もう一度、走り出す
もう一度、走り出す
あの日から、数日が経った。
男は公園の前で足を止めていた。
ここへ来ようと決めていたわけではない。何か用事があったわけでもない。ただ、気がつけばこの場所まで来ていた。
少し前、この公園で子供たちに走り方を教えた。
腕の振り方や足の運び方、身体に余計な力を入れすぎないこと。ほんの少し、自分が知っていることを教えただけだった。
それなのに、あのとき向けられた言葉が今も頭に残っている。
『また走るの教えて!』
「……必要、か」
男は小さく呟いた。
怪人になったあの日、自分が本当に欲しかったものに、ようやく気づいた。
大勢に見てほしかった。
もう一度、昔のように注目されたかった。
自分が何かをすれば誰かが見てくれて、次を期待してくれる。そんな場所へ戻りたかった。
その気持ちも嘘ではない。
けれど、その奥にあったのは、もう一度誰かに必要とされたかったという思いだった。
そして、その言葉なら、とっくに自分へ向けられていた。
『また走るの教えて!』
昔の自分にではない。
速く走っていた自分にでも、記録を残していた自分にでもない。
今の自分に向かって、子供たちはそう言ってくれていた。
ただ、自分が気づいていなかっただけだった。
◇
「よーい……ドン!」
公園の中から子供の声が聞こえ、何人かが一斉に走り出した。
男は何となく、その姿を目で追う。
一人は腕に力が入りすぎている。もう一人は上半身が少し後ろへ反り、足だけが先へ行こうとしていた。
「……違う」
思わず口から出て、自分でも気づいて苦笑する。
「何やってんだ、俺」
もう自分は競技者ではない。昔のように走ることもできない。
それなのに、誰かが走っている姿を見ると、つい気になってしまう。
足の運び。
身体の傾き。
腕の振り。
長い間、自分の身体で確かめ続けてきたものは、走れなくなったからといって消えてしまったわけではないらしい。
「もう一回!」
子供たちが元の場所へ戻っていく。
「次、俺が一番だからな!」
「さっき私の方が速かったじゃん!」
「今度は勝つ!」
楽しそうな声を聞きながら、男は少しだけ笑った。
そのまま帰ろうとした、そのときだった。
「あ!」
声が聞こえた。
男が振り返ると、一人の子供がこちらを指さしている。
「あのお兄ちゃんだ!」
「あ……」
「お兄ちゃん!」
以前、走り方を教えた子供たちだった。
男に気づくと、何人もが一斉に駆け寄ってくる。
「また来たの?」
「……まあ」
「また教えて!」
「え?」
「走るやつ!」
「俺も!」
「私も!」
あっという間に囲まれてしまった。
「ちょ、ちょっと待て」
「ねえ、また教えてよ!」
「今日もやろう!」
男は子供たちを見る。
期待した目が、自分へ向けられていた。
けれど、昔とはまったく違う。
競技場の観客でもない。
取材する記者でもなければ、次の結果を期待する関係者でもない。
この子たちは、自分の過去の記録など気にしていない。
ただ、走るのが少し上手くなりたい。
そして、それを自分に教えてほしいと思っている。
男は小さく息を吐いた。
「……少しだけだぞ」
「やった!」
「よし!」
「教えて!」
子供たちが一斉に走っていく。
「おい、待て! まだ何も言ってないだろ!」
男もそのあとを追った。
◇
「だから、そんなに肩に力入れるなって」
「こう?」
「まだ入ってる」
「分かんない!」
「ほら」
男は自分の腕を軽く振って見せた。
「走るからって、最初から全部に力を入れれば速くなるわけじゃないんだよ」
「じゃあ、どうするの?」
「必要なところで使う。ずっと力んでたら、身体が動かなくなるだろ」
「難しい」
「最初から全部できなくていいよ」
そこまで言って、男の口が止まった。
『すぐ全部できるようになるわけじゃない』
『一個ずつでいい』
以前、自分が子供たちへ教えた言葉。
そして、それを則人にそのまま返された。
『じゃあ、お兄さんも一個ずつやれば?』
「…………」
「お兄ちゃん?」
「いや、何でもない」
男は少し笑った。
子供には簡単に言えた。
最初からできなくてもいい。
一つずつ覚えればいい。
失敗したら、もう一度やればいい。
なのに、自分のことになると、ずっと違う考え方をしていた。
昔と同じように走れない。
だから終わり。
競技者には戻れない。
だからもう、自分には何もない。
できなくなったこと一つで、できることまで全部なくなったように考えていた。
「もう一回やっていい?」
「ああ。今度は肩の力だけ気をつけてみろ。ほかは一旦そのままでいい」
「うん!」
子供が走り出す。
一度目より、ほんの少しだけ動きが自然になった。
「そう! 今の!」
「え?」
「今の方がいい! さっきより腕が振れてる!」
「ほんと!?」
「ああ。もう一回やってみろ!」
「うん!」
子供は嬉しそうに元の位置へ戻っていく。
その背中を見ながら、男は自分が笑っていることに気づいた。
記録が出たわけではない。
自分が速くなったわけでもない。
観客から歓声を浴びたわけでも、誰かに褒められたわけでもない。
それでも、自分が教えたことで誰かが少しだけ前へ進む。
それを見るのが、嬉しかった。
「次、俺!」
「私も見て!」
「はいはい、順番!」
気づけば男の周りには、また子供たちが集まっていた。
◇
「あっ!」
聞き覚えのある声がした。
男が振り向くと、則人がこちらへ走ってくる。
「お兄さん!」
「……お前か」
「また教えてる!」
「まあな」
則人は男と、その周りに集まっている子供たちを交互に見る。
「コーチになるの?」
「いきなりそこまで行くのかよ」
「ならないの?」
男はすぐには答えなかった。
少し離れた場所では、さっき教えた子供が何度も腕を振りながら、自分なりに走り方を確かめている。
「……まだ分からない」
「そっか」
「でも、前よりは考えてる」
「ほんと?」
「ああ」
以前なら、ここで終わっていた。
自分には無理だ。
今さら遅い。
そんな言葉が先に出ていたはずだった。
今はまだ「できる」と言い切ることはできない。
それでも、「できない」と決めつけることもなくなっていた。
則人が笑う。
「じゃあ、一個ずつだね!」
「…………」
男は則人を見る。
「それ、俺が教えたんだけどな」
「うん!」
「全部返してくるな、お前」
「いっぱい教えてもらったから!」
「……そうだったな」
男も笑った。
「じゃあ、ぼくも!」
「何が?」
「走る!」
「お前もやるのか?」
「うん!」
「じゃあ並べ」
「はーい!」
則人が子供たちのところへ走っていく。
「則ちゃん、競争しよう!」
「する!」
「俺が勝つ!」
「ぼくだって!」
男はそんな子供たちを眺めてから、ぱん、と手を叩いた。
「よし! 一回走ってみろ! そのあと気になったところ言うから!」
「はーい!」
子供たちの声が重なる。
合図をすると、何人もの子供たちが一斉に走り出した。
男はその場に残り、一人ひとりの走りを目で追う。
昔の自分なら、自分が先頭を走ることしか考えていなかった。
今は、自分が走る側ではない。
走っていく誰かを見送り、その先へ進む手助けをする側にいる。
それは、かつて想像した未来とはまったく違っていた。
でも。
不思議と嫌ではなかった。
◇
その日の夜。
男は一人、画面を見つめていた。
検索欄に文字を入れる。
『陸上 指導者』
入力したところで、一度指が止まった。
「…………」
以前なら、そのまま消していたかもしれない。
それでも今日は、検索を押した。
指導について。
必要になる知識や資格について。
地域の陸上教室。
子供向けのクラブ。
次々と表示される情報を眺めながら、男は小さく呟いた。
「いろいろあるんだな……」
今まで、調べようとしたことすらなかった。
自分はもう走れない。
その一つだけで、陸上そのものが自分からなくなったと思っていた。
けれど今日、公園で子供たちを見ていて分かった。
走ることと、走る人を支えることは同じではない。
自分が走れなくなっても、長い時間をかけて身につけたものまで消えてしまったわけではなかった。
画面を進めていくうちに、一つの地域クラブが目に留まる。
子供たちへ陸上を教えているクラブだった。
活動内容を読み進めていく。
指導を手伝う人間についての案内もある。
「…………」
男の指が止まった。
自分にできるのか。
分からない。
教えるために何が必要なのか、それすらまだよく知らない。
競技者として知っていることと、子供に安全に教えるために必要な知識が同じとも限らない。
覚えなければならないことも、きっとたくさんある。
不安なら、いくらでもあった。
『俺にできるかな』
『知らない』
思い出して、男は思わず笑った。
「……あいつ」
あのとき普通なら、「できるよ」くらい言ってくれてもよかったはずだ。
けれど、則人は言わなかった。
『まだやってないもん』
『やってみたら分かるよ』
「ほんと、簡単に言ってくれるよな……」
けれど。
今になってみれば、その答えでよかったのかもしれない。
できると保証されたから始めるのではない。
できるかどうか分からないから、まず知ってみる。
何が必要なのか。
何を学べばいいのか。
どうすれば教える側へ進めるのか。
一個ずつ。
男は問い合わせの画面を開いた。
元陸上選手であること。
怪我で競技を離れたこと。
最近、子供たちへ走り方を教える機会があり、指導することに興味を持ったこと。
今後、指導について学んでみたいと思っていること。
一度、話を聞いてみたいこと。
一つずつ文字にしていく。
書き終えて、最初から読み直した。
「…………」
送信ボタンの前で、指が止まる。
これを押したからといって、コーチになれるわけではない。
明日から人生が変わるわけでもない。
うまくいく保証もない。
話を聞いた結果、自分にはまだ足りないものが多すぎると分かるかもしれない。
それでも。
今までの自分なら、ここまで来る前にやめていただろう。
『今さら』
『無理だ』
『俺にはできない』
そう言って、調べることさえしなかった。
できない理由だけなら、いくらでも見つけられた。
「……やってみないと、分からない……か」
自分で口にすると、また少し笑ってしまう。
「小学生に教えられてるな、俺」
男はもう一度、画面を見る。
そして、送信ボタンを押した。
画面が切り替わる。
『お問い合わせを受け付けました』
それだけだった。
歓声もない。
拍手もない。
誰も見ていない。
かつての自分なら、こんな小さなことを「一歩」だとは思わなかったかもしれない。
もっと速く。
もっと上へ。
もっと大きな舞台へ。
そうやって進むことだけが、前へ進むことだと思っていた。
でも今は違う。
昔の場所へ戻ることはできない。
失った時間も、怪我をする前の身体も、そのまま取り戻すことはできない。
だからといって、自分の道がそこで終わったわけではなかった。
違う場所へ向かって、もう一度走り出すことはできる。
「……まずは、一個目」
男はそう呟いて、少しだけ笑った。
今度の一歩は、誰かに見てもらうためでも、誰かに期待されたからでもない。
自分で考え、自分で決めて、自分で踏み出した。
まだ、その先に何があるのかは分からない。
それでいい。
最初から全部分かる必要なんてない。
一個ずつ。
今度は自分自身が、その言葉を信じてみようと思った。
それが、男が選んだ新しい道への、最初の一歩だった。
本作品を含む、凛監修×生成AI合作作品は、同じ世界観の中でつながるシリーズ作品です。
それぞれ単独でもお楽しみいただけますが、同じ出来事が別作品では異なる視点から描かれたり、一方で起きた出来事が、もう一方の物語へつながったりすることがあります。
一つの作品だけでも楽しめる。
けれど、複数の作品を読むことで、初めて見えてくるものもある。
ぜひ、それぞれの物語をあわせてお楽しみください。
【人間×生成AIによる合作作品】
企画・原案・設定・ストーリー構成:時根脱才
文章制作・構成補助:ChatGPT(OpenAI)
本作品の世界観、キャラクター、各エピソードの原案・展開は作者が制作し、それをもとにAIと相談・推敲を重ねながら、小説として文章化しています。
本作品は「小説家になろう」「カクヨム」の両サイトに掲載しています。




