もう一度だけ
もう一度だけ
休日。
男は自宅で、特に何をするでもなくスマートフォンを眺めていた。動画を見て、ニュースを見て、少しゲームをする。飽きたら閉じる。そんなことを繰り返していたときだった。
「ん?」
昔の競技仲間からメッセージが届いた。
『懐かしいの出てきた』
その下には、一本の動画が添付されている。
「懐かしいの?」
何となく開いてみる。
画質はあまり良くない。少し昔の映像だった。陸上競技場のスタートラインに選手たちが並んでいる。
「…………」
男の指が止まった。
そこに、自分がいた。
今より若い。ユニフォーム姿で、身体も細い。それでいて、今よりずっと引き締まっている。
スタートの合図とともに、選手たちが一斉に飛び出した。
自分も走る。
「…………」
速い。
自分のことなのに、そう思った。
こんなふうに走っていた。知っているはずなのに、ずいぶん久しぶりに見た気がする。
映像の向こうから実況が聞こえる。自分の名前が呼ばれ、「期待の若手」「将来の代表候補」といった言葉も聞こえてきた。
やがてゴールする。
映像の中の自分は息を切らしていた。それでも笑っている。仲間が駆け寄り、誰かが肩を叩く。周囲からいくつもの声が飛び、カメラまで向けられていた。
男は動画を止めた。
画面の中で、昔の自分が笑ったまま止まっている。
あの頃は、それが当たり前だった。
走れば誰かが見ていた。
結果を出せば名前を呼ばれた。
次はどこまで行くのかと期待された。
自分自身も、もっと先へ行けると信じていた。
男はしばらく画面を見つめてから、もう一度、再生ボタンを押した。
◇
気づけば、男は外へ出ていた。
別に何かをするつもりだったわけではない。ただ、少し身体を動かしたくなった。
最初はゆっくりと走る。
「ふっ……ふっ……」
呼吸を整えながら、一定の速度を保つ。
久しぶりというほどでもない。たまに身体を動かすくらいはしている。
でも、今日は少し違った。
頭の中に、さっきの映像が残っている。
若い自分。
走っている自分。
男は少し速度を上げた。腕を振り、脚を前へ出す。
「……まだ」
もう少しだけ速度を上げる。
風が顔に当たり、景色が後ろへ流れていく。
気持ちいい。
久しぶりだった。
ただ走っているだけなのに、身体の奥に残っていた何かが少しずつ目を覚ましていく。
腕の振り。
呼吸。
足の運び。
意識しなくても身体が動く。
何年経っても、覚えている。
「……まだいける」
さらに速度を上げた。
一瞬、本当に昔へ戻ったような気がした。
男の口元に笑みが浮かぶ。
「まだ……!」
そのときだった。
「っ!」
脚に痛みが走った。
男はすぐに速度を落とし、立ち止まった。息を整えながら脚へ手を当てる。
「…………」
激痛ではない。倒れるほどでもない。
それでも、走り続けるべきではないことくらい、自分が一番よく分かっている。
『痛いのに無理して走るのが、一番駄目だ』
つい先日、子供たちへ言った自分の言葉を思い出した。
「……分かってるよ」
男は走るのをやめ、歩き始めた。
その横を、一人の若いランナーが駆け抜けていく。
速い。
当然だ。
自分はもう現役ではない。比べること自体がおかしい。
頭では分かっている。
それでも男は、その背中を目で追っていた。
「分かってるって」
誰に言ったのか。
自分でも分からなかった。
◇
「お兄さん!」
帰り道。
聞き覚えのある声に、男が振り返った。
「……またお前か」
則人が走ってくる。
「何してるの?」
「帰るところ」
「走ってた?」
「ちょっとな」
「じゃあ練習?」
「練習じゃないよ」
男が歩き出すと、則人もその隣を歩く。
数歩進んだところで、則人が男の足元を見た。
「ねえ」
「何?」
「足痛い?」
男が止まった。
「……何で?」
「歩き方変だから」
「…………」
よく見ている。
男は隠すのを諦めた。
「ちょっと走りすぎた」
すると則人が、すぐに言った。
「駄目じゃん」
「え?」
「お兄さん言ってたよ」
則人は男の真似をするように、少し低い声を出した。
「痛いのに無理して走るのが、一番駄目だ」
「…………」
「言ったでしょ?」
男は数秒黙ってから、吹き出した。
「言ったな」
「自分で守ってないじゃん」
「面目ない」
「めんもく?」
「ごめんなさいってこと」
「じゃあ休まなきゃ駄目だよ」
「はいはい」
「はいは一回!」
「……はい」
則人は満足そうにうなずいた。
男も笑った。
教えたはずの相手から、自分の言葉をそのまま返されるとは思わなかった。
「お兄さんもちゃんと休むんだよ」
「分かったよ、先生」
「ぼく先生じゃないよ」
「知ってる」
少しだけ、脚の痛みを忘れた。
◇
しばらく歩いたところで、則人がまた聞いた。
「お兄さん、また速くなりたいの?」
「え?」
「だって走ってたんでしょ?」
「まあ」
「オリンピック行きたい?」
男は少し笑った。
「もう無理だよ」
「何で?」
「何でって……」
則人を見る。
本当に分かっていない顔をしている。
「年齢もあるし。昔みたいには走れないし。それに……」
自分の脚を見る。
「身体もな」
「じゃあ何で走ったの?」
「…………」
男は答えようとして、止まった。
何で自分は今日、走ったのだろう。
昔の動画を見たから。
懐かしくなったから。
まだ走れるか確かめたかったから。
どれも間違いではない。
少し考えてから、男は答えた。
「……走りたかったからかな」
「じゃあ走ればいいじゃん」
「簡単に言うなあ」
「何で?」
「走るだけならできるよ。でもな……」
「うん」
続きを言おうとして、言葉が止まった。
走るだけならできる。
誰かに勝たなくてもいい。
大会へ出なくてもいい。
代表にならなくてもいい。
ただ走るだけなら。
それでも男には、何かが違うように思えた。
自分が欲しかったのは、本当にただ走ることだけだったのだろうか。
「まあ、大人にはいろいろあるんだよ」
「またそれ」
「また?」
「仕事も簡単に決められないって言ってた」
「……よく覚えてるな」
「うん」
則人は笑った。
「じゃあね、お兄さん!」
「ああ」
「足、休ませてね!」
「分かったよ」
則人が走っていく。
男はその背中を見送りながら、思わず笑った。
「お前は走るのかよ」
◇
その日の夕方。
男は街を歩いていた。
足はもう、それほど気にならない。無理をしなければ問題なさそうだった。
大きなスポーツ用品店の前を通りかかったとき、店頭のモニターから聞こえてきた言葉に足が止まった。
『――次代を担う期待の新星です』
「…………」
画面に映っていたのは、若い陸上選手だった。
インタビューが流れている。
『次の目標は?』
『オリンピックです』
迷いのない声。
若い選手が笑う。
『絶対に出たいです』
周囲を歩く人たちからも声が聞こえた。
「この子すごいらしいよ」
「次のオリンピック、楽しみだな」
「…………」
男はモニターを見つめた。
『期待の新星』
知っている言葉だった。
昔、自分もそう書かれた。
『オリンピックを目指します』
自分も言った。
言ったどころか、本当に行けると思っていた。
周りも、そう思っていた。
画面の中で若い選手が走る。
速い。
男の手が、いつの間にか強く握られていた。
「俺だって……」
声が漏れる。
「俺だって、そうだった」
誰にも聞こえない。
「俺だって……期待されてたんだ」
ずっと。
昔の話だと言ってきた。
もう終わったことだと、何度も自分に言い聞かせてきた。
でも。
画面から目を離せない。
羨ましかった。
悔しかった。
あそこに自分がいるはずだった。
そう思っている自分が、まだいる。
男はようやく、それを認めざるを得なかった。
◇
男は再び歩き出した。
少しして、歩道の端に鳩が一羽降りる。
「…………」
最近、妙に鳩が目につく。
鳩が地面を歩いている。
その向こうには、スポーツ大会の広告があった。
大きく描かれた炎。
聖火を思わせる意匠。
男は鳩を見た。
そして、炎を見る。
なぜか。
二つとも目に残った。
少しだけ立ち止まったものの、何も言わずにまた歩き出す。
鳩も、やがて空へ飛んでいった。
◇
男は気づいていなかった。
少し離れた場所。
行き交う人々の中に、一人だけ動かずに立っている者がいた。
黒い服。
その人物は、男の背中をただ見ていた。
男の姿が人混みの向こうへ消えても。
黒服は、しばらくその場に立っていた。
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それぞれ単独でもお楽しみいただけますが、同じ出来事が別作品では異なる視点から描かれたり、一方で起きた出来事が、もう一方の物語へつながったりすることがあります。
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企画・原案・設定・ストーリー構成:時根脱才
文章制作・構成補助:ChatGPT(OpenAI)
本作品の世界観、キャラクター、各エピソードの原案・展開は作者が制作し、それをもとにAIと相談・推敲を重ねながら、小説として文章化しています。
本作品は「小説家になろう」「カクヨム」の両サイトに掲載しています。




