第5話 ヘッドゴート
陽光が燦々と降り注ぐ草原を踏み締め、僅かに盛り上がった丘の上に立った二人。そこで足を止め、周囲を大きく見渡した。
「全然見つからねえな。もう、どっかに逃げちまったんじゃねえのか?」
気怠そうにノイルが呟いた途端、ルフィアが「見つけた」と、薄い声で囁き、ノイルの肩を掴んで静かにしゃがむように指示。
瞬時に緊張感が張り詰め、心拍数が上がる。
「どこにいるんだ?」
声を潜ませて尋ねると、ルフィアは「あそこ」と言って、遠方に映る木を小さく指す。
ノイルが目を細めて凝らすと、鹿型の能獣『ヘッドゴート』が木陰で草をむさぼっていた。
全身に青い毛皮を纏い、頭部からはくるくる、とねじれた立派な角が二本伸びている。その体格はノイルよりも一回りほど大きい。
「なんだ、まだまだ距離があるじゃねえか」
丘の上から見る鹿獣は、小指の爪程度のサイズに映っている。
安心したノイルが呑気に立ち上がろうとした途端、ルフィアが袖を掴んで阻止。
「先に見つかったら能力で攻撃力を溜められちゃうから、出来れば不意打ちを狙いたいの。気配に敏感だからそっと背後に回り込みましょう」
腰を屈めたまま後退を始めた二人は、丘を少し下り、死角から大きく回り込んで静かに接近した。
鹿獣に気取られない限界地点。距離にして、およそ一〇〇メートルまで接近した二人は、草原から飛び出した大岩の影に肩を寄せ合って身を隠す。
息を殺すノイルがそっと顔を覗かせると、草をむさぼっていた鹿獣は瞬時に食事を中断。頭部を持ち上げ、周囲の音を探るように耳をピクピクッと動かした。
「あぶねえ……。見つかるところだった」
薄い息だけで口先に呟くノイル。その姿を横目に映したルフィアは、やれやれと腰に差した二本の短剣を、右手は順手、左手は逆手に握った。
「合図したら同時にいくよ」
鹿獣の様子を見ながら囁いたルフィアは、ノイルの準備が整っているかを確認するように視線を移す。すると、ノイルは怯えたように空を見上げていた。
「ノイル?」
返事はなく、小さく空を指さすノイル。その青い瞳が映していたのは、頭上の空で静止する黒い影だ。逆光で明確に姿を確認できないが、ノイルはその影に違和感を覚えた。
「人から羽が生えてないか……?」
その言葉で、慌てて天を仰ぐルフィア。影を瞳に映したその途端、岩陰から凄まじい速度で飛び出し、鹿獣を目指して一直線に駆け出した。
「ルフィア!」
咄嗟に立ち上がり、様子を確認するノイル。
鹿獣は気配に気づき、瞬時に振り返る。だが、ルフィアの速度は既に間合いを踏み潰していた。
繰り出された二本の刃。その切っ先が鹿獣の首元を捕らえようとした、次の瞬間。
『ズドンッ!!』
上空から影が落ちた。
鈍い衝撃音が響き、ルフィアが風圧で押し戻される。
「ルフィア! 大丈夫か!」
後方で風圧に耐えながら声を上げたノイル。薄眼で状況を確認すると、ルフィアは体勢を立て直し、再び短剣を構えている。だが、その表情は険しく、額に汗を滲ませていた。
恐る恐る鹿獣に視線を移す。
「おい、どうなってんだ?」
そこに黒い影はなく、ヘッドゴートは禍々しい漆黒の靄に包まれていた。その体は徐々に肥大化し、靄が消散する頃には一回り程の大きさに。そして、その額の中心には、赤い石が埋め込まれていた。
「能石持ち、だと? なんでだ……」
通常個体だった鹿獣が、能石持ちへと変貌。違和感を覚えたノイルは、思い出したように上空を見上げる。そこには再び浮上した黒い影が。
その輪郭を視界の中心に捕らえた瞬間、黒い影は途轍もない速度で飛び去った。
「あいつの仕業なのか……」
直後、ルフィアが大声を上げる。
「来る!!」
慌てて鹿獣に視線を戻す。すると、二本のねじれた角が淡い光を放っており、今にも突進しそうな勢いで鼻息を荒げていた。
咄嗟に剣を引き抜き、顔の前で構えるノイル。その剣身を全身の震えが揺らす。
「くっそ……」
震えを止めようと抗うが、それが更に焦りを生み出し、激しく剣が震えた。
手元に視線を沈めるノイル。すると、前方から蹄の音が迫る。
ハッと視線を起こすと、鹿獣は手前にいるルフィアを無視して、ノイルへと猛進してきていた。
瞬時に地面を蹴り出し、鹿獣を狙うルフィア。強脚を生かして飛び掛かり、空中で鹿獣の背中を切り裂いて通過。だが、傷口は浅く、怯むことなく突進を続ける。
角が纏う靄は次第に膨張し、ノイルとの距離は瞬く間に詰まっていく。
(まずい……足が、動かねえ)
恐怖と焦りがノイルの自由を奪う。
瞬時に切り返し、青い背を追うルフィア。しかし、間に合わないのは明らかだ。
ノイルは瞬きを忘れ、迫りくる鹿獣を一点に見据える。その輪郭が視界を埋め尽くす寸前、素早く回転するような風切り音が響く。
『キュゥウウウッ!!』
仰け反るように悲鳴を上げた鹿獣。
ルフィアが咄嗟に投げた右の刃が、鹿獣の首裏を捕らえたのだ。
渾身の全力投剣は、猛進する勢いを奪う。
「ノイル逃げて!」
ルフィアの叫びで必死に足を動かし、岩陰に飛び込んだノイル。その直後、鹿獣が仰け反った勢いのまま、ノイルが隠れる岩へと頭突き。
角の硬い衝撃音が響き、大岩が粉砕。ノイルは風圧で吹き飛ばされ、ゴロゴロゴロッと地面に転がる。
「痛ってぇ……」
直撃は免れたが、全身打撲。痛みに耐えながら腕の力で体を起こす。
角の靄が消えた鹿獣は、埃を払うように頭を振り、再びノイルに狙いを定めた。
「走って!」
逃げるように指示したルフィアは、鹿獣の背後から切り付け、流れるように首元に刺さる刃を回収。足止めをするように鹿獣の正面に立ち塞がる。
膝を付いた状態で、ルフィアの逞しい背を眺めるノイル。その時、胸の奥にざわめきを覚えた。
(また守られる……。逃げるのか、仲間を置いて? くそダセえな、俺……)
臆病で情けない自身への虚しさ。それと同時に湧き上がったのは、弱い自分に対しての怒りだ。
ここで逃げたら、この先も二度と立ち向かえなくなる。
何故かそう感じたノイルは、覚悟を決めるように剣を握り直した。
ノイルを庇うためにその場で戦うルフィアは、能力の速度を最大限に生かすことが出来ておらず、全ての攻撃が浅い。だが、鹿獣に能力を貯めさせないために、絶え間なく攻撃を繰り返し、振り回す角と後ろ蹴りを回避しながら時間を稼ぐ。
現状、ルフィアが出来る精一杯だ。
「早く逃げてよ!」
その言葉がノイルの胸を突き刺す。その痛みを引鉄に、ノイルは鹿獣目掛けて駆け出した。
「うぉおおおおっ!!」
ノイルに気付いたルフィアは、その勇気を止めることなく、気を逸らすように道を開ける。まんまとルフィアに視線を移す鹿獣。
柄を強く握りしめたノイルは、がら空きになった鹿獣の左脇腹へと飛び込み、渾身の一撃を突き刺した。
『キュゥウウウッ!!』
剣身の半分ほど突き刺さり、大きく仰け反る鹿獣。しかし、巨体の肉は分厚く、太い骨を断ち切るには力及ばず、コアの破壊が叶わなかった。
武器を失い、呆然とその場に立ちつくすノイル。
仰け反る鹿獣はその間に僅かに能力を蓄え、角は薄く靄を纏う。
ノイルの命を奪うには充分な威力が。
「まずい……」
体を捻り、ノイル目掛けて頭部が勢いよく振り下ろされた。
直撃する寸前、ルフィアが瞬時にノイルを担いで逃亡。
オドを装備に注ぎ込み、瞬く間に加速した。
「くっ、オドが……」
常に能力を発動させていたルフィアのオドは、もう底が見えていた。
背後を追ってくる鹿獣。オドが切れれば追い付かれる。
残された選択肢は討伐のみ。これ以上のオドを消費すれば勝ち目はない。
ある程度の距離は稼げたところで、ルフィアは能力を解除。そこでノイルを降ろした。
「逃げたくないなら信じて待ってて」
そう言い残したルフィアは、早々に大きく左へと旋回。
一直線にノイルを狙う鹿獣の勢いは徐々に加速し、瞬く間に距離が消える。
ノイルはそこから動かず、ただルフィアを信じた。
(ルフィア、頼んだぞ……)
角が纏う靄が膨張した頃に、ノイルの元へと到達した鹿獣。加速する勢いを乗せて、頭部を振り下ろした。
その瞬間、キィンッ!と甲高い音が響き渡り、巨体が消失。
ノイルの目の前には剣を握るルフィアの姿があった。
「間に合った」
左へと大きく旋回したルフィアは、残り僅かなオドを全て注ぎ込み、鹿獣目掛けて一気に加速。角が振り下ろされる直前、鹿獣の脇腹に突き刺さったままのノイルの剣を、速度を乗せた全力のパワーで押し込み、コアを破壊したのだ。
ヘッドゴート討伐完了。
ギリギリの勝利に、ノイルは生きた心地がしなかった。
破壊したコアから溢れ出したオドは、ルフィアに流れ込む。だが、微かにノイルにオドが奪われる。
「ちょっと、空っぽなのに取らないでよ」
死を覚悟したノイルは完全に腰を抜かした状態で、不格好に笑みを浮かべる。
「す、すまん……」
その姿を正面から見下ろしたルフィアは、「足、ガクガクだよ?」と微笑んで、手を差し伸べる。
「本当に助かったよ」
ノイルが掴んだ手は、すらりと細く、柔らかい。それは、普通の女の子と変わらないものだった。
「ノイルが信じて逃げなかったから間に合った。それに、死なせないって約束したしね」
肩を並べた二人。純白の髪と漆黒の髪を、澄んだ微風がさらりと揺らした。




