第弐話/白銀の亡霊
ヨルトゥグは山間にある果樹栽培が盛んな小さな農村である。
クダリジナル皇国から馬を五日走らせた先にあるこの村は、一世紀近く隣国のリピチッチと交易することで、ささやかながらもなに不自由ない平穏な生活を営んできた。
しかし、その安寧はリピチッチの滅亡により断たれた。
リピチッチがクダリジナル皇国に楯突いたのは、二十年前のこと。いっときは大陸西部の覇権を握るほどに強大であった大国は、わずか三日で皇国に惨敗を喫した。
ヨルトゥグが二十年前とは似ても似つかぬ貧しい生活を強いられながらも存命しているのは、長であるズーシーがクダリジナル皇国への忠誠を誓ったからに他ならない。村の民を生かすため、彼に残された選択は服従以外に無かった。
しかし、貧困に喘ぐ村の民を目にするたびにズーシーは思う。
自分は彼らを生き地獄に導いてしまったのではないか、と。
時が五十年巻き戻れば、ズーシーは〝伍騎天〟にも引けを取らなかった剣術を以てして、ヨルトゥグの民を護ることができただろう。
しかし、今の自分は齢七十を超える老いぼれである。悪を咎めることはできども、是正する力は持ち合わせていなかった。
「なぁ爺さん、そのりんごはどこで拾ったんだ?」
背中に声を掛けられズーシーは肝をつぶした。
振り返ると騎士がいた。ヨルトゥグの民を嬲り快楽を得ている、騎士の風上にも置けない名ばかりの騎士が。
「ここら一帯は儂の所有地じゃ。なぜ自分の庭に入るのにお主らの許可を取らねばならん」
その反論がさして意味を成さないことは重々理解していた。
予測に違わず、騎士が反省の色をみせることはなかった。
「ふぅ、これだから老害は。いいか、爺さん。よ~く覚えておけ。この森も、あの街も」
順に指を差し、
「皇国の所有物なんだよッ!」
容赦なく蹴りを見舞ってきた。
「かはッ……!」
爪先が臓腑に深く突き刺さり、胃から逆流した熱が地面にぶちまけられる。
「説教がましいんだよクソジジイが!」
痛みに意識を朦朧とさせながらも、ズーシーは身を丸めて、たったひとつの赤い果実を死守する。
そんな老人に、騎士は哄笑を浴びせ、蹴り、踏みつけ、蹴って、蹴って。
胸倉を掴み上げ、叫ぶように催促する。
「ほら謝れよ! 不法侵入した挙句、盗みまでしてすいませんでした、ってよ!」
「す、すいませんでした……」
なにがすいませんなのだろう。
そんな疑問の相手はせず、ズーシーは肺腑から声を絞り出し謝罪する。どれだけ醜かろうと、村人たちに失望されようと、彼には生きることを諦めるわけにはいかない理由があった。
ズーシーを屈服させたことで優越感が満ち足りたからか、騎士は喜色をたたえている。
「許すわけねぇだろ?」
しかし、暴行が緩まることはなかった。
けらけらと笑い、騎士は老人を袋叩きにする。老人が「すいませんでした、許してください」と涙混じりに謝罪すれば、それが火種であるかのように大口を開けて笑う。
騎士とは無辜なる民を護る者。
そんな騎士道美学は、とうの昔に消え去っていた。
暴虐を絶え凌ぎながら、ズーシーは胸のうちで密かに祈る。
(神よ。どうかこの腐敗した世界に、悪を滅する正義をお遣わせください)
その直後だった。
「おい」
粗暴な声に、騎士は手を休めて振り返る。
そこにいたのはひとりの青年だった。
薄汚れた甲冑に、切り傷だらけの肉体。瞳は左右で光彩が異なり、左は明け方のような琥珀、右は深更のような黒をしている。精悍な顔つきには、喜びも怒りも悲しみも宿っていなかった。
「胸糞悪いもんみせるんじゃねぇよ」
青年が背中に担いだ剣を正眼に構える。
降り注ぐ陽射しに照り映える梔子色の剣。
その一連の所作を見ただけで、ズーシーは彼が歴戦の戦士であることを理解した。
それは騎士も同じなのだろう。彼の顔には隠しきれない動揺が滲んでいた。
「お、おれは皇国が認めた騎士だぞ! け、剣を交えて勝てると思ってんのかっ!」
「選択権をやる」
騎士の脅しを歯牙にも掛けず、青年は毅然と言った。
「お前が剣を抜いたんなら、俺はお前を殺す。その爺さんを解放するってんなら、今回はなにもせずに見逃してやる。好きな方を選びな」
青年が凄む。
たったそれだけの仕草で騎士の戦意は喪失したらしく、
「てめぇのことは隊長に報告しておくからな!」
そう言い残し、騎士は何度も転びながら去って行った。
そんな滑稽な姿を目にしても青年の表情が変わることはなかった。
「大丈夫か爺さん」
腰を下ろし、片膝をついて訊ねてくる。
少年が背負う光はまるで後光が差しているかのようで。
「英雄だ」
そうズーシーが口にすると、青年ははじめて表情を変えた。
皮肉な笑みを浮かべていた。
「俺は英雄なんかじゃねぇよ」
言いつつも、青年は負傷したズーシーを抱きかかえ、家まで運ぼうとしてくれる。
やはり彼は英雄だ。
ここ二十年、芽吹く事のなかった希望がズーシーの胸で咲いていた。
◇
家まで送り届ける道程で、
「今晩は儂の家に泊まっていかんか」
そうズーシーが提案してきた。
どうやらガルシャに助けてもらった恩を返したいらしい。
「助けたつもりはねぇよ」
目の前で繰り広げられる理不尽が不愉快だったから止めに入っただけだ。
「それでも儂がお主に救われたという事実は変わらんよ。恩には恩で報いる。老いた身ではあるが、騎士道美学は変わらず胸のうちに宿っておる」
なるほど、騎士だった時期があるらしい。道理で老躯の割にがっしりしているわけだ。
「うんうん、若かれし頃はさぞ腕の立つ剣士だったんだろうね」
と、ガルシャの隣で感心する声がした。
「ここはひとつ、ご厚意に甘えるとしようじゃないか。私もひさしぶりに湯船に浸かりたい」
あんたは湯船に浸かれないだろ、という反論を飲み込み、隣を歩く旅の同行人に目をやる。
白銀の長い髪に、光り輝く青い瞳。
華奢な体躯を覆う甲冑も、腰に携えられた上質な剣も、なにもかもがあの頃と変わらない。
あの頃のままのヒカリカ=クダリジナルが今日もガルシャの隣にいる。
「急に見つめてどうしたんだい? あ、さては私の裸体を想像して発情しちゃったのかな?」
にこにこするヒカリカを無視して、ガルシャは前を向き直した。
「なら一晩だけ世話になるとしよう」
「今夜は同衾だね」
無視無視。
「そうするといい。武具も長らく手入れしておらんのだろう。これでも儂は武具の扱いには精通しておる。よければ磨かせてくれんか」
「結構だ」
「ほんとうにそれでいいのかい?」
うるせぇな。
睨み付けても、ヒカリカは一切表情を変えることなく喋る。
「無料でメンテナンスを受けられる機会なんて早々訪れないよ?」
「……前言を撤回する。頼んでもいいか」
「あぁもちろんだとも」
「うんうん、それがいいよ。それにしても、心安らぐ村だ。茅葺き屋根に、広々とした森から運ばれてくる鳥のさえずりと川のせせらぎ。村人の数は、家屋をみるに五十人弱といったところかな。う~ん、人がごった返していない地域の空気は格別だねぇ」
まだ喋るかこの女は。
「ヨルトゥグの近くには妖精圏があって、その加護のおかげで自然が栄えているなんて説もあるけれど、実際のところはどうなんだろうね。……しかし、妖精か。実在するなら一度はお目にかかりたいものだ。ねぇガル?」
「……」
「ね、ガル?」
「……ちっ、そうだな」
顔を覗き込んでくるな、鬱陶しい。
ヒカリカは舌がまわる。おまけに、顔も、声も、姿も、なにもかもがあの頃のままだから、取り合っているとおかしくなりそうになる。
ヒカリカが既に死去していることを忘れそうになる。
ガルシャには生まれつき死霊を視認する力が宿っている。【心眼】の天賜の一環だ。
ゆえに断言することができる。
ヒカリカは死亡している、と。
旧友殺しの旅は、おそらくヒカリカを殺すことで幕を下ろすだろう。
自分を拾ってくれた恩人であり、師匠でもあったヒカリカに、己が手で終止符を打つ。
その瞬間を想像しようと試みるも、脳裏に映るのは暗闇だけだった。
「今、ガルがなにを考えているか当ててみせようか?」
出し抜けにヒカリカが言った。
自信に満ち満ちした声で、
「お姫様抱っこするなら可愛くて強くて頼りになる師匠がよかったなって思ってるでしょ?」
全然思っていない。




