第18話 防犯アプリ
一
午後十時三十分。
田島は静まり返った会社のオフィスで、一人デスクのパソコン画面に向かい合っていた。
他の社員はすでに帰宅しており、広いフロアには天井の非常灯の薄暗い光と、田島のデスクのLEDスタンドの明かりだけが点灯していた。
パソコンの冷却ファンが低い音を立てて回り、キーボードを叩く乾いた音が無人のオフィスに虚しく響いていた。
IT企業のネットワークエンジニアとして働く三十七歳の田島は、都内の賃貸マンションの二〇五号室で一人暮らしをしていた。
先月、近所のマンションで悪質な空き巣被害が発生した。
強い危機感を覚えた田島は、自宅の防犯対策を強化するために、最新型のネットワークスマート防犯カメラ「ガーディアン・アイ」を購入して自力で設置したのだった。
「ガーディアン・アイ」は、超高画質の暗視カメラとAIによる高度な動体検知機能を備えた最新の防犯システムだ。
玄関の廊下とリビングの壁の二箇所に小型カメラを設置し、専用のスマートフォンアプリと常時連携させていた。
室内で人間やペットなどの動く「もの」が検知されると、即座にスマホへプッシュ通知が届き、リアルタイムのライブストリーミング映像と音声をどこからでも確認できる仕組みになっていた。
一人暮らしの静かな自室を遠隔で見守ることができる安心感があった。
田島は仕事の合間にアプリを開き、誰もいない自室の映像を時折確認するのを密かな日課にしていた。
部屋の防犯対策は完璧だった。
玄関ドアには強固な二重鍵とドアチェーン、サムターン回し防止カバーを取り付けた。
窓には防犯フィルムとクレセント錠を備え付けていた。
自室の防犯性能に、田島は何の疑いも持っていなかった。
デスクの上に置いてあったスマートフォンが、ブブッと短く振動した。
画面が明るく発光し、電子通知音が響いた。
スマートフォンに防犯カメラからメッセージが届いていた。
『ガーディアン・アイ:リビングカメラ[人物を検知しました]』
二
田島は作業する手を止め、首を小さく傾げた。
一人暮らしの自宅マンション。
今朝出勤した際、玄関の二重鍵はしっかり施錠した。
窓のクレセント錠も完璧に閉めて会社へ出てきたはずだった。
合鍵を持っている親族や友人は一人も存在しない。
「外の街灯の光の加減か、小さな虫による誤作動・・?」
田島はスマホを手に取り、ガーディアン・アイのメッセージを指でタップして起動した。
画面上に「接続中・・」のローディングマークがぐるぐると回った。
すぐに、自宅リビングのリアルタイム映像が映し出された。
室内は真っ暗なため、カメラは自動的に赤外線暗視モード(ナイトビジョン)に切り替わっていた。
画面全体が、緑色がかった独特のモノクロ映像で表示されている。
画面に映る我が家のリビング。
中央のローテーブル。
使いかけのマグカップ。
壁際の液晶テレビ。
窓際の観葉植物。
出勤した時のまま、家具の配置に何の異常も感じられない。
部屋はただ静まり返っているように見えた。
「虫か何かがカメラの前を横切っただけのか・・」
田島が安堵してアプリを閉じようとした。
そのとき。
画面の中央。
AIが人間を認識したことを示す、黄色の四角い枠がパッと自動生成された。
黄色い枠は、リビングのテレビのすぐ脇にある、何もない空洞の空間を正確に囲んでいた。
画面の下部に、緑色のシステムログが表示された。
『人物認識率:98%』
三
田島の顔から血の気がすーっと一気に引いた。
何も存在しないはずの、テレビの脇の白い壁際。
そこに、AIは98%の確率で「人間」が存在していると判定していた。
黄色い枠が、画面の上でゆっくりと滑るように動き始めた。
画面の中で、何もなかったテレビ脇の暗がり。
そこから黒く太い影がぬるりと床の上に這い出してきた。
「うわ・・!」
田島は喉の奥で引きつった悲鳴を漏らした。
カメラのレンズが、アプリの遠隔操作を行っていないにもかかわらず、ウィーン・・ウィーン・・と重い駆動音を立てて自発的に首を振り始めた。
カメラの画角が水平にゆっくりと旋回した。
部屋の奥にあるソファの陰の暗闇をクローズアップしていく。
そこに、何かがいた・・。
ソファの後ろの狭い隙間。
全身の関節をあり得ない方向へ折りたたむようにして、四つんばいで小さくしゃがみ込んでいる人間のシルエットだった。
そのシルエットは、ゆっくりと頭を上へと持ち上げた。
暗視カメラの赤外線照射ライトを反射して、影の顔の中央にある二つの瞳が、白くギラリと不気味に発光した。
四
田島は恐怖のあまりデスクから立ち上がった。
スマホを握りしめたままオフィスを飛び出した。
エレベーターを待ちきれず、非常階段を転がるように駆け下りて夜の街へ出た。
路上でタクシーを拾い、運転手に自宅マンションの住所を叫ぶように伝えた。
後部座席で身体を小さく丸めながら、田島は震える手でスマホの画面を必死で見つめ続けた。
アプリの画面上で、プッシュ通知が狂ったように連続して届いた。
『ガーディアン・アイ:玄関カメラ[内側からドアノブが操作されました]』
『ガーディアン・アイ:廊下カメラ[人物が移動中]』
『ガーディアン・アイ:双方向音声通話が自動開始されました』
ネット回線を通じて、スマホのスピーカーから自動で音声が再生され始めた。
ザザザ・・ザザザ・・。
激しい静電気ノイズのような音。
そのノイズの奥から、誰もいないはずの田島の自室の空気音が響いてきた。
ヌチャ・・ペタ・・ 。
フローリングの床の上を、濡れた裸足がゆっくりと擦れて歩く生々しい音。
コツ・・コツ・・。
何か硬い爪のようなものが、床を軽く叩く音が混ざっていた。
そして、スマホのスピーカーから、田島の耳元へ直接吹きかけるようにして音が出始めた。
はぁ・・はぁ・・。
荒く湿った、人間の生々しい吐息の音だった。
五
タクシーがマンションの前に停車した。
田島は運賃を運転手に押し付けるようにして払った。
夜のマンションの外階段を二階へ駆け上がった。
二〇五号室の玄関ドアの前に到着した。
ドアノブを固く握った。
鍵は、今朝出勤した時のまま二重鍵もチェーンも外から施錠されていた。
扉の隙間から、誰かが侵入した形跡はどこにも見当たらなかった。
田島は震える手で鍵穴に鍵を差し込み、二つの鍵を解錠した。
カチャリ。
カチャリ。
ドアを強く押し開け、室内の壁の照明スイッチを叩くように押した。
パッと明るい光が廊下とリビングを照らした。
田島はリビングへ飛び込み、室内を見回した。
誰もいない。
テレビの脇にも、ソファの後ろにも、人影はなかった。
我が家の静かな部屋があるだけだった。
「夢でも・・見てたのか・・?」
田島は深く息を吐き出し、胸を撫で下ろした。
手に握っていたスマホのアプリ画面へ、視線を落とした。
ガーディアン・アイのライブストリーミング画面。
画面には、明るい部屋の中央に立つ田島自身の姿が映った。
蒼白な顔でスマホを覗き込んでいる田島の姿。
天井のカメラからリアルタイムで映し出されている。
田島は首を傾げた。
画面の中の自分。
その自分自身の頭上の暗がり。
天井に取り付けられた防犯カメラの真下。
カメラのレンズを隠すように、何かが画角の中に映った。
天井から逆さにぶら下がる黒い男の影だった。
男の影は、天井から長手を伸ばした。
画面の中の田島の首元へ向かって・・静かに手を差し伸べた。
スマホの画面上に、最後の静かな通知が表示された。
『対象の特定が完了しました。新しい所有者にデバイスの全権限を譲渡します。』
部屋の照明が一瞬で消えた。
暗闇の中でカメラの赤外線ライトだけが白く光り続けていた。




