第1話 終電の落とし物
一
午後十時四十五分。
オフィスビルの最上階に近い十五階。
蛍光灯の白い光が、誰もいないデスクの列を冷たく照らしていた。
パソコンの冷却ファンが吐き出す低い排気音だけが、部屋を満たしている。
渡辺はキーボードから手を離した。
液晶画面の右下に表示された時刻を確認する。
肩を小さく回すと、ギクっと関節が乾いた音を立てた。
疲れが首の裏側に重く溜まっている。
机の上のマグカップには、冷めきったコーヒーが底にわずかに残っていた。
黒い液体の上に、部屋の蛍光灯が小さな四角い光となって映り込んでいる。
渡辺はそれを一口飲んだ。
苦みだけが舌に残り、喉を通り過ぎていく。
デスクの引き出しを開ける。
黒いビジネスバッグを取り出し、ノートパソコンを滑り込ませた。
ファスナーを閉める音が、静まり返ったオフィスに響く。
隣の席の同僚は二時間前に帰っていた。
フロアの明かりを半減させ、渡辺はエレベーターホールへ向かった。
ボタンを押す。
上向きの三角が点灯し、機械の動く低い振動が足元から伝わってきた。
扉が開く。
鏡張りのエレベーター内部に、自分の疲れ切った顔が映っていた。
目の下にうっすらと陰が差している。
ネクタイの結び目は少し緩んでいた。
一階に着いた。
自動ドアが開き、夜の空気が肌を刺した。
ビルを出ると、都会の湿った夜気が体にまとわりついた。
舗装された歩道には、昼間の熱気がまだ微かに残っていた。
街灯の光が、アスファルトの表面を黄色く染めている。
通り過ぎる自動車のタイヤ音が、濡れた路面を滑るように聞こえた。
渡辺はポケットに両手を突っ込み、駅へ続く坂道を下り始めた。
コンビニの自動ドアが開く音がする。
店内から流れてくる明るいBGMと、独特の温かい惣菜の匂い。
立ち止まることなく、渡辺はその横を通り過ぎた。
いつもの時間、いつもの道。
景色には何の変化もない。
足音だけが、静かな夜の街に規則正しく響いていた。
二
駅の改札口は、昼間の混雑が嘘のように静まり返っていた。
ICカードをタッチする。
電子音がひとつ、高く鳴った。
改札機を抜けると、地下へ続く階段の冷気が脚を包み込む。
中央線のホームへ降りる。
人の姿はまばらだった。
ベンチに深く腰掛け、スマートフォンを眺める男。
柱に寄りかかり、薄い文庫本をめくるスーツ姿の女性。
誰もが互いの存在を視界の外に追いやり、自分の世界に閉じこもっている。
渡辺は中央付近のベンチに腰を下ろした。
プラスチックの座面は凍るように冷たく、お尻から体温を奪っていく。
自販機で缶コーヒーを買った。
ボタンを押すと、取り出し口にゴトリと缶が落ちた。
ふたを開ける。
微糖の人工的な甘い香りが、鼻腔をくすぐった。
一口含み、喉を鳴らして飲み込む。
温かさが胸の奥へ広がっていく。
その温かさも、夜の冷気にすぐに奪われていくようだった。
架線がキーと甲高い音を立てた。
線路の向こう、闇の奥から微かな振動が伝わってくる。
線路を覆う鉄とオイルの匂いが、夜風に乗って漂ってきた。
遠くの信号機が、赤から青へ変わる。
ホームのアナウンスが流れた。
女性の無感情な声が、誰もいない空間に響き渡る。
「まもなく、三番線に電車が参ります」
ヘッドライトの強い光が、闇を切り裂いて進入してきた。
濡れたレールが白く光る。
風が吹き抜け、渡辺のコートの裾を大きく揺らした。
ブレーキの擦れる甲高い音がホームに満ちる。
電車がゆっくりと停止した。
三両目のドアの前で、渡辺は立ち止まる。
プシュー、と空気が抜ける音とともに、静かにドアが開いた。
三
車内に入ると、空調の生温かい空気に包まれた。
蛍光灯の光が、清潔すぎるシートを照らしている。
乗客の数はごくわずかだった。
互いに距離を置き、ぽつん、ぽつんと座っている。
渡辺は進行方向に向かって左側、七人掛けシートの端に腰を下ろした。
背もたれに体を預ける。
クッションの柔らかさが、疲れた腰を受け止めた。
対角線の座席に、その女性はいた。
薄いグレーのトレンチコート。
首元には深緑色のスカーフが巻かれている。
ひざの上に置かれた両手は、行儀よく重ねられていた。
指が細く、肌が白い。
肩にかかる黒い髪が、顔の側面に陰を作っている。
伏せられた目元、表情は一切分からない。
彼女を見るのは、今週に入って四回目だった。
乗る時間も、乗る車両も同じ。
座る位置まで完全に一致していた。
本を読むわけではない。
スマホを見るわけでもない。
ただ、膝の上の一点を見つめたまま、静かに座っている。
胸の上下運動すら目立たず、まるで彫像のように動かない。
渡辺は視線を外した。
向かいのドアに貼られたステッカー広告に目をやる。
英会話スクールの広告。
新築マンションのローン相談。
意味のない文字を頭の中でなぞる。
電車が加速する。
線路の継ぎ目を越えるたび、規則正しい振動が足裏から伝わってきた。
ガタン、ゴトン。
ガタン、ゴトン。
窓の外は深い闇だった。
ときおり、沿線の住宅街の街灯が、黄色の光となって横切っていく。
ガラス窓に自分の顔がぼんやりと映っていた。
その背景に、対角線に座る女性の姿が重複して見えた。
彼女は、微動だにしなかった。
吊り革が大きく揺れても、体幹がブレることはなかった。
渡辺は瞼を閉じた。
電車の揺れに身を任せる。
意識が少しずつ、深い暗闇の中へと落ちていく。
四
どれくらいの時間が流れただろうか。
急激な減速の感覚で、渡辺は目を開けた。
車内アナウンスが駅名を告げている。
自分が降りる駅だ。
渡辺は浅い息を吐き出し、膝の上に置いた仕事鞄の取っ手を握りしめた。
電車がホームに滑り込んでいく。
スピードが落ち、風景が停止に向かって速度を落とした。
対角線の女性が、先に立ち上がった。
動作には一切の無駄がない。
スッと背筋を伸ばし、ドアの方へ向かって一歩を踏み出す。
その瞬間。
カチャリ。
静かな車内に、甲高い金属音が響き渡った。
硬い床の上に、小さな物体が落ちた。
音は一度跳ね、床の目地に沿って転がった。
そのまま渡辺の履いている革靴のつま先に当たり、カツンと音を立てて止まった。
渡辺の視線が、自然と足元へ落ちた。
黒い革のキーカバー。
角の部分が少し擦り切れ、中の金属リングが覗いている。
リングには、小さな真鍮製のプレートがついていた。
そこには、数字の「402」が刻まれていた。
見間違えるはずがなかった。
毎朝、自分のマンションの部屋を出るときに施錠し、ポケットに仕舞っている自宅の鍵だった。
渡辺は凍りついた。
なぜ、自分の鍵がここに?
手が反射的にコートの右ポケットに向かった。
指先が滑り込む。
何も触れない。
裏地の布地の感触だけが伝わってくる。
左のポケットを探る。
ズボンのポケットを探る。
カバンのサイドポケットを開ける。
どこにもない。
今朝、確かにポケットに入れたはずだ。
会社を出るときも、確かにそこにあった感触を覚えている。
なぜ、彼女の足元から落ちたのか?
渡辺は固まったまま、足元の鍵を見つめた。
女性が静かに屈んだ。
薄いグレーのコートの裾が、軽く床に触れる。
細く白い指先が伸ばされ、渡辺の靴先にある鍵をつまみ上げた。
指先が渡辺の靴の革に触れそうなほど接近する。
彼女の首元から、ほのかに冷たい石鹸のような香りが漂った。
顔を上げなかった。
拾い上げた鍵をそのまま、自分のコートの右ポケットへ滑り込ませた。
動作には、何の躊躇もなかった。
最初から自分のものを拾ったかのように自然だった。
「あ」
渡辺の喉から、掠れた声が漏れた。
声は小さく、ドアが開く空圧音にかき消された。
プシュー。
ドアが左右に開く。
冷たい夜気が車内になだれ込んできた。
五
女性は迷いのない足取りで、ホームへ踏み出した。
トレンチコートの裾が、夜風になびく。
渡辺は立ち上がろうとした。
足に力が入らない。
金縛りに遭ったかのように、膝が震えて動かなかった。
目の前で、彼女の背中が遠ざかっていく。
薄いグレーの後ろ姿。
彼女は一度も振り返らない。
まっすぐに、ホームの階段へ向かって歩いていく。
渡辺の視線は、彼女の右ポケットに注がれていた。
ポケットの中で、彼女の手が何かを握りしめているように膨らんでいた。
渡辺の部屋の鍵を、握りしめている。
「待って」
言葉は唇の間から零れ落ちただけだった。
声にならなかった。
ドアが静かに滑り、閉まった。
ガラス一枚が、渡辺と外の世界を遮断する。
プシューという排気音とともに、電車が再び動き始めた。
加速していく車窓の向こう。
ホームの灯りの下を歩く女性の姿が、ゆっくりと後ろへ流れていく。
彼女は階段の陰に吸い込まれ、視界から完全に消えた。
電車は夜の闇の中を走り続けた。
渡辺は一人、座席に残されていた。
自分の右ポケットに何度も手を突っ込んだ。
空っぽ。
指先が虚しく泳ぐだけだった。
深夜零時十五分。
渡辺は自分のマンションの四階廊下に立っていた。
蛍光灯が一つ、チッチッ、と規則的な音を立てて点滅している。
402号室のドアの前。
渡辺はカバンを開け、底のファスナーポケットを探った。
指先に、冷たい金属の感触が触れる。
管理会社から契約時に渡されていた、予備の鍵を入れていた。
震える指で予備の鍵を握り締めた。
鍵穴に向かって伸ばした。
金属が噛み合う手応え。
回そうとした瞬間、引っかかった。
回転しない。
鍵穴の奥で、何かがぶつかるような鈍い抵抗感があった。
渡辺は鍵を引き抜いた。
スマートフォンのライト機能を起動する。
白い強い光が、ドアの鍵穴を直接照らし出した。
渡辺の息が止まった。
鍵穴を覗いた。
鍵穴の真鍮製の金属のプレート部分に、無数の小さな傷がついていた。
円を描くような細い擦り傷。
鍵穴の隙間に向かって、何度も金属を押し付けたような跡のように見えた。
昨日までは、こんな傷はなかった。
誰かが、この鍵穴に別の鍵を差し込もうとしたのか。
一度や二度ではない。
何度も、力を込めて鍵を回そうとしたような傷だった。
背後に、夜風が吹き抜けた。
マンションの共用廊下の階段から、ヒューという乾いた音が響く。
渡辺はスマートフォンのライトを消した。
暗闇が戻った。
自分の部屋のドアを背にして、渡辺は立ち尽くした。
鍵穴の傷の感触が、目の奥に焼き付いていた。
電車の中で、彼女がポケットに仕舞った自分の部屋の鍵。
その鍵は今、どこにあるのか。
静まり返った廊下に、自分の浅く早い呼吸音だけが響いていた。




