閑話 十五年後の聖火
閑話 十五年後の聖火
「ラスト一本! 最後までフォーム崩すな!」
夕方のトラックに男の声が響いた。何人もの選手たちがそれぞれのメニューに取り組む中、男はトラック脇に立ち、ストップウォッチを握っている。
「よし、行け!」
合図と同時に、一人の選手が飛び出した。
前半の入りは悪くない。中盤にもまだ余裕があり、本人も手応えを感じているのだろう。しかし後半に入ったところで、わずかに上半身へ力が入った。
「肩! 力むな! そのまま!」
男の声を受けながら、選手がゴールを駆け抜ける。
「コーチ! どうでした!?」
「自分でどう思った?」
「えー……結構よかったと思います」
「結構?」
「かなり?」
「俺に聞くな」
「じゃあ、めちゃくちゃよかった!」
「どんどん自分に甘くなってるぞ」
「で、タイムは?」
男は少しだけ間を置いてから、ストップウォッチを見せた。
「……え? マジですか!?」
「ああ」
「やった! また縮んだ!」
選手が拳を握ると、周囲からも「また自己ベスト?」「最近すごいな」「次の大会いけるんじゃない?」と声が飛んだ。
本人も興奮したまま男を見る。
「コーチ! 次、絶対いけますよね!」
「その前に、最後はフォームが崩れてたぞ」
「えー! 自己ベストなのに!」
「自己ベストなら見逃していいのか?」
「今日は褒めるだけでよくないですか?」
「褒めてるだろ」
「どこが!?」
「タイム見せた」
「それだけ!?」
男は思わず笑った。
「よかったよ。でも後半は直せ」
「……最初から言ってくださいよ!」
「はいはい」
「次はもっと縮めますから!」
「その前に身体休めろよ」
「分かってます!」
選手は満足そうに仲間たちのところへ戻っていった。
その背中を見送りながら、男も笑っていた。
◇
少し離れたベンチには、一人の選手が座っていた。
脚にはサポーターが巻かれている。先ほどの歓声を聞きながらも輪には加わらず、何も言わず自分の脚を見つめていた。
男はその姿に気づいたものの、すぐには声をかけなかった。
「コーチ! これ見てもらえます?」
「ああ」
別の選手に呼ばれ、いつも通り練習を見る。指示を出し、必要なら注意し、うまくできれば褒める。
十五年前、こんな毎日を送る自分など想像したこともなかった。
もっとも、ここまで順調に来たわけではない。
指導を始めたばかりの頃は、自分ができたことなら相手にもできると思っていた。「何でできない?」と口にしてしまったこともあれば、言いすぎ、追い込みすぎ、結果を急ぎすぎたこともある。
自分の指導が正しいと思い込み、選手の言葉をきちんと聞けなかったことさえあった。
辞めていった子もいる。結果を出させてやれなかった選手もいる。
あとになって、もっと違う言葉をかけられたのではないか、もっと別のやり方があったのではないかと何度も考えた。教えることそのものをやめようと思ったことも、一度ではない。
それでも、一つ失敗するたびに一つ覚えてきた。
次はどうするのか。何を見るのか。何を言うのか。そして、ときには何も言わずに待つこと。
十五年かけて少しずつ、一個ずつ。
男は競技者としてではなく、指導者としてここまで走ってきた。
◇
練習が終わり始めた頃、男はベンチへ向かった。
サポーターを着けた選手は、まだそこにいる。
男は隣へ腰を下ろした。
「どうした」
「……別に」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
以前なら、何とか話させようとしたかもしれない。「大丈夫だ」「また走れる」「頑張れ」と、すぐ励まそうとしたかもしれない。
けれど十五年間で、何かを言うことだけが指導ではないと知った。相手が自分から言葉を出すまで、黙って隣にいる方がいいときもある。
しばらくして、選手の方から口を開いた。
「コーチ」
「ん?」
「俺……もうやめようかな」
男は何も言わず、続きを待った。
「治ったって、前みたいに走れるか分かんないし、みんな先に行ってるし……」
選手がトラックを見る。さっき自己ベストを出した選手が、仲間たちと笑っている。
「あいつなんか、どんどん速くなってる。俺だけ何してるんだろって。毎日リハビリして、みんなが走ってるの見て……何のためにここ来てるんだろって」
男は黙って聞いていた。
「コーチには……分かんないですよ」
男は自分の脚へ目を落とした。
十五年前、自分も同じように脚を見ていた。
走れなくなった身体を抱え、周囲だけが先へ行くように感じていた。「昔はすごかった」「惜しかった」「もったいない」と言われるたびに、今の自分には何もないのだと思っていた。
「……全部は分からない」
「え?」
選手が男を見る。
「お前の怪我は、お前のものだからな。全部分かるなんて言ったら嘘になる」
男はもう一度、自分の脚を見る。
「でも、走れなくなって、自分だけ置いていかれたような気がするのは……少し知ってる」
「コーチも……」
「ああ。俺も怪我で競技をやめた」
選手は何も言わなかった。
「だから、諦めるなとは言わない。やめるなとも言わない。本当にやめたいなら、それを決めるのはお前だ」
「…………」
「ただ、怪我して走れなくて、周りが先に行ってるように見えてる今、全部決めなくてもいいんじゃないか」
「…………」
「今できることをやってみろ」
「リハビリですか?」
「それも。一個ずつだ」
「一個ずつ?」
「ああ。走れないからって、できることが全部なくなったわけじゃない」
その言葉を口にしながら、男は少しだけ笑った。
十五年前、自分が一番分かっていなかったことだった。
◇
「コーチ!」
そこへ声が飛んできた。さっき自己ベストを出した選手だった。
「まだいたのか」
「ちょっと聞きたいことがあって」
「何だ?」
「次の大会まで、もうちょっと追い込み増やしていいですか?」
「駄目だ」
「早っ! まだ何も説明してないですよ!」
「大体分かる」
「休み一日減らして――」
「駄目だ」
「ほら!」
「今伸びてるんですよ!」
「だからだよ」
「え?」
選手が止まった。
「調子いいと、もっとやりたくなるだろ。もっと走れば、もっと速くなる気がする」
「……はい」
「でも、身体が同じ速度でついてくるとは限らない。速くなることだけ見て、自分の身体を置いていくな」
選手は少し黙った。
「休むのも練習だ」
「……はい」
「返事」
「はい!」
「よし」
男がうなずく。
「でも」
「まだあるのか?」
「次の大会、狙っていいですよね?」
「それは狙え」
「よし!」
「だからって勝手に練習増やすなよ!」
「分かってます!」
「本当か?」
「たぶん!」
「おい!」
選手が笑う。
男も笑い、ベンチに座っていた選手も少しだけ笑っていた。
◇
「そうだ」
男は怪我をしている選手を見る。
「ちょっと来い」
「え?」
「いいから」
二人をトラックの横へ連れていく。
「一本走ってみろ」
「俺ですか?」
調子を上げている選手が聞く。
「そう。全力じゃなくていい。フォーム確認だけ」
「分かりました」
選手がスタート位置へ向かうと、男は怪我をしている選手を見る。
「見てろ」
「何をですか?」
「走り。速いとか遅いとかじゃなくて、何か気づかないか見てみろ」
「俺が?」
「そう」
「コーチが見ればいいじゃないですか」
「俺はいつも見てる。たまにはお前が見ろ」
選手が走り出し、二人でその姿を追う。
「……速い」
「それは知ってる」
「じゃあ何ですか」
「自分で見つけろ」
「無茶言うなあ」
もう一度走らせる。
怪我をしている選手は、今度は黙って目を凝らした。
「……最後」
「ん?」
「ちょっと右に流れてる?」
男は笑った。
「そう」
「やっぱり?」
「ああ」
「腕かな」
「本人に言ってこい」
「俺が?」
「気づいたんだろ」
「でも……」
「いいから」
選手は少し迷ったあと、トラックへ向かった。
「なあ」
「何?」
「最後、ちょっと右に流れてる」
「マジ?」
「たぶん腕。右が疲れてくると開いてる気がする」
走っていた選手が、その場で腕を振って確かめる。
「あ、本当かも」
「もう一回やってみれば?」
「やる」
もう一度、今度は右腕を意識して走る。
ゴールすると、すぐに二人の方を見た。
「どう?」
「さっきよりいい」
「マジで?」
「うん」
「コーチ! どうです?」
「よくなってる」
「よし!」
選手は怪我をしている仲間へ笑顔を向けた。
「ありがとな!」
「……別に」
「助かった!」
「うん」
怪我をしている選手も、ほんの少し嬉しそうだった。
◇
「な?」
男が言う。
「何がですか」
「走れないからって、何もできないわけじゃない。お前が今気づいたこと、俺は何も教えてないだろ」
「…………」
「自分で見つけた」
選手はトラックを見る。
自分は走っていない。それでも、自分の言葉で誰かの走りが少し変わった。
「まあ、だからコーチになれって話じゃないぞ」
「分かってますよ」
「走れない今だから見えるものもあるってことだ。今できることをやれ」
「一個ずつ?」
「ああ」
選手は少し笑った。
「コーチ、それ好きですね」
「悪いか」
「別に」
◇
帰り支度を始めた二人。
調子を上げている選手が、怪我をした仲間を見る。
「なあ。治ったら、また一緒に走ろうな」
「……その頃、お前もっと速くなってるだろ」
「じゃあ追いつけばいいじゃん」
「簡単に言うなよ」
「コーチもいつも簡単に言うじゃん」
「俺を巻き込むな」
三人が笑った。
「じゃ、お疲れさまでした!」
「お疲れ。明日、勝手に練習増やすなよ!」
「分かってます!」
「怪しいな」
「大丈夫ですって!」
二人が帰りかけたところで、怪我をした選手だけが振り返った。
「コーチ」
「何だ?」
「俺……もうちょっとやってみます。走れるようになるか分かんないけど、とりあえず今できることから」
男は少し笑った。
「一個ずつな」
「それ、コーチ好きですよね」
「ああ」
「何でですか?」
「昔、ある小学生に言われたんだよ」
「小学生?」
「俺が教えた言葉を、そのまま返された」
「何ですか、それ」
「生意気な奴だったよ」
そう言いながら、男は笑っていた。
「じゃ、お疲れさまでした」
「ああ。またな」
今度こそ、選手は帰っていった。
◇
誰もいなくなったトラックに、男は一人残っていた。
十五年前、自分は教える側になれるかどうかさえ分からず、問い合わせを一つ送るだけであれほど迷った。
実際、簡単ではなかった。失敗し、言いすぎ、教え子とぶつかり、思うような結果が出ないこともあった。
自分には向いていないと思い、やめようと考えたことも一度ではない。それでも失敗するたびに一つずつ覚え、ここまで来た。
今、自分の前には速くなって喜ぶ選手がいる一方で、走れなくなって悩む選手もいる。
どちらにも、自分ができることがあった。
男は静かになったトラックを眺めた。
かつて自分の頭上には炎が燃えていた。あの火が消えたとき、自分の中で燃えていたものまで一緒に消えてしまったような気がして、少しだけ寂しかった。
けれど、今なら分かる。
火は消えたのではない。十五年かけて、形を変えただけだった。
自分が走るために燃えていた火は、今では誰かが走り出すための火になっている。
速くなりたい者もいれば、立ち止まっている者もいる。進む方向が分からず、迷っている者もいる。
男の仕事は、自分の火を大きく見せることではない。
彼らの中にある小さな火を見つけ、強く燃やす手助けをすること。そして、ときには燃え尽きてしまわないよう、少し休ませることだった。
「さて」
男はストップウォッチを手に取った。
明日もきっと、誰かが走る。
「明日も忙しいな」
そう言って、男は静かに笑った。




