第12話 シェアサイクル
一
午後八時十分。
坂口は残業をようやく終え、駅から自宅へ向かうため、駅前のロータリー脇にあるシェアサイクルポートに立ち寄った。
都市のあちこちに設置された無人の電動アシスト自転車シェアリングサービス「モビリンク」。
坂口はコートのポケットからスマートフォンを取り出し、専用アプリのアイコンをタップして画面を操作した。
アプリ上のQRコードリーダーを起動し、金属製のポールに並ぶ一列の自転車のスマートロックにかざした。
カチャリ。
後輪の電子ロックが機械音を立てて自動で解除され、青白いLEDランプがピカッと点灯した。
坂口が選んだのは、鮮やかな赤いフレームの電動アシスト自転車だった。
金属フレームに刻まれた車体番号は「M-4028」。
黒い合成皮革のサドルの右側側面に、過去の利用者が引っ掛けたと思われる小さな爪状の擦り傷がついているのが特徴だった。
バッテリー残量メーターは、青いランプが五つすべて満タンに点灯していた。
坂口はハンドルをしっかり両手で握り、自転車に跨がって足元のペダルをぐっと強く踏み出した。
電動アシストモーターが低い作動音を立ててスムーズに前輪を駆動させる。
駅から自宅のアパートまでは、徒歩で二十分、自転車なら七分ほどの距離だった。
冷たい秋の夜風が坂口の頬を強く叩き、街頭の街灯の光が次々と頭上を過ぎ去っていく。
通り過ぎる乗用車のヘッドライトが、濡れたアスファルトの路面を眩しく照らし出していた。
駅前の喧騒が遠ざかり、静まり返った住宅街の暗闇が周囲に広がっていく。
坂口はペダルを軽快に漕ぎながら、今日の仕事の疲れを少しずつ解きほぐしていった。
自宅アパートから徒歩一分ほどの目と鼻の先にある、コンビニの駐車場に併設されたシェアサイクルポート。
坂口はそこに自転車のスピードをゆっくりと落としながら滑り込ませた。
指定された黄色い枠の中に前輪をきっちり収め、後輪の金属製鍵を手動で下へと深く押し下げる。
カチャリ。
ロックが機械的に完了し、ポケットの中のスマホに「返却手続きが正常に完了しました」というプッシュ通知が表示された。
利用料金の決済完了画面をスマホの画面上で念のため確認し、坂口はアプリを閉じた。
坂口は徒歩でアパートへ戻り、自室の二〇一号室の鍵を開けた。
温かいシャワーを浴び、明日の仕事に備えて深夜十一時にはベッドに入って目を閉じた。
いつもの、何の変化もないありふれた通勤の帰宅風景だった。
二
翌朝、午前七時三十分。
坂口は出勤のため、黒い革靴を履いて部屋の重い鉄製ドアを開けて廊下へ出た。
玄関ドアのすぐ前の狭いコンクリート廊下。
そこに、一台の赤い自転車がぽつんと佇むように置かれていた。
坂口は足の動きをピタリと止めた。
昨日乗った、あのモビリンクの電動アシスト自転車だった。
赤いフレームの車体番号「M-4028」。
サドルの右側についた、あの小さな引っかき傷。
フレームの泥除けについた泥の汚れまで、昨日乗った車体と完全に一致していた。
紛れもなく、昨夜コンビニのポートへ確実に返却完了したはずの車体だった。
後輪の電子ロックはしっかりと施錠されたまま、カギがかかっていた。
「なんでこんなところに・・?」
坂口は首を小さく傾げ、呆然と佇んだ。
コンビニのポートまでは、徒歩一分ほどの距離がある。
誰かが昨夜、ポートから鍵のかかった重い電動自転車をそのまま持ち上げ、わざわざ坂口の二階の部屋のドアの前まで運んで放置したのだろうか。
悪質な嫌がらせか、誰かの不気味な悪戯だと思った。
しかし、バッテリーが搭載された頑丈な電動自転車は、重量が二十キログラム以上もある。
そんな重い鉄の塊を抱え上げ、狭く急な外階段を二階まで上ってくるなど、常識では考えられない労力だった。
坂口は鍵のかかった重い自転車を両手で持ち上げるようにして、腰を痛めそうになりながら急な外階段を下りてコンビニのポートへ運んだ。
ポートの空き枠にしっかりと戻し、そのまま駅へと向かった。
朝の忙しい時間に無駄な労力を使わされ、坂口は苛立ちを覚えた。
三
その日の夜、午後九時。
坂口は仕事帰りに、再び駅から別の青いフレームのシェアサイクルを借りて帰宅した。
今夜は昨日の赤い自転車を意識的に避け、わざわざ別の車体を選んだ。
アパート近くのコンビニポートで確実に返却完了の操作を行い、ロックの動作音とスマホアプリの返却完了通知を画面で確認した。
自分の目とスマホの画面で、二重にも三重にも返却の成功を確かめた。
翌朝。
ドアを開けると、玄関の真ん前に「M-4028」の赤い自転車が置かれていた。
二日連続。
青い自転車を借りたはずなのに、昨日の赤い自転車「M-4028」が、返却したはずのポートから再び姿を消し、坂口の部屋の玄関ドアの前に正確に戻ってきていた。
坂口は背筋に冷たい氷を直接押し当てられたような強い戦慄を覚えた。
スマホを取り出し、手を震わせながらモビリンクの公式利用履歴アプリを開いた。
昨夜の走行履歴のタイムライン。
「利用開始:21時15分(駅前ポート)」
「利用終了:21時23分(コンビニ前ポート)」
ここまでは坂口自身の実際の利用記録だった。
その下に、見たこともない恐ろしい履歴が追加で残されていた。
「利用開始:03時14分(コンビニ前ポート)」
「利用終了:03時18分(練馬区関町北2-4-1)」
住所の場所は、坂口が住んでいるアパートの正確な部屋番号まで含めた番地だった。
深夜三時十四分。
坂口が自室のベッドで深く眠りについていた時間帯。
何者かがアプリを遠隔操作し、ポートから自転車を借りて、坂口のアパートまで乗りつけて返却していた。
坂口の登録クレジットカードアカウントで、深夜に数百円の自動決済が行われていた。
履歴には、坂口自身の名前がはっきりと記載されていた。
四
坂口は恐怖で指先をカタカタと震わせながら、モビリンクのカスタマーサポートセンターへ電話をかけた。
「私のアカウントが不正利用されているかもしれません。深夜に身に覚えのない利用履歴があるんです」
オペレーターの男性が履歴データとGPSのリアルタイム追跡データを詳細に照会した。
「坂口様、確認いたしました。該当の車両M-4028ですが・・深夜三時の利用時のGPS移動ログが少し特殊な動きをしております」
「特殊な動き、ですか?」
「はい。アプリ上の通常の解約操作は行われておらず、後輪の鍵がかかったままの状態で、ポートから坂口様のご自宅の玄関前まで・・直線距離で移動しております」
「直線距離・・?」
「速度は時速五キロ。乗車して道路や曲がり角を走った軌跡ではなく、アパートの建造物や壁、フェンスを完全に無視して、一直線に坂口様のお部屋に向かってそのまま平行移動しています」
オペレーターの声が、徐々に冷たく不気味なトーンを帯びていく。
「また、解錠の無線信号を発信しているIPアドレスですが・・現在、坂口様がお持ちのスマートフォン端末から直接送信されております」
電話がプツリと静かに切れた。
坂口は息を呑んだ。
自分自身が、眠っている間に無意識にスマホを操作し、あの自転車を部屋へと呼び寄せているというのか。
それとも、自分の中に何か別の意思が存在しているのだろうか。
五
その夜。
坂口は自室の玄関ドアの鍵を二重にかけ、頑丈なドアチェーンもはめた。
部屋の外には一切出ず、スマホの電源も完全に落としてデスクの上に置いた。
バッテリーも抜き取りたいほどの恐怖だった。
午前三時ちょうど。
静まり返った自室の中。
暗闇の中で、デスクの上のスマホの画面が、電源が入っていないはずなのにパッと青白く強く発光した。
電子音の着信通知音が、誰もいない部屋に響いた。
『モビリンク:予約された車両が到着しました』
直後。
部屋の玄関ドアの向こう側から、重い金属音が聞こえた。
ガコン、ガコン。
重い車輪が共用廊下のコンクリートを転がる音。
そして、ドアノブが静かに下がり、鍵がかかっていたはずの玄関ドアが、外からゆっくりと内側へ押し開けられた。
チェーンロックが音もなくスルスルと滑り落ちる。
開いたドアの暗い隙間。
暗闇の廊下から、あの赤い自転車「M-4028」が、ゆっくりと部屋の中へ進入してきた。
誰も乗っていない。
誰も押していない。
左右のペダルが、カサカサと音を立てて逆回転していた。
カチャリ。
後輪の電子ロックが、部屋の中で自動解錠された。
緑色のLEDランプが、暗い部屋の中で怪しくチカチカと点滅する。
サドルの上に、見えない何かがズシリと体重をかけて腰を下ろしたように、サドルの黒いクッションが深く沈み込んだ。
ペダルが力強く前方向へ回転を始め、車輪が畳の上を滑るようにして、ベッドの上で恐怖に固まる坂口へ向かって真っ直ぐに進んできた。
深夜の密閉された部屋で、自転車のヘッドライトが、坂口の蒼白な顔を白く照らし続けていた。




