今の 俺・前編
今の俺・前編
「じゃあ、一緒に考えようよ」
炎の向こうで、男は則人を見つめていた。
少し前まで、男の周囲では近づくことさえためらうほどの炎が逆巻いていた。それが今はずいぶん小さくなり、まだ消えてはいないものの、則人の顔を見ながら話せるくらいには落ち着いている。
「一緒にって……何をだよ」
「お兄さんが何したいか」
「……お前に分かるのか?」
「分かんないよ」
「…………」
あまりにも迷いのない即答だった。
「分からないのかよ」
「うん」
「じゃあ何で一緒に考えるんだよ」
「分かんないから一緒に考えるんじゃん」
男はしばらく則人を見つめたあと、思わず笑った。
「お前、たまにすごいこと言ってるみたいな顔して、普通のこと言うよな」
「そう?」
「そうだよ」
則人は首を傾げる。
そんな二人の間で、男を包む炎が小さく揺れた。
◇
「じゃあさ」
則人が聞いた。
「さっき、みんなに見てもらって嬉しかった?」
「……え?」
「いっぱい人いたでしょ?」
男は周囲を見る。
さっきまで大勢の人が自分を取り囲んでいた。スマートフォンを向けられ、声を上げられ、驚かれ、「すごい」と言われた。
今はもう、その多くが離れた場所まで下がっている。
「……嬉しかったよ」
男は素直に答えた。
「そうなんだ」
「ああ」
「何で?」
「何でって……久しぶりだったからな」
「久しぶり?」
「みんなが俺を見てるのが」
昔、競技場へ行けば観客がいた。
名前を呼ばれた。結果を出せばカメラを向けられ、取材を受け、新聞にも載った。
自分が走る。それだけで、誰かが見ていた。
「今日、みんなが俺を見てさ……昔に戻ったみたいだった」
「昔のお兄さんに?」
「……そうだな」
則人は男を見る。
「じゃあ、今も嬉しい?」
「…………」
男の笑顔が止まった。
「今?」
「うん」
答えようとして、言葉が出なかった。
男は視線を動かす。
少し離れた場所には、さっき転んだ子供がいる。大人と一緒にいて、怪我も大したことはなさそうだった。
それでも、自分の炎から逃げようとして転んだことに変わりはない。
周囲の人々も、最初は楽しそうだった。
「すごい」
「面白い」
そう言って、自分を見てくれていた。
なのに、もっと見てほしくなった。
離れていく人を引き止めたくて炎を大きくし、結果として怖がらせてしまった。
今、人々は遠くからこちらを見ている。
「……分からない」
「そっか」
「せっかく、みんなが俺を見てたのにな。もっと嬉しいと思ってた」
また見てほしかった。
また注目されたかった。
昔のように、自分がそこにいるだけで誰かが期待してくれる場所へ戻りたかった。
「なのに……全然、思ってたのと違った」
◇
「じゃあ、公園は?」
「……公園?」
「ぼくたちに走るの教えてたとき。楽しかった?」
「何だよ、急に」
「いいから」
「お前、質問多いな」
「一緒に考えるんでしょ?」
「……そうだったな」
男は少し考えた。
最初は、たまたまだった。
公園で走っている子供たちを見て、走り方が気になった。ただそれだけで、つい声をかけた。
腕の振り方を教えた。
身体に力を入れすぎるなと教えた。
それだけのことだった。
「……まあ」
「まあ?」
「楽しかったよ」
則人が少し笑う。
「じゃあ、ぼくが前より走れるようになったときは?」
「嬉しかった」
今度は、男はすぐに答えた。
「ほんと?」
「ああ」
「何で?」
「何でって……お前が喜んでたから、かな」
「ぼくが?」
「そうだよ」
「ぼくが嬉しいと、お兄さんも嬉しいの?」
「……そうみたいだな」
言ってから、男自身が少し不思議そうな顔をした。
速くなったのは自分ではない。
自分が記録を出したわけでもない。
褒められたのも、できるようになって喜んだのも子供たちだ。
なのに、自分も嬉しかった。
「じゃあ、そのときも見てもらってたじゃん」
「……え?」
「ぼく、お兄さん見てたよ。みんなも」
男は黙った。
「昔走ってたお兄さんじゃないよ。今、走るの教えてくれてるお兄さん」
「…………」
「ぼく、また教えてって言ったよ。他の子も言ってた」
「……ああ」
「じゃあ、見てもらってたじゃん」
男は答えなかった。
則人には、どうして男が黙っているのか分からない。
「違うの?」
「……違わないよ」
男がようやく答えた。
「違わないけど……数人だろ」
「何人だったらいいの?」
「……え?」
「百人?」
「…………」
「千人?」
「…………」
「一万人?」
則人は自分で言ってから首を傾げた。
「一万人って、どれくらい?」
「お前が言ったんだろ」
「じゃあ……すっごくいっぱい!」
「急に適当になったな」
「何人だったらいいの?」
男は答えようとした。
でも、答えられなかった。
百人ならいいのか。
千人なら満足するのか。
一万人なら。
もっと大勢なら。
いったい何人に見てもらえば、自分は満足できるのだろう。
「……分からない」
「また分かんない?」
「ああ」
「じゃあ、それも一緒に考えよう」
「考えること増えたな」
「うん」
男は苦笑した。
◇
「一人じゃないけどね」
別の声がした。
則人が振り返る。
「美緒ちゃん」
炎が弱まったことで、美緒と悟も少し近くまで来ていた。
「私も見てるし」
美緒が男を見る。
「俺もいるよ」
悟も手を上げた。
男が二人を見る。
「まあ、最初は鳩がすごいって見てたんだけど」
「それ今言わなくてよくない?」
悟がすぐに突っ込んだ。
「だって本当じゃん」
「今、いい話っぽかったのに」
「嘘つくよりいいでしょ」
「そういう問題かなあ」
「何よ」
「別に」
男の口元が少し緩んだ。
「何?」
美緒が気づく。
「いや……」
「笑った?」
「笑ってない」
「今笑ったじゃん」
「笑ってないって」
「笑ったよね、則ちゃん?」
「うん」
「おい」
今度は男がこらえきれず、少しだけ声を出して笑った。
美緒と悟が言い合いを始め、則人まで当たり前のように混ざってくる。
少し前まで炎に囲まれ、大勢の人へ「俺を見てくれ」と叫んでいたのが嘘のようだった。
◇
しばらくして、男は自分の周囲で揺れる炎を見る。
ずいぶん小さくなっている。
「昔はさ……走れば褒められたんだ」
誰に聞かれたわけでもなく、男が話し始めた。
三人が男を見る。
「大会に出て、結果を出して。そうしたら名前を呼ばれて、また次を期待された。もっと上へ行けって言われた」
次は全国。
次は代表。
次は世界。
いつだって、その先があった。
「俺自身も、それがずっと続くと思ってた。次があるのが当たり前だったんだ。もっと速くなれると思ってた」
でも。
ある日、その「次」がなくなった。
「怪我して、走れなくなって……」
男が自分の脚を見る。
それまで自分の周りにあったものが、一つずつなくなっていった。
大会。
観客。
取材。
期待。
「普通に働くようになった」
それが悪いわけではない。
今の仕事が嫌いなわけでもない。
けれど、周囲から言われるのは、
『昔はすごかった』
『惜しかった』
『もったいない』
そんな言葉ばかりだった。
「ずっとさ。今の俺には何もないって思ってた」
昔の自分には、いろいろあった。
誰かが期待してくれた。
次を待ってくれた。
自分が何をするのか、見ていてくれた。
それが全部なくなったように思えた。
「今は……誰にも必要とされなくなった気がした」
男がようやく口にする。
則人は何も言わない。
美緒も悟も、今度は黙って聞いていた。
「だから……俺、見てほしかったんじゃなくて……」
そこまで言って、男は首を振った。
「いや。それは違うな。見てほしかったのも本当だ」
今日、大勢が自分を見たとき。
確かに嬉しかった。
だからもっと、もっとと欲しがった。
けれど、あれだけの人に見られても、自分の中にあったものは埋まらなかった。
「それだけじゃなかったんだな」
男はゆっくりと息を吐く。
自分が失ったと思っていたもの。
もう一度欲しかったもの。
それは、ただ大勢の視線を集めることではなかった。
「俺……もう一回、必要だって言われたかったのかもしれない」
その言葉とともに、男を包んでいた炎がまた一回り小さくなった。
則人は黙って男を見つめる。
そして、少しだけ笑った。
男にはまだ分かっていない。
でも。
則人には、もう答えの一つが分かっている気がした。




