今の俺・後編
今の俺・後編
ポコン。
軽い音が響いた。
「…………」
男は目を瞬いた。
少し身構えていたものの、痛みらしい痛みはない。
「……終わり?」
「うん。ほら、痛くないでしょ?」
「……本当に痛くないな」
「だから言ったじゃん!」
「最初に『たぶん』って言っただろ」
「あれ?」
「忘れるなよ」
男が苦笑した、そのときだった。
身体の奥から、何かが抜けていくような感覚がした。
「……ん?」
男の中から、悪側へ偏っていた因子が叩き出される。
同時に、身体を包んでいた白い着ぐるみがゆっくりと剥がれ始めた。
鳩を思わせる大きな翼が消えていく。
身体を飾っていた枝葉も、聖火台を思わせる部分も離れていく。
最後まで小さく残っていた炎が、ふっと消えた。
そして。
着ぐるみが完全に剥がれ落ちる。
「…………」
そこに立っていたのは、もう怪人ではなかった。
元の男だった。
「戻った……」
男は自分の両手を見る。
腕を見る。
身体を見る。
翼はない。
着ぐるみもない。
「本当に戻った」
「よかったね!」
則人が笑う。
「ああ……」
男も、ようやく力を抜いた。
◇
剥がれた着ぐるみの因子が、ふわりと浮かび上がった。
「お」
則人が見上げる。
因子はそのまま空へ向かって昇っていく。
高く。
さらに高く。
男も。
美緒も。
悟も。
つられるように空を見上げた。
「何あれ?」
悟が聞く。
「着ぐるみの因子」
則人が答える。
「どこ行くの?」
「上」
「それは見れば分かるよ!」
美緒が吹き出す。
「則ちゃんに聞いたのが間違いだったね」
「何で!?」
「だって答えが『上』だよ?」
「上に行ってるもん!」
「そうだけど!」
そんなことを話している間にも、因子はどんどん空へ昇っていく。
そして。
そのときだった。
上へ向かう因子と、まるで入れ替わるように。
何かが。
空から落ちてきた。
「ん?」
則人が見上げる。
丸い。
銀色。
どんどん大きくなる。
「……あ」
則人の顔が引きつった。
「これ……」
タライ。
「え?」
ゴンッ!
「いったぁぁぁぁい!」
見事に則人の頭へ直撃した。
則人は両手で頭を押さえ、その場にしゃがみ込む。
「則ちゃん!?」
美緒が叫ぶ。
「何でタライ!?」
悟も目を丸くした。
「どっから落ちてきたの!?」
「痛い……!」
「大丈夫!?」
「痛い!」
「それは見れば分かる!」
「ひどい!」
則人が涙目で顔を上げる。
そして。
「あ」
タライと一緒に現れた小さな姿を見つけた。
「出た!」
美緒も同時に気づく。
「タライ小僧!」
「やっぱり出た!」
則人は頭を押さえたまま、タライ小僧を見る。
「え?」
悟だけが周囲を見回した。
「何が出たの?」
「タライ小僧!」
「タライは見えてる!」
「その横!」
「どこ!?」
「そこ!」
「何もいないよ!」
美緒が悟の顔を見る。
「ほんとに見えないんだ」
「だからさっきからそう言ってるだろ!」
「カチューシャ貸そうか?」
「最初から貸してよ!」
「あ」
「『あ』じゃないよ!」
美緒が笑う。
その横で、タライ小僧は三人の騒ぎなど気にする様子もなく腕を組んでいた。
「採点だ!」
「来た!」
則人が頭の痛みも忘れて立ち上がる。
「採点?」
悟が聞く。
「何の?」
「ぼくの!」
「何で!?」
「いつもやるの!」
「何で!?」
「知らない!」
「知らないの!?」
タライ小僧が胸を張った。
「今回の則ちゃんは――」
則人がごくりと唾を飲む。
美緒も少し身を乗り出した。
「何点?」
タライ小僧が大きく息を吸う。
「九十七点!」
「おおっ!」
則人が飛び上がった。
「やったー!」
「高っ!」
美緒も驚く。
「則ちゃん、すごいじゃん!」
「何が九十七点なの!?」
悟だけが、まったく状況についていけない。
「誰が採点してるの!?」
「タライ小僧!」
「だから見えないって!」
男は、そんな三人を見ながら首を傾げていた。
「……俺にも、何となくしか見えないんだけど」
「今、九十七点って言ったんだよ!」
則人が説明する。
「何の点数?」
「ぼくの!」
「だから何の?」
「今日の!」
「今日の何だよ」
「今日のぼく!」
「……よく分からないな」
「ぼくも!」
「お前も分からないのかよ」
男が思わず笑った。
則人はすぐにタライ小僧を見る。
「でも、何で百点じゃないの?」
タライ小僧が腕を組む。
「うーむ」
少し考える。
則人は答えを待つ。
やがて。
「満点にすると、則ちゃんが調子に乗りそうだから!」
「ええーっ!?」
則人が大声を上げた。
「そんな理由!?」
美緒が吹き出す。
「じゃあ妥当じゃない?」
「美緒ちゃん!?」
「三点で済んでよかったじゃん」
「ひどい!」
「でも則ちゃん、百点だったら絶対自慢するでしょ?」
「しないよ!」
「する」
「しない!」
「する!」
「悟君はどう思う!?」
「俺、何の話してるのか分かってないから!」
悟が叫ぶ。
男はとうとう声を出して笑った。
◇
その頃。
空へ昇っていった着ぐるみ因子は、四聖獣側へと届いていた。
因子はそこで形を変えていく。
一枚。
二枚。
三枚。
そして。
四枚。
今回も、四枚のガチャコインへと変換された。
◇
男は改めて自分の身体を見る。
翼はない。
白い着ぐるみもない。
身体を飾っていた枝葉もない。
そして。
あれほど大きく燃えていた炎も、もうどこにもなかった。
頭の上へ手をやってみる。
当然、何もない。
「……消えたな」
「何が?」
則人が聞く。
「火」
「ああ」
男は少しだけ寂しそうに笑った。
「結局、俺の火は消えたんだな」
あれほど危険な炎だった。
人を怖がらせた。
それでも。
自分の中で消えてしまった何かが、もう一度燃えたような気もしていた。
すると。
「またつければいいじゃん」
則人が言った。
「……え?」
男が則人を見る。
「簡単に言うなよ」
「何で?」
「火だぞ?」
「そっちじゃないよ」
「……そっちじゃない?」
則人は少し考えてから、男を見る。
「お兄さん、また何かやればいいじゃん」
「何かって?」
「走るの教えるとか」
「…………」
「お兄さん、走るの詳しいじゃん。教えるのも上手いし」
男は何も言わなかった。
そこへ。
「俺もちょっと教えてほしい」
悟が言った。
「お前も?」
「だって、速くなれたらかっこいいじゃん」
「それだけか?」
「それじゃ駄目なの?」
「……いや」
男は笑う。
「十分だよ」
「私も見に行こうかな」
美緒も言った。
「美緒ちゃんも走るの?」
則人が聞く。
「私は見る方」
「走らないの?」
「疲れるじゃん」
「走ろうよ!」
「嫌だよ!」
「何で!?」
「疲れるから!」
「さっきからそれしか言ってないよ!」
「大事なことだから!」
「…………」
男が吹き出した。
「お前ら、本当に自由だな」
「そう?」
則人が首を傾げる。
「ああ」
男は三人を見る。
少し前まで。
自分は大勢の視線を欲しがっていた。
競技場いっぱいの観客。
カメラ。
新聞。
自分の名前を知っている人たち。
そういうものがなければ、自分には価値がないように思っていた。
でも。
今、目の前にいる三人が見ているのは、昔の自分ではない。
記録を出した自分でもない。
オリンピックを目指していた自分でもない。
今ここにいる自分へ、
「教えてほしい」
と言っている。
「…………」
男は自分の脚を見る。
もう、昔のようには走れない。
それは変わらない。
過去へ戻れるわけでもない。
怪我をする前の身体が戻ってくるわけでもない。
でも。
だからといって。
もう何もできないわけではない。
「……そういう道も、あるのかな」
「あるんじゃない?」
則人が答える。
「適当だな」
「だって、ぼく小学生だもん」
「またそれか」
「便利でしょ?」
「自分で言うな」
男が笑った。
則人も笑う。
美緒も。
悟も。
つられるように笑った。
もう炎はない。
歓声もない。
大勢のカメラもない。
それでも男は、不思議とさっきほど寂しくはなかった。
失ったものばかりを見ていた目が。
ようやく。
これから先にあるものへ向き始めていた。




