第19話 交差点
一
午前八時十五分。
坂口は毎朝同じ時刻に、自宅アパートから徒歩五分の場所にある「関町三丁目交差点」の信号待ちの列に並んでいた。
三十五歳の坂口は、中堅の不動産会社で賃貸物件の契約営業を担当している。
この交差点を渡って地下鉄の駅へ向かう道のりは、過去六年間変わることのない日常のルーティンだった。
関町三丁目交差点は四本の大きな幹線道路が交差し、路線バスや大型トラックが行き交う交通量の非常に多い場所だった。
朝の通勤ラッシュ時には数百人のサラリーマンや学生、買い物の主婦たちが歩道に固まって信号待ちをしていた。
角にある居酒屋の看板、古びたパチンコ店のネオン、都営バスの停留所。
大型車両が排気音を立てて走り抜け、湿ったアスファルトの路上には朝の冷たい空気が重く滞留していた。
排気ガスの匂いと、信号待ちをする人々の白い吐息が混ざり合う、都会の典型的な朝の景色だった。
坂口は、ポケットに両手を突っ込みながら、信号が青に変わるのをただ静かに待っていた。
過去数年間にわたって毎朝この交差点で必ず目にする人物がいた。
彼女は、いつも、対岸の横断歩道の先から、人ごみを割って歩いてくる。
薄いベージュのトレンチコートを着た三十代ほどの女性。
歩行者用信号が点滅を開始し、両側の歩道から人々が一斉に歩き出すタイミング。
坂口と女性は、いつも横断歩道の中央付近で静かにすれ違っていた。
女性は伏し目がちにまっすぐ前だけを見つめて歩いており、坂口と視線が合うことも、言葉を交わすこともなかった。
肩まで伸びた黒い長髪を朝風になびかせ、足音もなく滑るように歩くその佇まい。
坂口は密かに毎朝の慣れ親しんだ日常の風景の一部として認識していた。
どんなに大雨の日でも、彼女はいつも同じ薄いベージュのトレンチコートを羽織っていた。
そのトレンチコートのボタンは一番上まで固く留められ、彼女の周囲だけが時間が止まっているかのような不思議な静けさを漂わせていた。
その女性の名前も、どこへ向かっているのかも知らなかった。
ただ毎朝すれ違っているだけの、名前のない存在だった。
二
十月十五日、木曜日の朝。
空は低い灰色の雨雲に一面覆われ、いまにも冷たい雨が降り出しそうな薄暗い朝だった。
路上を吹き抜ける秋風が、坂口の着ているスーツの裾を冷たく揺らしていた。
午前八時十五分。
坂口はいつものように関町三丁目交差点の北側の角に立ち、信号が赤から青へ変わるのを静かに待っていた。
周囲には折りたたみ傘を手にした通勤客たちが身を寄せ合い、歩行者用信号機の電子ピヨピヨ音だけが悲しげに響き渡っていた。
横断歩道のアスファルトは昨夜の雨で濡れ、白線が青白い街頭の光を反射していた。
向かい側の南側の対岸の歩道。
いつもの薄いベージュのトレンチコートを着た彼女が、人ごみの最前列に静かに立っていた。
彼女の視線は、やはり伏し目がちに足元のアスファルトへ向けられていた。
歩行者用信号が青に切り替わった。
坂口は周囲の歩行者とともにアスファルトの白線の上へ一歩を踏み出し、対岸に向かって歩き始めた。
対岸からも人々の群れが一斉に動き出し、横断歩道の中央付近で二つの人の波が交差し始めた。
周囲のサラリーマンたちの靴音が、アスファルトの上でカツカツと重く響いていた。
いつものように、トレンチコートの女性が正面からまっすぐ歩いてくる。
坂口は女性とスムーズにすれ違うため、わずかに身体を右側へかわそうとした。
三
すれ違うまさにその瞬間だった。
女性が突然歩みを止め、坂口の右腕の袖を強い力でガシッと掴んだ。
氷のように冷たい細い手指の感触が、厚手のスーツの生地越しに坂口の腕へ深く食い込んできた。
身体が強い力で後ろへ引き戻されるような強い衝撃があった。
「え・・?」
坂口は驚き、足をとめて女性の顔を見つめた。
女性はゆっくりと頭部を持ち上げ、坂口の目を真っ直ぐに直視した。
その瞳には焦点が全く合っておらず、精巧なガラス玉のように深く静まり返っていた。
彼女の顔には血の気が一切なく、まるで蝋人形のような白い皮膚をしていた。
女性が口元を坂口の右耳へ寄せ、低く湿った声で小さく囁いた。
「今日は、こっちへ来ちゃ駄目」
坂口がその言葉の意味を理解できず呆然とした、次の瞬間。
キキキキキーーーッ!
猛烈な金属の摩擦音と、悲鳴のような鋭いブレーキ音が交差点全体に爆音となって轟いた。
坂口の目の前、わずか二メートル先の横断歩道。
巨大なダンプカーが赤信号を無視して交差点へ猛スピードで突入してきた。
ダンプカーは、横断歩道を渡っていた歩行者の群れの中へそのまま激しく突っ込んだ。
ズドーン! ガシャーン!
悲鳴と怒号、砕け散るガラスと金属の破壊音が激しく響き渡った。
歩行者たちが空中へ跳ね飛ばされるのが見えた。
ダンプカーの巨体が横断歩道の上をなぎ払うように滑った。
すさまじい煙とガソリンの匂いが立ち込めた。
坂口が女性に腕を掴まれて足を止めていなければ、確実にその直撃を受け命を落としていた。
四
交差点は一瞬にして血と悲鳴が飛び交う地獄絵図と化した。
「警察を呼べ!」
「救急車!」
狂乱する人々の中で、坂口は腰を抜かしたように濡れたアスファルトの上に座り込んでいた。
全身から冷や汗が大量に吹き出し、激しい心臓の鼓動が胸を打ち鳴らしていた。
手足がガタガタと震え、立ち上がることすらできない。
「あの人は・・?」
坂口は自分を救ってくれたトレンチコートの女性を探した。
震える身体を起こして周囲を見回した。
横断歩道の上には倒れ込む人々とおびただしい血溜まりが広がっていた。
事故を起こしたダンプカーのフロントガラスが粉々に砕け散っていた。
逃げ惑う人々、泣き叫ぶ声、車のクラクションの音。
助けてくれた女性の姿は、悲鳴が飛び交う混乱の中に見当たらなかった。
坂口の視線が、交差点の脇にある歩道橋の大きな日陰の暗がりに止まった。
歩道橋の影の中。
黒いロングコートを羽織った背の高い人物が一人、静かに佇んでいた。
その黒いコートの人物は、惨状にパニックを起こす群衆の中で微動だにせず、ただ静かに坂口の顔をじっと見つめていた。
顔の全貌は深々とした影になって見えなかった。
底知れぬ冷たさが視線から一直線に伝わってきた。
人間の姿をしているが、人間ではない何か異様な気配。
警察官と救急車が駆けつけ、現場は黄色い規制テープで封鎖された。
坂口は事故の目撃者として警察の事情聴取を受けた。
怪我がないことを確認された後、足の震えが止まらないまま自宅アパートへ引き返した。
五
翌朝。
事故の恐ろしいショックで一晩中眠れぬ夜を過ごした。
午前八時十五分、吸い寄せられるように再び関町三丁目交差点へ足を運んだ。
体の節々が重く、目の下には黒いクマが浮かんでいた。
事故現場の路上には色とりどりの花束やペットボトルの水が供えられ、アスファルトには黒い生々しいブレーキ痕が残っていた。
歩行者用信号が青に変わり、人々が静かに横断歩道を渡り始める。
坂口は対岸の歩道を見つめ続けた。
あの日すれ違ったトレンチコートの女性の姿はどこにも見えなかった。
対岸には、ただ見知らぬ人々が行き交っているだけだった。
坂口は警察の事故捜査のニュース記事をスマートフォンで検索した。
全身の血の気が一気に引いていくのを感じた。
事故で巻き込まれた被害者のリスト、現場の防犯カメラの解析結果。
事故の直前、坂口の腕を掴んで足を止めさせた女性は、防犯カメラの映像のどこにも記録されていなかった。
坂口は誰もいない空洞に向かって一人で突然足を止め、自ら事故を回避したように映し出されていた。
毎朝すれ違っていたあの女性は、この現実世界に存在していなかったのだろうか。
それとも、あの事故で命を落とすはずだった坂口を、誰かが別の狂った場所へ引きずり込んだのだろうか。
交差点の歩道橋の影。
あの朝、黒いロングコートの人物が立っていた場所には、今も冷たい秋風が吹き抜けているだけだった。
坂口は二度と対岸へ渡ることができなくなり、青信号が点滅する横断歩道の手前でいつまでも立ち尽くし続けていた。




