第16話 深夜の病院
一
午前二時十五分。
佐々木はナースステーションの古びたパイプ椅子に腰を下ろし、青白い液晶の電子カルテ画面を見つめながらキーボードを叩いていた。
築四十年の古い鉄筋コンクリート造りの総合病院、「東都総合病院」。
佐々木が今夜の夜勤を担当しているのは、四階にある内科と緩和ケアの混合病棟だった。
長時間の夜勤業務による疲労が、佐々木の重い瞼と肩に重くのしかかっていた。
ナースステーションの室内には、病院特有の重く不快で複雑な匂いが滞留していた。
皮膚や器具の消毒に使われる消毒用エタノールのツンとした強い刺激臭。
医療用使い捨てラテックス手袋の独特のゴム臭。
定時のおむつ交換用ワゴンから漂う、わずかに甘く湿った排泄物の臭気。
さらに、夕食時に配膳されたミキサー食の残香と、古い加湿器から吹き出すカルキ臭。
いくつもの匂いが混ざったその空気には、深夜の病院勤務らしい重苦しさがあった。
卓上に並ぶ大型親機モニターから、規則的な電子音が低く静かに聞こえてくる。
ピコン・・ピコン・・。
心重疾患を抱える患者の生体情報モニターが刻む、心電図の脈拍音だ。
緑色の波形ラインが、暗い画面の上を左から右へとなだらかに規則正しく流れていく。
佐々木は夜間の定時点時点滴の準備と、注射薬の混注作業に取りかかった。
ステンレス製の処置台の上に透明な輸液バッグを何本も並べる。
処方箋と患者のIDタグを二重に慎重に照合する。
鋭い注射針をゴム栓に深く刺し込み、輸液チューブを接続していく。
クレンメと呼ばれる流量調整用の小さなプラスチック部材を指先で滑らせ、チューブ内の気泡を丁寧に抜いていく。
ポタリ、ポタリ。
輸液セットの透明な点滴筒の中に、生理食塩水が一定のテンポで静かに落ちていく。
消灯時間を過ぎた病棟の共用廊下は、深い暗闇と静寂に包まれていた。
防犯用の薄暗い足元灯だけが、長いリノリウムの床を細長く青白く照らしている。
病室の奥から、時折、患者の重い寝息や乾いた咳き込みの音、酸素濃縮器のシュコーという低い駆動音がかすかに聞こえてきた。
佐々木は小型のペンライトと巡視用記録板を手に取り、静まり返った廊下へ慎重に歩み出した。
二
病棟の廊下の一番奥。
突き当りの暗い角に位置する「四一三号室」。
その部屋は、現在完全な空室となっていた。
先週まで、肺癌の末期症状で長期間入院していた八十代の男性患者、小林さんが入居していた。
小林さんは生前、夜間になると激しい呼吸苦への強い不安から、毎晩のように何度もナースコールを連打する患者だった。
「看護師さん、苦しい。点滴の速度を速めてくれ」と、小林さんは涙を浮かべながら佐々木の手を固く握りしめて訴えていたものだった。
小林さんは先週の木曜日に亡くなった。
部屋のリフォームと消毒作業のため、医療用電動ベッドや液晶テレビ、木製の床頭台、心電図モニターなどの備品はすべて一時的に部屋の外へ搬出されていた。
室内は家具一つない、剥き出しのコンクリートと剥がれかけた壁紙だけの広い空洞となっていた。
部屋の厚い木製ドアには外から鍵がかけられ、「清掃中・入室禁止」の黄色い警告紙がテープで貼られていた。
午前二時四十五分。
佐々木は病棟の巡視を終えてナースステーションへ戻った。
カルテの記録を再開しようとした、その時。
ピンポン、ピンポン。
静まり返った病棟に、高質で甲高い電子チャイムの音が突然響き渡った。
ナースコールの呼び出し音だった。
佐々木は驚いて視線を上げ、壁に取り付けられた大型の表示パネルを仰ぎ見た。
赤く点滅するLEDの数字。
「413 コール」
佐々木は眉を強くひそめ、隣で点滴の準備をしていた同僚の看護師と顔を見合わせた。
「四一三号室・・? あそこ、小林さんが亡くなって完全に空室で誰も入っていないわよね」
同僚の看護師が不審そうに低く呟いた。
四一三号室は空室であり、壁のナースコール用ジャックも機器の配線ごと完全に取り外されているはずだった。
壁内部の老朽化した配線のショートによる電気系統の誤作動だろうか。
ピンポン、ピンポン。
チャイム音は止まることなく、一定の早いテンポで狂ったように鳴り続けていた。
三
佐々木はナースステーションの壁のフックから四一三号室のマスターキーを取り出し、ポケットにペンライトを突っ込んだ。
「ちょっと様子を見てくるわ。誤作動だと思うけれど」
佐々木はナースステーションを出て暗い廊下へ進んだ。
ナースシューズのゴム底が、湿ったリノリウムの床をキュッ、キュッ、と鳴らす。
消灯後の暗い廊下は、まるで光の届かない深いトンネルのように奥へと伸びていた。
左右の病室から漏れる患者たちの微かな呼吸音を聞きながら、最奥の四一三号室へ足早に近づいていく。
四一三号室のドアの前に到着した。
ドアノブを固く握る。
鍵がかかっており、ドアノブは硬く固定されて一ミリも動かなかった。
誰かが勝手に侵入した形跡はなかった。
佐々木は鍵穴にマスターキーを差し込み、右へ回した。
カチャリ。
重い金属の解錠音が暗い廊下に寂しく響いた。
ドアノブをゆっくり回し、扉を内側へ押し開ける。
部屋の中は、完全な真っ暗闇だ。
佐々木はペンライトのスイッチを入れ、強い白い光の筋を室内へ向けた。
ベッドも、椅子も、床頭台もない、広い空洞の室内。
窓のブラインドが下ろされ、外の街灯の光すら届かない。
ペンライトの丸い光が、何もない冷たい床と壁を虚しく照らし出す。
佐々木は光を壁のコンセント口へ向けた。
壁に取り付けられた、白い樹脂製のナースコール接続ジャック。
そこから一本の古い灰色のコードが垂れ下がっていた。
コードの先の、プラスチック製の子機ボタン。
何もないコンクリート床の上にポツンと落ちていたそのボタン。
誰かに押し込まれたかのように、カチリと深く凹んでいた・・。
四
佐々木の手先から、血の気が一気に引いた。
撤去されたはずのナースコールのコードが、なぜ壁に接続されているのか。
誰が、何もない空室の床でこのボタンを押したのか。
「機械の・・接触不良の誤作動よね・・」
佐々木は恐怖を打ち消すように、自分に言い聞かせるように呟いた。
使い捨て手袋をした手でコードのプラグを掴み、壁のジャックから力任せに引き抜いた。
パチン。
コードが抜け、ボタンの赤い点滅ランプが消えた。
佐々木は急いで部屋を出て、ドアを閉めて鍵をかけ直した。
足早にナースステーションへ戻った。
ナースステーションの自動ドアを潜った、その瞬間だった。
ピンポン、ピンポン!
親機モニターから、先ほどよりも高い音量のチャイム音が激しく鳴り響いた。
壁の表示パネル。
「413 音声通話中」
コードを壁から完全に引き抜いたはずの四一三号室。
音声通話の回線が勝手に接続されていた。
親機モニターのスピーカーから、ザザザ・・という砂嵐のようなノイズ音が流れ始めた。
続いて、ノイズの奥から音が聞こえてきた。
ゼエ・・ゼエ・・。
喉にタンが深く絡んだような、猛烈に苦しそうな喘息のような息遣い。
『看護師さん・・看護師さん・・』
ノイズ混じりのスピーカーから、掠れた老人の声が響いた。
『点滴が・・切れました・・。胸が・・苦しい・・早く・・交換して・・』
先週、この四一三号室で亡くなった、あの小林さんの声だった。
五
ナースステーションにいた看護師全員が、恐怖で息を呑み、その場で凍りついた。
スピーカーから聞こえる息遣いは、生々しく、荒く、耳元で囁かれているようだった。
「佐々木さん・・これ・・どういうこと・・」
同僚の看護師が蒼白な顔で佐々木を見つめた。
佐々木は恐怖で膝をガクガクと震わせながらも、ペンライトとマスターキーを握り締め直した。
「もう一度、確認しに行くわ。ついてきて」
同僚の看護師と二人で、暗い廊下を走るようにして四一三号室へ向かった。
部屋の前に到着した。
親機のスピーカーからは、今も「早く・・早く・・」という声が響き続けているはずだった。
佐々木は震える手でマスターキーを鍵穴に差し込み、鍵を開けた。
ドアを強く押し開ける。
ペンライトの光が、部屋の天井を照らした。
佐々木と同僚は、悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。
家具一つない、完全な空室の天井。
天井の中央にある、スチール製の点滴フック。
そこから、数本の透明な輸液チューブが、まるで黒い蛇のように巻きつきながら垂れ下がっていた。
チューブの先端。
針のないプラスチックの受口から、液体がぽたり、ぽたりと床へ落ちていた。
落ちているのは、透明な生理食塩水ではなかった。
黒くドロリとした、鮮血の塊だった。
床のリノリウムの上に、赤い液体の水たまりがじわじわと広がっていく。
そして、チューブが垂れ下がる空中の暗闇。
そこに、点滴を受けようと腕を伸ばすような、白く透き通った老人の腕のシルエットが、くっきりと浮かび上がっていた。
『早く・・交換して・・』
部屋の壁のスピーカーからではなく、佐々木たちの真後ろの暗い廊下から、生の湿った声が直接耳元で響いた。
深夜二時五十分。
静まり返った病院の四階病棟で、佐々木たちは動くこともできず、暗闇の中に響く点滴の滴る音を聞き続けていた。




