第20話 地下鉄の終点
一
午後十一時四十五分。
岡田は都心の地下鉄の大手町駅のホームで、黄色い点滅ブロックの内側に立って電車を待っていた。
三十六歳の岡田は、IT関連企業で大規模システムのインフラ構築を担当している。
連日の深夜残業によって慢性的な睡眠不足と全身の強烈な疲労感を抱えていた。
金曜日の深夜ということもあり、疲れた顔をした多くのサラリーマンやOLたちがホームのあちこちに固まって並んでいた。
地下ホームの閉塞感のある空気に漂う独特の鉄の臭い。
疲れ切った人々の重い息遣いが地下の空間に重く充満していた。
岡田の頭の中は、今日の複雑なプログラミングのバグ処理と、翌朝までに提出しなければならないシステム仕様書のことで一杯だった。
長時間のパソコン作業によって目の奥が痛かった。
瞼が重く垂れ下がり、視界全体が白くかすんでいた。
両足の筋肉は鉛のように重かった。
今すぐにでもその場に倒れ込みたいほどの疲労が全身を打ちのめしていた。
プシュー・・という重い空気音とともに、濃いグレーの車体の最終電車がゆっくりとホームへ滑り込んできた。
岡田は開いた自動ドアから、吸い込まれるように車内へ足を踏み入れた。
車内は暖房の生温かい空気が漂っていた。
つり革に掴まる乗客や、シートに深く座り込んで眠る人々で混み合っていた。
乗客たちの服から漂う湿ったコートの匂い。
生温かい空気が車内全体に停滞していた。
運良く進行方向に向かって左側のドアの脇にある二人掛けの座席がひとつ空いていた。
岡田は身体を滑り込ませるようにして腰を下ろした。
硬い布張りのシートに身体を深く預けた瞬間、全身の筋肉から急速に緊張が抜け落ちていった。
疲労し切った背骨がシートの背もたれにしっくりと収まり、岡田は深く安堵の息を吐き出した。
自宅の最寄り駅である「関町駅」まではここから約二十分。
七つの駅を通過する予定だった。
関町駅の改札を出れば、徒歩三分で自宅マンションに着く。
温かいベッドの待つ静かな自室へ辿り着くはずだった。
帰ったら、すぐに温かいシャワーを浴びよう。
そのままベッドになだれ込んで泥のように眠ろうと考えていた。
「関町まで・・少しだけ目を閉じよう・・」
岡田は重い瞼を閉じた。
ガタゴトという地下鉄特有の心地よい揺れの中に意識を深く沈めていった。
二
深夜一時十五分。
ツーンとする湿った腐葉土のようなカビ臭い空気が漂ってきた。
そして、身体を刺すような冷気に、岡田ははっと目を開けた。
全身にぞくりと鳥肌が立ち、息を吸うたび、胸の奥が冷たく痛んだ。
あまりの冷たさに、思わず両腕をさすりながら跳ね起きるように姿勢を正した。
ガタンゴトン、ガタンゴトン・・。
電車は依然として真っ暗な地下トンネルの中を一定の速度で走り続けていた。
岡田は違和感を覚え、慌てて腕時計の文字盤を見た。
「一時十五分・・? なに・・!?」
乗車してからすでに一時間半以上が経過していた。
関町駅どころか、終点駅である「西新井駅」への到着予定時刻すら過ぎ去っていた。
終点まで行って折り返したとしても、こんな深夜まで電車が走っているはずがない。
岡田は背筋に氷を押し当てられたように青ざめ、車内を見回した。
車内には、岡田のほかに十数人の乗客がシートに深く座っていた。
乗客たちは全員、首を深く前へ折り曲げていた。
無言で足元のアスファルト床をじっと見つめていた。
スマートフォンを操作している者も、隣の人間と喋る者も一人もいなかった。
車内には人の息遣いすら感じない。
不気味なほどの無音が漂っていた。
精巧に作られた人形たちが並べられているかのような静寂だった。
誰一人として身じろぎ一つしなかった。
彼らの胸は凍りついたように静かで、息の動きひとつ見えなかった。
ザザザ・・ガガガ・・。
頭上のスピーカーから、激しい静電気ノイズが部屋中に響き渡った。
機械的な合成音声のアナウンスが、途切れ途切れに流れてきた。
『まもなく・・終点・・「黄泉ヶ原」・・「黄泉ヶ原」・・お降りのお客様は・・お忘れ物のないよう・・』
「黄泉ヶ原・・? そんな駅、あったっけ?・・」
岡田は立ち上がり、ドアの上にある電子路線図を見上げた。
路線図の青いLEDラインは、本来の終点駅のさらにその先で赤く点灯していた。
黒い線で手書きされたような奇妙な駅名、「黄泉ヶ原」で。
その文字はまるで滲んだ墨で書かれたように歪んでいた。
それは何か恐ろしい気配を放っていた。
三
プシュー・・。
電車が緩やかにスピードを落とし、重い空気音とともに自動ドアが開いた。
ホームの湿った空気が車内へ一気に流れ込んできた。
ツンとする腐葉土と古びた金属が焦げたような、冷たく不快な悪臭が満ちていた。
空気は異様なほど重く、息を吐き出すたびに白い気体が口元から薄く広がった。
ドアの向こう側に広がるホーム。
そこは白い明るい蛍光灯ではなかった。
天井の古い裸電球がポツン、ポツンと不気味に明滅していた。
湿った暗い地下ホームのようだった。
壁のコンクリートは黒く煤けている。
駅名標の看板には文字が書かれておらず、真っ黒なペンキで塗りつぶされていた。
壁の隙間からは湿った水滴がポタリ、ポタリと音を立てて垂れていた。
ホーム全体が、見捨てられた廃墟のような雰囲気を漂わせていた。
車内の十数人の乗客たちは、まるでロボットのように一斉に立ち上がった。
カチッ、カチャ。
全員が無言で無表情だった。
靴音すら立てずに揃った歩調で自動ドアを通りホームへ降りて行った。
彼らの足元からは、足音ひとつ聞こえてこなかった。
岡田は恐怖で心臓が破裂しそうになっていた。
一人残される恐怖に耐えきれず、乗客たちについてホームへ降り立った。
プシュー・・カチャン。
自動ドアが静かに閉まった。
電車は照明を完全に消し、暗いトンネルの奥へと滑るように走り去っていった。
電車が去った後のホームには、深い静寂と重い悪臭だけが取り残された。
四
暗いホームに残されたのは、降り立った乗客たちと岡田だけだった。
人々は周りを見回すこともなく、一列の長い鎖のようになって、地上へ続く階段を静かに歩いた。
その歩調は完璧に同調していた。
不気味なほど乱れることがなかった。
岡田は恐怖を抑えきれず、すぐ前を歩いているスーツ姿の男性の肩を後ろから掴んだ。
「すみません! ここはどこですか?! 関町駅へ戻る電車は出ますか!」
男性がゆっくりと首をこちらへ振り返った。
「うわあああっ!」
岡田は絶叫し、思わず手を放して後ろへ転倒した。
振り返った男性の顔。
そこには、目も、鼻も、口もなかった。
ツルリとした白い皮膚だけが顔一面を覆っていた。
中央に小さな空洞の穴が開いているだけだった。
その穴の奥から、冷たい風がひゅーひゅーと音を立てて漏れ出していた。
乗客たちが一斉に足を止め、顔のない頭部をクルリと岡田の方へ向けた。
十数人の顔のない人間が一斉に自分を見つめていた。
岡田は這いずるようにして立ち上がった。
地上へ続く階段に向かって全力で駆け上がった。
心臓が狂ったように脈打ち、足がもつれそうになった。
必死で階段のステップを駆け上がった。
階段の踊り場の陰。
古い自動改札機のすぐ脇の暗がり。
黒いロングコートを羽織った背の高い男が一人、静かに佇んでいた。
男は、恐怖でうろたえる岡田を、深い闇の中からじっと見つめていた。
顔は深々とした闇に覆われて見えない。
底知れぬ冷たい視線が一直線に伝わってきた。
五
岡田は電源の落ちた古い金属改札機を必死で飛び越えた。
「地上出口」と書かれた案内板の先の重い鉄製の扉に取り付いた。
鉄扉は固く閉ざされていたが、岡田は全身の体重をかけて体当たりした。
キーッ・・ガシャン!
体当たりするようにして鉄扉を押し開け、外へ飛び出した。
「助かった・・!」
岡田は膝に手をつき、激しく喘ぎながら外の空気を吸い込もうとした。
周囲を見回した岡田の思考が、完全に停止した。
自分の知っている都会の街並みはなかった。
ビルも、道路も、街灯も、コンビニもなかった。
底なしの黒い霧と冷たい雨が激しく吹き荒れる、完全な「無」の世界だった。
何一つとして遮るもののない、黒い虚無の空間だった。
足元のアスファルトは途切れ、暗い空間の中に自分の身体だけがポツンと浮いているかのようだった。
足を踏み出せば、そのまま無限の暗闇の中へ落ちていってしまいそうな恐怖。
「嘘だろ・・家は・・街はどこへ行ったんだ・・!」
岡田がパニックになって後ろを振り返った。
駆け上がってきた地下鉄の出口も、鉄扉も、階段もすべて消失していた。
ただ底なしの暗闇と冷たい雨が広がっていた。
果てしない暗闇と冷たい雨の中。
どこか遥か遠くの底から、ガタンゴトン・・ガタンゴトン・・と音が聞こえた。
二度と戻ることのできない地下鉄の走る音が、永遠に響き続けていた。




