第17話 コインランドリー
一
午前一時十分。
長谷川は大きめのプラスチック製ランドリーバッグを右手に重そうに下げ、夜の静まり返った住宅街を歩いていた。
自室のアパートの古い全自動洗濯機が、深夜の脱水工程の最中にガタガタ、ガガガと激しい不気味な異音を立てて突然壊れてしまったのだった。
給水と排水のホースが外れ、洗濯用の白い泡と大量の冷たい水が勢いよくあふれ出し、狭い脱衣所の床一面が濡れ、脱水しきれていない大量の重い衣類が残された。
長谷川は真夜中に一人でバケツと雑巾を何度も往復させ、床の水気を必死で拭き取り、仕方がなく、アパートから徒歩三分ほどの場所にある二十四時間営業の無人コインランドリー「WASH&DRY関町店」へ向かっていた。
冷たい深夜の秋風が、長谷川の着ているグレーの厚手フード付きパーカーの生地を強く揺らす。
通り沿いの住宅はどこも明かりが完全に消え、街灯の黄色い光だけが濡れた舗装路面を静かに照らしていた。
長谷川は吐き出す息を白い煙のように夜空へ漂わせながら、重いバッグを持ち替えて足早に歩みを進めた。
システム開発会社での長時間のデスクワークによる激しい肩こりと背中の痛みが、重い荷物の振動とともにじんじんと体に響いていた。
深夜の一人歩きには、どこか世界から取り残されたような独特の心細さがあった。
角を曲がると、青白く眩しい蛍光灯の光を外へ放つコインランドリーの店舗が見えてきた。
店舗の前には自動販売機が設置され、青いLEDの光が路上を照らしていた。
透明な大型ガラス張りの自動ドアに近づくと、チーンという澄んだ電子音とともにドアが滑らかに左右へ開いた。
店内へ一歩足を踏み入れた瞬間、コインランドリー特有の重く温かい空気が長谷川の全身を包み込んだ。
粉末合成洗剤のツンとした刺激的な匂いと、ダウニーのような甘く人工的な香水調の柔軟剤の香り。
大型乾燥機の排気口から吐き出される、熱気を帯びた独特の湿った温風。
壁際に整然と並ぶ銀色の大型洗濯乾燥機が、深夜の静寂の中で規則的な低いモーター音を響かせていた。
店内には静電気を抑えるシート洗剤の自動販売機や、硬貨の両替機がポツンと並んでいた。
天井の防犯カメラの赤く小さなLEDランプが、チカチカと不気味に点滅している。
店内には人影が一つもなく、完全な無人だった。
長谷川は空いていた中央の五号機を選び、バッグから濡れたバスタオルや下着類、シャツなどを丁寧に放り込んだ。
ズボンのポケットから100円硬貨を取り出し、金属の投入口へチャリン、チャリン、と連続して投入した。
三十分間の標準洗濯・乾燥コースのボタンを押すと、ドラムが静かに回転を始めた。
二
長谷川は店内の壁際に設置された、黄色のプラスチック製長ベンチに腰を下ろした。
硬いベンチの感触が、疲れた腰に重く伝わってくる。
スマートフォンを取り出し、ニュースサイトの画面をぼんやりと指でスクロールしながら待ち時間を潰した。
液晶画面の光が、長谷川のやつれた顔を青白く照らし出していた。
店内に響くのは、長谷川が動かした五号機の「ゴトゴト、ゴトン・・」という重く滑らかな回転音だけだった。
ドラムの中で濡れた衣類がゆっくりと舞い上がり、丸いガラス面に当たっては下へと落ちていく。
時折、店舗の前を通り過ぎるトラックのヘッドライトの光が、ガラス窓を横切って店内の白い壁に長い影を落とした。
午前一時三十分。
五号機の残り時間が十五分を示した時だった。
ピピッ。
静まり返った店内に、突然甲高い電子音が響き渡った。
長谷川は驚いてスマホから視線を上げた。
電子音が響いたのは、長谷川が座るベンチのすぐ右側、壁の一番奥に設置された大型業務用乾燥機「七号機」だった。
七号機は、長谷川が店に入った時から電源が完全に落ちており、暗いドラムのまま静かに停止していたはずだった。
この深夜の店には長谷川以外、誰も入ってきていない。
自動ドアのチャイム音も鳴っていなかった。
センサーの故障だろうか、それともメイン基板の配線ショートによる誤作動だろうかと長谷川は首を傾げた。
七号機のデジタル表示パネルに、真っ赤なLEDの数字がパッと点灯した。
「45」
四十五分間の乾燥タイマーが、誰の手も借りずに自動でセットされた。
三
ウー、という低いモーターの起動音が店内に響いた。
七号機の巨大な金属ドラムが、猛烈な勢いで回転を始め直した。
ゴットン、ゴットン、ゴットン!
重い何かがドラムの内壁に激しく叩きつけられる、異常に大きな衝撃音が店内に木霊した。
長谷川は首を小さく傾げ、ベンチからゆっくりと立ち上がった。
「電気系統の誤作動・・? それとも誰かが遠隔で操作している・・?」
長谷川は不審に思いながら、吸い寄せられるように七号機の前に近づいた。
丸い強化ガラスの覗き窓。
内側の黄色いLEDライトが点滅するように照らし、高速回転するドラムの中身をくっきりと浮き彫りにしていた。
ガラス越しに見える、ドラムの中で激しく舞い上がっている衣類。
長谷川の瞳が、恐怖で大きく見開かれた。
回転しているのは、あまりにも見覚えのある衣類だった。
厚手のグレーのフード付きパーカー。
フードの先の白い紐が、長谷川の個人的な癖である独特の固結びで結ばれている。
右袖の肘のあたりに付いた、昔のバイクのオイル交換時に付着した落ちない黒い油の染み。
ネイビーの頑丈なチノパンツ。
右のバックポケットのフチが、長年の使用で少しほつれている。
長谷川は息を飲み、自分が現在身にまとっている服装を見下ろした。
グレーのパーカー。
右袖の黒い油染み。
ネイビーのチノパンツ。
ほつれた右のバックポケット。
色、素材、縫い目、汚れの位置まで、完全に一致していた。
長谷川が「今まさに着ている服」と全く同じ服が、ドラムの中で激しく叩きつけられながら回転していた。
そのパーカーは、三年前の誕生日に自分で買った一点物のアパレルブランド品であり、世界に二つと同じ汚れの配置が存在するはずのない服だった。
四
長谷川の手足から、血の気が一気に引いた。
カタカタと膝が震え、背筋に冷や汗が大量に吹き出した。
自分は今、服を着ている。
今夜コインランドリーに持ってきたランドリーバッグの中には、タオルと下着しか入れていない。
このパーカーとズボンは、自宅のタンスにも一着しか存在しないお気に入りの服だった。
なぜ目の前のドラムの中で、全く同じ服が洗われ、乾かされているのか。
長谷川は吸い寄せられるように、ガラス面に自分の顔を近づけた。
冷たい強化ガラスの向こう側から、強烈な熱気と湿気が伝わってきた。
ドラムの回転速度が、さらに上がっていく。
ゴットン! バシッ!
長谷川は決定的な異変に気づいた。
ドラムの中で回っている服の回転の仕方が、明らかに異常だった。
空洞であるはずのパーカーの首元や両袖、ズボンの両足の裾が、パンパンに太く膨らんでいるのだった。
まるで、人間が服を着たまま、全身の関節をあり得ない方向へ折りたたまれた状態で、ドラムの中に詰め込まれているような重い質量感。
骨が折れ曲がるようなミシッという重い音が、回転の合間に混ざっていた。
ドラムが回転して服がガラス面に叩きつけられるたび。
バシッ!
ガラスの内側に、濡れた黒い髪の毛の束と、血の気の引いた人間の白い皮膚が直接叩きつけられた。
長谷川は呼吸を止めた。
服の隙間から見えたのは、折れ曲がった人間の首と、人間の耳だった。
五
「ヒッ・・!」
長谷川は恐怖のあまり悲鳴を上げ、後ずさりした。
店から今すぐ逃げ出そうと、自動ドアの方へ振り返った。
足が、金縛りに遭ったように床に張り付いて一歩も動かなかった。
全身の筋肉が固まり、指一本動かすことができない。
七号機の表示パネルの数字が、恐ろしい速さでカウントダウンを進めていく。
「03」
「02」
「01」
「00」
ピー、ピー、ピー。
乾燥終了を告げる電子音が、無人の店内に虚しく響き渡った。
ドラムの回転が緩やかに停止した。
カチャリ。
重い丸型ドアの金属ロックが、自動で解除された。
プシュー・・。
ドラムの中から、生温かく湿った、洗剤と生臭い血の匂いが混ざった独特の温風が漏れ出してきた。
丸型のドアが、内側からの圧力に押し出されるようにして、ゆっくりと外側へ開いた。
暗いドラムの開口部。
中から、濡れたグレーのパーカーを着た「何か」が、折りたたまれた異常な姿勢のまま、ヌルりと頭を外へ覗かせた。
ドラムから出てきたその顔。
目と口を大きく見開いた、長谷川自身の顔だった。
ドラムの中の長谷川が、濡れた顔をゆっくりと上げ、本物の長谷川をじっと見つめた。
ドラムの奥から、湿った生の声が聞こえた。
「君の番だよ」
自動ドアのチャイムが鳴り響き、店舗の明かりが完全に消え去った。




