸素が足りない。

 それでも、呼吸音を立てることができなかった。

 じっと、待つ。

 壁の向こうも、動かない。

 温度だけが、壁を通じて伝わり続けている。

 生ぬるい、気味の悪い熱。

 まるで、生きた人間がそこに張り付いているかのような熱感。


 木下は耐えきれなくなり、ゆっくりと体を動かした。

 壁から離れようと、身を引く。

 敷布団の布地が、かすかに擦れた。

 その瞬間。

 ドスン。

 壁が激しく揺れた。

 頭の真後ろの壁に、重いものが打ち付けられた。

 木下の悲鳴が喉でつかえる。

 ドスン、ドスン。

 頭を壁に打ち付けるような音。

 あるいは、掌を力任せに叩きつける音。

 壁紙がメキメキと音を立てる。

 合板が撓む感覚が、頭皮に伝わってきた。


「あ・・あ・・」

 木下は布団から跳ね起き、部屋の隅へ後ずさった。

 背中が反対側の壁にぶつかる。

 叩く音が止まった。

 静けさが戻った。

 壁の向こうから、別の音が聞こえ始めた。

 スーー・・ハァーー・・。

 深く、重い呼吸音。

 壁の目地、小さな隙間から、湿った息が漏れ出てくるような音。

 誰かが、壁の真裏に耳を押し当てている。

 木下の呼吸を、動きを、暗闇の中でじっと聴いている。

 木下は部屋の隅で膝を抱えた。

 部屋の明かりをつける電気の紐まで、届かない。

 暗闇の中、壁の向こうの呼吸音だけが、深夜の部屋に響き続けていた。


 壁一枚向こう。

 そこにいるのは、誰なのか。

 管理会社の手元にあるはずの鍵。

 誰もいないはずの空室。

 木下は朝が来るまで、一度も目を閉じることができなかった。

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