第2話 隣の空室
一
午後十一時。
木下は六畳間の布団の上に腰を下ろした。
薄い畳の香りが、鼻をつく。
アパート「サンハイツ」の302号室。
築三十年を超える木造二階建ての物件だった。
壁は驚くほど薄い。
隣の301号室の生活音は、毎日のように木下の部屋へ響いていた。
夜十時を過ぎると、隣人が帰宅する。
ドアが閉まる鈍い音。
靴を脱ぐ足音。
フローリングを歩く素足の擦れ音。
深夜の乾いた咳払い。
缶ビールを開ける小さな金属音。
テレビの低い重低音。
水道の蛇口を強く捻る音。
浴室でシャワーが壁に当たる音まで、はっきりと届いていた。
木下はその音を不快に思っていた。
深夜まで続く足音に、頭から毛布をかぶる夜もあった。
壁を一度、強く拳で叩いたこともあった。
ドン、と乾いた音が響く。
叩いた直後は、ぴたりと静かになる。
翌日には、同じ生活音が戻っていた。
それが、この部屋での当たり前の日常だった。
異変に気づいたのは、先週の月曜日だった。
午後十一時を過ぎても、隣の音が聞こえなかった。
玄関のドアが開く音もしない。
靴を脱ぐ音もしない。
テレビの音も、水の音も、一切響いてこなかった。
木下は壁を見つめた。
白い壁紙に、小さな汚れが幾つかついている。
いつもなら、壁の向こうからかすかな生活の気配が滲み出ていた。
その夜は、ただ静かだった。
残業で遅くなっているのだろう。
そう思った。
木下は電気を消し、眠りについた。
二
火曜日も、隣は静かだった。
水曜日も、同じだった。
木下は自室のローテーブルに向かい、パソコンの画面を眺めていた。
部屋の中は、自分の息遣いしか聞こえない。
エアコンの送風音が、やけに大きく響いていた。
耐えかねてテレビをつけてみる。
タレントの賑やかな声が流れる。
その声が部屋の虚無感を際立たせるだけだった。
木下はすぐにリモコンで消音にした。
以前なら、今頃は隣のテレビの音が聞こえている時間だった。
バラエティ番組の笑い声や、CMの音楽。
それらが完全に途絶えていた。
木下は出張にでも行っているのだろうと考えた。
一週間ほどの長期出張。
あるいは、実家に帰省しているのかもしれない。
隣の騒音から解放された。
静かな夜は、本来なら歓迎すべきものだった。
四日目の木曜日。
木下は帰宅途中に、アパートの階段を上った。
ギシ、ギシと古い木製の階段が鳴る。
301号室の前を通りかかる。
ドアの横の表札立てを見た。
プラスチックの枠には、名前の書かれた紙が入っていない。
最初から入っていなかった気もした。
隣人の顔を、木下は一度も見たことがなかった。
朝のゴミ出しでも、夜の帰宅時でも、すれ違ったことすらなかった。
ドアの前に立ち止まる。
郵便受けの差し込み口を覗き込んだ。
チラシや郵便物が溢れている様子はない。
鍵穴は黒く沈んでいた。
金属のドアノブに、そっと指先を触れさせてみる。
氷のように冷たい金属の感触だけが伝わってきた。
部屋の中に耳を澄ませる。
何の音もしない。
空気の動く気配すらなかった。
木下は自分の部屋の鍵を開け、室内に入った。
靴を脱ぎ、部屋の灯りをつける。
明るくなった六畳間が、急に広く感じられた。
週末の土曜日。
昼過ぎに目を覚ました木下は、洗濯物を干すためにベランダへ出た。
隣の301号室のベランダに視線を向ける。
ベランダには、何も置かれていなかった。
物干し竿すらない。
エアコンの室外機の上に、薄くホコリが積もっていた。
窓のカーテンは固く閉ざされている。
遮光カーテンの隙間から、部屋の中を覗くことはできない。
木下は洗濯物を物干し竿にかけながら、首を傾げた。
先週まで、確かにあの部屋には人がいた。
夜になれば明かりが漏れ、カーテン越しに人影が揺れていた。
それが、一夜にして消えていた。
三
月曜日の朝。
木下は出勤前に、アパートの管理会社へ電話をかけた。
手元のスマートフォンを耳に当てる。
呼び出し音が数回鳴り、女性担当者の声が聞こえた。
「はい、大日不動産管理部です」
木下は咳払いをひとつした。
「あ、302号室の木下ですが」
「はい、木下様。どうされましたか?」
「隣の・・301号室のことなんですが」
言葉を選びながら話す。
「先週から急に静かになりまして。引っ越されたんでしょうか?」
受話器の向こうで、パソコンのキーボードを叩く音がした。
担当者の声が返ってくる。
「301号室ですか? ええと・・そちらの部屋は、先月の末で退去されていますよ」
木下は足を止めた。
「先月末・・ですか?」
「ええ。契約解除の手続きも終わり、クリーニングもすでに完了しております。現在は空室の状態で、次のご契約もまだ決まっておりません」
頭の中が白くなった。
先月末。
今は今月の半ばだった。
「ですが・・先週まで、普通に生活音がしていました」
木下の声が少し低くなった。
「夜になると足音がして、テレビの音や水道を使う音も聞こえていました。本当に誰もいないんですか?」
担当者は困惑したような声を出した。
「そんなはずはありませんよ。鍵は弊社で保管しておりますし、リフォーム業者の出入りも先週の時点で終了しております。現在、301号室は施錠されております」
「誰かが無断で入っているということはありませんか?」
「鍵は厳重に管理しておりますので、それはないかと・・。念のため、現地を確認しておきますが」
「あ・・はい。よろしくお願いします」
電話が切れた。
ツーツーという無機質な音が耳に残る。
木下はスマートフォンを握りしめたまま、立ち尽くした。
先週まで聞こえていた、あの音。
足音。
水道の音。
テレビの重低音。
壁を叩くと、ぴたりと止まっていたあの反応。
誰が、あの部屋にいたのか。
誰もいない部屋から、音が出続けていたのか。
四
その夜。
木下は午後十時に帰宅した。
アパートの外観を見上げる。
二階の301号室の窓は、真っ暗だった。
ガラス戸の奥に、人の気配はない。
階段を上り、301号室の前の廊下を通る。
ドアノブに手を伸ばしそうになり、手を引っ込めた。
自分の302号室に入り、鍵を二重にかけた。
チェーンロックの金属音が、部屋に虚しく響く。
部屋の中は静まり返っていた。
壁を見る。
薄い壁紙の向こうは、空室だ。
家具も何もない、空っぽの空間。
そう自分に言い聞かせた。
管理会社のミスかもしれない。
別の部屋の音が、壁を伝って響いていたのかもしれない。
木下は自分を納得させようとした。
服を着替え、敷布団を敷く。
部屋の電気を消した。
漆黒の暗闇が部屋を満たす。
畳の上に横になる。
頭を置いた枕の位置は、301号室との境界である壁から、わずか三十センチほどの場所だった。
目を閉じる。
暗闇の中で、耳だけが研ぎ澄まされていく。
静寂が重い。
エアコンの電源は切っていた。
自分の心臓の鼓動が、トックン、トックン、と耳底で鳴っている。
午前二時。
ふと、目が冴えた。
理由はなかった。
ただ、意識が唐突に鮮明になった。
暗闇の中で、木下は天井を見つめた。
息を潜める。
聞こえる。
ごく小さな音が、壁の向こうから響いていた。
衣類が擦れ合うような音。
ス、ス・・。
ごく僅かな、布と布が擦れる音。
木下は身を硬くした。
布団の中で、指先が凍りつく。
音は、壁のすぐ向こう側から聞こえていた。
床の上ではない。
壁の、ちょうど木下が寝ている高さと同じ場所。
ス・・スス・・。
何かが、壁に擦れ合っている。
ゆっくりと、滑るように動いている。
木下は寝返りを打つことすらできなかった。
金縛りに遭ったわけではない。
動けば、こちらの存在を悟られるという直感があった。
音は止まらない。
擦れる音が、少しずつ形を変えていく。
じわり、と感覚が皮膚に伝わってきた。
熱だった。
薄い壁を通して、かすかな温度が伝わってくる。
生き物の体温。
生ぬるい、湿った熱が、壁の向こう側から滲み出ていた。
壁の真裏。
そこに、誰かがぴったりと身を寄せている。
背中を壁に押し付け、じっと動かずにいる。
木下の背中と、壁を挟んで数十ミリの距離。
木下の額から、冷や汗が流れた。
空室のはずだった。
家具もなく、人もいない、無人の部屋。
そこに、何かがいる。
五
カリ。
乾いた音がした。
木下の耳が跳ねる。
カリ・・カリカリ・・。
爪で、何かを引っかく音。
壁紙の表面を、固い爪先で擦る音だった。
音は小さかった。
静寂の中では、耳元で鳴っているかのように鮮明だった。
カリ、カリ。
爪が壁を削る音。
壁の向こうの「何か」が、爪を立てている。
木下は歯を食いしばった。
恐怖で全身の毛穴が開く。
壁一枚。
合板と石膏ボードでできた、わずか数センチの薄い壁。
それだけが、自分と「それ」を隔てていた。
カリカリカリ。
音の周期が早くなる。
位置が移動し始めた。
足元の方から、頭の上へ。
壁に沿って、爪を引く音が滑っていく。
木下を探している。
確信があった。
壁の向こうの「何か」は、布団の中にいる木下の位置を確かめようとしている。
頭がどこにあるのか。
耳がどこにあるのか。
カリ。
頭の真上の壁で、音が止まった。
沈黙が戻る。
静寂が、以前よりも重く部屋にのしかかる。
木下は息を止めていた。
胸が苦しい。
酸素が足りない。
それでも、呼吸音を立てることができなかった。
じっと、待つ。
壁の向こうも、動かない。
温度だけが、壁を通じて伝わり続けている。
生ぬるい、気味の悪い熱。
まるで、生きた人間がそこに張り付いているかのような熱感。
木下は耐えきれなくなり、ゆっくりと体を動かした。
壁から離れようと、身を引く。
敷布団の布地が、かすかに擦れた。
その瞬間。
ドスン。
壁が激しく揺れた。
頭の真後ろの壁に、重いものが打ち付けられた。
木下の悲鳴が喉でつかえる。
ドスン、ドスン。
頭を壁に打ち付けるような音。
あるいは、掌を力任せに叩きつける音。
壁紙がメキメキと音を立てる。
合板が撓む感覚が、頭皮に伝わってきた。
「あ・・あ・・」
木下は布団から跳ね起き、部屋の隅へ後ずさった。
背中が反対側の壁にぶつかる。
叩く音が止まった。
静けさが戻った。
壁の向こうから、別の音が聞こえ始めた。
スーー・・ハァーー・・。
深く、重い呼吸音。
壁の目地、小さな隙間から、湿った息が漏れ出てくるような音。
誰かが、壁の真裏に耳を押し当てている。
木下の呼吸を、動きを、暗闇の中でじっと聴いている。
木下は部屋の隅で膝を抱えた。
部屋の明かりをつける電気の紐まで、届かない。
暗闇の中、壁の向こうの呼吸音だけが、深夜の部屋に響き続けていた。
壁一枚向こう。
そこにいるのは、誰なのか。
管理会社の手元にあるはずの鍵。
誰もいないはずの空室。
木下は朝が来るまで、一度も目を閉じることができなかった。




