第五章 閑話二 まず、やってみる
第五章 閑話二 まず、やってみる
「どうぞ」
女性は、向かい側の椅子を手で示した。
「ありがとうございます」
入ってきた女性は、小さく頭を下げてから腰を下ろした。
年齢は二十代後半くらいだろうか。
少し派手な髪。
きれいに整えられた爪。
服装も華やかだ。
けれど、その表情には緊張が浮かんでいる。
「そんなに固くならなくて大丈夫だよ」
「……はい」
「面接じゃないから」
そう言って笑うと、向かいの女性も少しだけ笑った。
そこは、まだ新しい小さな相談スペースだった。
立派な会社の受付があるわけでもない。
机。
椅子。
パソコン。
書類棚。
壁には簡単な案内が貼られている。
夜の仕事から、次の仕事へ。
そんな人たちの相談を受けるために作った場所だった。
「それじゃあ」
女性はノートを開いた。
「今日は、夜の仕事から別の仕事に変わりたいってことでいい?」
「はい」
「今は?」
「キャバクラです」
「どれくらい?」
「七年くらいです」
「長いね」
「……はい」
相談者は少し俯いた。
「それで……」
「うん」
「もう、そろそろ辞めたいなって思ってて」
「うん」
「でも」
その先が続かない。
女性は急かさなかった。
ただ待った。
しばらくして、相談者が口を開く。
「私、夜の仕事しかしたことないんです」
女性の表情が、ほんの少しだけ変わった。
「昼の仕事なんて、ほとんど知らないし。パソコンもそんなに得意じゃないし」
「うん」
「年齢も、もう若いって感じじゃないし」
「うん」
「今さら普通の会社なんて……」
相談者は自分の手を見る。
「私、夜の仕事しかできないんですよ」
女性は少しだけ身を乗り出した。
「ねえ」
「はい?」
「“しか”って言わなくていいよ」
相談者が顔を上げる。
「え?」
「夜の仕事、七年やってきたんでしょ?」
「……はい」
「七年続けるのって、そんな簡単?」
「それは……」
相談者が言葉に詰まる。
女性は笑った。
「私も昔、同じこと言ってたから」
「同じこと?」
「夜の仕事しかできないって」
◇
相談者が女性の顔をじっと見る。
「……え?」
「何?」
「夜の仕事してたんですか?」
「してたよ」
「本当に?」
「何で疑うの」
「いや、だって……」
相談者は慌てて手を振った。
「今、全然そんな感じに見えないから」
女性が少し目を細める。
「それ、褒めてる?」
「あっ、すみません!」
「いいよ」
くすっと笑う。
「結構長かったよ」
「キャバクラ?」
「うん」
「……そうなんですか」
相談者の緊張が、少しだけほどけた。
「私もね」
女性は椅子にもたれた。
「辞めようかなって思った時、怖かった」
「怖い?」
「今の仕事ならできるのに、次の仕事に行ったら、何もできない人になるんじゃないかって」
相談者の目が大きくなる。
「……それです」
「でしょ?」
「それが怖いんです」
「うん」
「今のお店なら、何したらいいか分かるんです。お客さんが来たらどう話せばいいとか、どういう子がどのお客さんに合うとか」
「うん」
「でも会社に行ったら、何も分からない」
女性は頷いた。
「私もそうだった」
◇
「じゃあ、ちょっと聞いていい?」
「はい」
「お客さんの顔、覚えてる?」
「覚えてます」
「名前は?」
「もちろん」
「前に何話したかは?」
「だいたい」
「好きなお酒とかは?」
「覚えてます」
「機嫌悪い時、分かる?」
「分かります」
「今日はあんまり話しかけない方がいいな、とか」
「分かります」
「逆に、今日は誰かに話を聞いてほしそうだな、とか」
「……分かります」
女性はペンを置いた。
「じゃあ、それ全部できるじゃん」
相談者が首を傾げる。
「でも、それってキャバクラだから……」
「私もそう思ってた」
「……」
「顔と名前を覚える。前に話したことを覚える。相手が何を求めてるか考える。怒ってる時に余計なこと言わない。話したい時は話を聞く」
一つずつ指を折る。
「これ、夜の仕事でしか使えないと思う?」
相談者は黙った。
「営業でも使うし、接客でも使うし。人と関わる仕事なら、結構どこでも使うよ」
「……そうなんですか?」
「少なくとも、何にもできない人じゃない」
相談者は少しだけ俯いた。
その表情は、さっきまでとは違っていた。
◇
「指名、多かった?」
「まあ……それなりには」
「なんでだと思う?」
「分かんないです」
「じゃあ、一緒に考えよう」
「一緒に?」
「うん」
女性はノートを相談者の方へ向けた。
「お客さんから何て言われること多かった?」
「えっと……」
相談者が考える。
「話したこと、よく覚えてるね、とか」
女性が書く。
「ほかは?」
「なんか話しやすいって」
書く。
「ほか」
「……新人の子に相談されることは多いです」
女性の手が止まった。
「それ、いいじゃん」
「え?」
「何を相談されるの?」
「接客の仕方とか。嫌なお客さんいた時とか」
「その子たちの話、ちゃんと聞いてる?」
「一応」
「アドバイスもする?」
「します」
「それも書こう」
「えっ?」
「新人フォロー」
「そんなの書いていいんですか?」
「実際やってるんでしょ?」
「……はい」
「じゃあ、嘘じゃない」
相談者はノートを見る。
自分が今までしてきたこと。
いつも普通にやっていたこと。
それが、別の言葉に変わって並んでいく。
接客。
顧客対応。
顧客情報の把握。
新人フォロー。
コミュニケーション。
「……なんか」
「うん?」
「私、ちょっと仕事してた人みたいですね」
女性が吹き出した。
「仕事してたんだよ!」
「そうなんですけど!」
二人で笑った。
◇
「でも」
相談者が、また少し不安そうな顔になる。
「履歴書にキャバクラって書いたら、嫌がる会社もありますよね」
「あると思う」
女性はあっさり答えた。
相談者が少し驚く。
「あるんですか」
「そりゃあるよ」
「じゃあ……」
「全部の会社に好かれる必要ないでしょ」
「……」
「夜の仕事してたってだけで絶対駄目って会社もあるかもしれない。でも、それならそこは合わなかったってこと」
「でも、何社も駄目だったら」
「別のところ探す」
女性は即答した。
相談者が目を丸くする。
「そんな簡単に?」
「簡単じゃないよ」
少し笑う。
「落ちたら普通にへこむし」
「……ですよね」
「私もへこんだ」
「転職した時ですか?」
「うん」
女性は少し遠くを見る。
「最初に入ったところ、三年くらいで辞めたし」
「えっ」
「合わなかった」
「その次は?」
「そこも色々あった」
「……」
相談者が不安そうになる。
女性は笑った。
「そんな顔しないで」
「だって……」
「転職したら全部うまくいきました、なんて話じゃないから」
「そうなんですか?」
「全然」
あっさり言った。
「失敗したし、辞めたし、合わない仕事もあったし。こんなはずじゃなかったって思ったこともある」
「じゃあ、どうしたんですか?」
「別のところ探した」
相談者が少し黙る。
女性は続けた。
「一個駄目だったからって、全部駄目なわけじゃないから」
その言葉を口にして。
女性は、ほんの少しだけ笑った。
ずっと昔。
自分も誰かに、似たようなことを言ってもらった。
◇
それから女性は、いくつかの仕事を経験した。
接客。
営業の補助。
人と人との間に入る仕事。
相談を聞く仕事。
どれも最初から上手くできたわけではなかった。
「私、パソコン本当に苦手だったから」
「今も使ってますよね?」
相談者が机の上のパソコンを見る。
「使えるようにはなったよ」
「すごい」
「たまに分かんなくなるけど」
「え?」
「その時は聞く」
女性は笑った。
「分かんないのに分かったふりする方が面倒だから」
「……」
「昔は、それができなかったけどね」
少しずつ。
できないことを隠すより。
できる人に聞いた方が早いと思えるようになった。
そして。
ある時、知人に言われた。
人の話を聞くの、向いてるんじゃない?
その一言から。
ずっと胸のどこかにあったことを考えるようになった。
昔の自分のように。
夜の仕事から別の仕事へ移りたい。
でも、怖くて動けない。
そんな人は、きっと他にもいる。
なら。
自分がしてきた失敗も。
夜の仕事で身につけたものも。
その後に経験したことも。
全部、使えるのではないか。
そう思った。
◇
相談者が、改めて部屋を見回した。
「ここって……会社なんですか?」
女性が少しだけ苦笑する。
「一応」
「一応?」
「始めたばっかりだから」
「えっ?」
「まだそんなに相談も来ないし」
「……大丈夫なんですか?」
「分かんない」
「えっ?」
相談者が固まった。
「分かんないんですか?」
「うん」
「いや、そこは大丈夫ですって言うところじゃないんですか?」
「だって分かんないもん」
女性は笑う。
「うまくいくかもしれないし、全然駄目かもしれない」
「怖くないんですか?」
「怖いよ」
また即答だった。
「今でも?」
「今でも」
女性は机の上の書類を見る。
家賃。
広告費。
今後の予定。
まだ少ない相談予約。
現実は、そんなに優しくない。
「でも」
女性は相談者を見る。
「やってみないと分かんないでしょ?」
「……」
「駄目だったら、また考える」
「それでも駄目だったら?」
「また考える」
「ずっと?」
「生きてる間はね」
相談者が少し笑った。
女性も笑う。
◇
「なんか」
相談者が言った。
「少しだけ、できそうな気がしてきました」
「少しでいいよ」
「少しで?」
「いきなり何でもできる気になったら、それはそれで危ないから」
「あはは……」
「まず一個」
「一個?」
「求人見るでもいいし。履歴書書くでもいいし。応募するでもいい」
女性は指を一本立てた。
「まず一個」
相談者も、その指を見る。
「……じゃあ」
「うん」
「今日、帰ったら応募してみます」
「無理に今日じゃなくてもいいよ」
「いや」
相談者は少し考えた。
「今日は、やってみたいです」
「そっか」
「もし駄目だったら……」
少しだけ間を置く。
相談者が笑った。
「別のところ探します」
女性も笑った。
「うん」
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
「こちらこそ?」
「私も、ちょっと元気出たから」
「相談に来たの私なのに?」
「そういうこともあるの」
二人はまた笑った。
◇
相談者が帰った。
扉が閉まる。
室内が静かになる。
女性は椅子へ深く座り直した。
「……さて」
机を見る。
現実が待っている。
来月の予定。
集客。
広告。
ホームページ。
経費。
「うーん……」
パソコンを操作する。
管理画面を開く。
数字が並ぶ。
「……分かんないなあ」
昔なら。
ここで閉じたかもしれない。
自分には無理だ。
向いてない。
そう思って。
でも。
女性はスマートフォンを手に取った。
知人へ電話をかける。
「あ、もしもし?」
少しして。
「あのさ、これ分かんないんだけど」
相手の返事を聞く。
「うん。広告のやつ」
パソコンの画面を見る。
「いや、そこまではできた。次が分かんない」
説明を聞きながら、メモを取る。
「あ、そういうこと?」
少し操作する。
画面が切り替わる。
「あ、できた!」
笑う。
「ありがと。また分かんなくなったら聞く」
電話の向こうから何か言われた。
「何よ。いいでしょ、分かんないんだから」
笑いながら電話を切った。
◇
机の隅に、小さな写真立てがあった。
若い頃の自分。
華やかな髪。
派手なメイク。
ドレス。
夜の店で働いていた頃の写真だ。
昔なら。
こんなもの、見られたくないと思っていたかもしれない。
今は違う。
女性は写真立てを手に取った。
「……あんたも頑張ってたんだよね」
写真の中の自分は笑っている。
あの頃。
夜の仕事で覚えたこと。
転職して失敗したこと。
知らない仕事を覚えたこと。
辞めたこと。
また始めたこと。
全部。
ここまで来るために使ってきた。
「無駄じゃなかったか」
小さく呟く。
◇
その時。
スマートフォンが鳴った。
新しい問い合わせだった。
『夜の仕事から転職を考えています。
でも、昼の仕事をしたことがなくて、自分に何ができるのか分かりません』
女性はその文章を、しばらく見つめた。
似ている。
さっきの人にも。
十五年前の自分にも。
女性は返信欄を開いた。
少し考えて、文字を打つ。
『まず、お話を聞かせてください』
送信。
画面に送信済みの表示が出る。
女性は椅子にもたれた。
この仕事がうまくいくかは、まだ分からない。
一年後にどうなっているかも分からない。
十五年前だって。
今の自分がこんなことをしているなんて、想像していなかった。
だから。
分からなくてもいい。
怖くてもいい。
全部決めてから動かなくてもいい。
女性はパソコンへ向き直った。
「さて」
まだ、やることはたくさんある。
「まず、一個ずつ」
そう言って。
女性は、また仕事を始めた。




