閑話 忘れられた者たち
閑話 忘れられた者たち
光の届かない場所に、四つの黒い影が並んでいた。
そのさらに奥には、四つの影とは比べものにならないほど巨大な影がある。顔は見えず、姿も輪郭さえ闇に溶け、何者なのかをうかがい知ることはできない。
しばらくの沈黙のあと、四つの影のうち一つが巨大な影へ向かって静かに告げた。
「今回も、失敗に終わりました。種は発芽しましたが、向こう側の介入を受け、元へ戻されています」
巨大な影は動かない。
やがて、低い声だけが暗闇の中に響いた。
「……また、計画を邪魔されたか」
「はい。これで何度目でしょう。種を渡し、発芽しても、そのたびに向こう側が現れる」
別の影が苛立ちを含んだ声で続ける。
「このまま同じことを繰り返していてよいのでしょうか」
「問題は、向こう側も我らと同じものを求めていることだ」
その言葉に、別の影が反応した。
「同じ、か」
「ああ。目的が違うのではない。違うのは、そこへ至るための手段だ」
◇
かつて、人間は彼らの存在を知っていた。
目には見えないものを恐れ、敬い、祀り、ときには救いを求めた。理解できないものが存在することを受け入れ、人ならざるものが自分たちと同じ世界にいることを疑わなかった。
しかし、時代は変わった。
「科学とやらを手にしてから、人間どもは目に見えるものばかりを信じるようになった。理屈で説明できぬものを否定し、自分たちに理解できぬものなど存在しないかのように振る舞っている」
「我らの存在さえ、昔話や作り話の中へ押し込めた」
「向こう側とて、その点では我らと変わらぬ」
別の影が静かに言った。
「奴らも、人間から認知されねば十分に表へ出ることはできぬ。我らと同じようにな」
「だから奴らは、人間と交わる道を選んだ。共に暮らし、言葉を交わし、受け入れられることで自らの存在を認めさせようとしている」
「随分と気の長い話だ」
低い笑い声が漏れる。
「だが、目的そのものは同じだ。我らも奴らも、人間に知らしめたいだけなのだからな。自分たちは今もここにいる、と」
違うのは、それを人間にどう認めさせるかだった。
「向こう側は、人間との共存によって認知を得ようとしている」
「我らは違う。忘れたのなら、思い出させればよい。二度と忘れられぬ形でな」
巨大な影が、わずかに動いた。
「人間は、好いたものだけを覚えているのではない。恐れたものもまた、忘れぬ」
四つの影が静まる。
彼らが選んだのは、畏怖だった。
人間に自分たちの存在を知らしめ、忘れられないものとして刻み込む。そのために制裁を加え、科学だけでは説明できない存在が今もこの世界にいるのだと理解させる。
向こう側が人間と手を取り合うことで認知を得ようとするのなら、自分たちは人間に畏れられることで認知を得る。
求めるものは同じでも、人間へ差し出すものはまるで違っていた。
◇
「だが、今のやり方では足りないのではないか」
一つの影が言った。
「人間どもは、まだ我らを恐れていない。一人が異形となり、わずかな騒ぎを起こしたところで、向こう側に元へ戻されれば、それで終わる。人間の記憶に我らを刻み込むには、もっと強い恐怖が必要だ」
「ならば、もっと種を撒けばよい」
別の影が応じる。
「一人ずつ選ぶから遅いのだ。十人、百人、それ以上へ撒けば、その中のいくつかは発芽する。一度に多くが発芽すれば、向こう側とてすべてには手が回らぬ」
「無駄が多すぎる」
別の影が即座に否定した。
「種を渡せば誰でも発芽するわけではない。それはすでに分かっているだろう」
「だから数を増やすのだ」
「発芽しない者へいくら撒いても意味はない。必要なのは数ではなく、均衡を崩しやすい人間だ」
「均衡……」
「人間の中にある因子は、一方だけではない。どちらへ傾くにせよ、その均衡が大きく崩れなければ発芽には至らぬ」
悪へ傾けば発芽するというほど単純なものではない。
逆の方向へ大きく傾いた者もまた、その均衡を失う。
「善であろうと悪であろうと、それ自体は問題ではない。必要なのは、どれほど大きく傾くかだ」
「だが、今の人間には、そのような者が少なすぎる」
その言葉を受け、一つの影が遠い過去を思い返すように言った。
「昔は違った。王となる者、覇を唱える者、聖人と呼ばれる者。人の身でありながら、常人では考えられぬほど一方へ傾く者がいた」
「カエサル、始皇帝、織田信長……」
別の影が名を挙げる。
「イエス、釈迦、聖徳太子。向いた方向も、後世からの評価もそれぞれ違う。だが、いずれも多くの人間を動かし、時代そのものへ影響を与えるほど突出した存在として語り継がれた」
「善か悪かではない。人間の尺度でどちらに分類するかなど、我らには関係ない。重要なのは、それほど大きく傾く者がいたということだ」
「だが、今はなかなか見つからぬ」
「人間そのものが変わったのか」
「あるいは、人間の作った社会が均しているのかもしれぬ」
「均す?」
「突出する前に抑えられる。周囲に合わせることを覚え、自ら傾きを戻す。大きく外れることそのものを恐れるようになった」
「科学だけでなく、社会そのものが人間を均衡へ戻しているというのか」
「可能性の話だ」
だからこそ、これまで種を無差別には撒かなかった。
人間なら誰でもよいわけではない。均衡が崩れかけている者、何か一つをきっかけに大きく傾く可能性を持つ者を探し、選んできた。
しかし、その慎重な選別が結果へ結びついていないこともまた事実だった。
◇
「ならば、さらに選別を強めればよい」
別の影が言う。
「より均衡を崩しやすい者だけを探す。強い執着、深い後悔、誰かを救いたいという願い、許せぬという怒り……きっかけが何であろうと構わぬ。その感情が人間自身の均衡を崩すほど強ければよい」
「そのような人間を探していては、さらに時間がかかる」
「無差別に種を浪費するよりは確実だ」
「その『確実』で、これまで何度も向こう側に戻されているのではないか」
空気がわずかに張り詰めた。
すると、別の影が口を開く。
「そもそも、人間自身に任せすぎなのではないか」
三つの影がそちらを向いた。
「種を渡し、あとは本人が傾くのを待つ。だから途中で均衡を取り戻される」
「何が言いたい」
「我らが、もう少し手を貸せばよい。どちらへ傾くかは、その人間次第でも構わぬ。重要なのは、一度大きく均衡を崩させることだ」
「こちらから発芽を助けるというのか」
「そうだ」
「危険だ。我らが直接介入するほど、向こう側にこちらの手を読まれる」
「すでに何度も邪魔されている。今さら何を恐れる」
「存在を察知されることと、こちらから手の内を晒すことは違う」
「では、いつまで同じことを繰り返す?」
四つの影の意見は、次第に食い違っていった。
一度に多くの種を撒き、発芽する者が現れるまで数で押す。
今まで以上に人間を厳しく選別し、均衡を崩しやすい者だけを狙う。
あるいは、自分たち自身が今までより深く介入し、発芽する可能性を高める。
目的について争っている者はいない。
向こう側と同じように、人間から認知されること。
自分たちが今も存在していると、人間の世界へ刻み込むこと。
ただし、向こう側が共存によってそれを得ようとするのなら、自分たちは畏怖によって得る。その一点についても、四つの影の考えは一致していた。
まとまらないのは、そこへ至る方法だけだった。
◇
「……いかがなさいます」
やがて一つの影が、奥にいる巨大な影へ問いかけた。
四つの影が静かになる。
巨大な影は、すぐには答えなかった。
「今まで通りでは、また同じことが起こります」
「しかし性急に動けば、向こう側へ余計な情報を与える」
「数を増やすべきです」
「いや、選別を強めるべきだ」
「我らが介入するという方法もある」
「それでは表へ出るのが早すぎる」
再び声が重なり始める。
巨大な影だけが、その議論を黙って聞いていた。
やがて低い声が響くと、四つの影が静まった。
「……忘れさせはせぬ」
それだけだった。
どの案を選ぶのか、次に何をするのか、巨大な影は何も告げない。
しばらくすると四つの影は、またそれぞれの考えをぶつけ始めた。
そのさらに奥で、巨大な影は何も言わず、人間たちの世界を見つめ続けている。
人間と共に生きることで、存在を認めてもらおうとする者たち。
恐れさせることで、二度と忘れられない存在になろうとする者たち。
求めているものは同じだった。
人間に、自分たちが存在していると認めてもらうこと。
ただ、そこへ至る道だけが、決定的に違っていた。




