第五章 閑話一 これからは、ゆっくり
第五章 閑話一 これからは、ゆっくり
「おう。ついに今日か」
店に入ってきた男の顔を見るなり、ゴンさんが言った。
「ああ。今日で終わり」
「長かったなあ」
「ほんとにな」
男は笑った。
十五年前より白髪が増えた。
眼鏡の奥の目元にも、いくつもの皺が刻まれている。
そして、頭の方は――。
「おい」
「何だよ」
「今、俺の頭見ただろ」
「見てねえよ」
「絶対見た」
「自意識過剰だ」
「十五年も付き合ってりゃ分かるんだよ!」
そんな二人の後ろから、何人もの会社員が店へ入ってくる。
「すみません、今日は大人数で」
「予約聞いてるよ。入れ入れ」
「ありがとうございます!」
「ほら、主役。早く座ってください」
「主役って言うなよ。恥ずかしいだろ」
「今日は主役ですよ」
男は今日、定年を迎えた。
会社での最後の一日を終え、最後の飲み会の場所として部下たちが選んだのが、長年通い続けたゴンさんの店だった。
◇
「それでは!」
部下の一人がグラスを持ち上げる。
「長い間、本当にお疲れ様でした!」
「お疲れ様でしたー!」
「ありがとな」
男もグラスを上げた。
乾杯。
グラスがぶつかる。
「今日は飲んでくださいよ!」
「お前ら、俺を潰す気じゃねえだろうな」
「昔は相当飲んでたって聞きましたけど」
ゴンさんがすぐに口を挟む。
「相当どころじゃねえぞ」
「余計なこと言うな!」
「へえー」
「昔の話だ!」
「毎日のように――」
「ゴン!」
「はいはい」
ゴンさんは笑いながら離れていった。
部下の一人が男を見る。
「でも、本当に辞めちゃうんですか?」
「定年なんだから辞めるだろ」
「会社から延長の話、来てたじゃないですか」
「来てたな」
「残ればよかったのに」
別の部下も頷く。
「俺たちも、もう少しいてほしかったですよ」
「そうですよ」
「新人の面倒、誰が見るんですか」
「お前らが見ろよ!」
「えー」
「えーじゃねえ!」
笑いが起こる。
男も一緒になって笑っていた。
◇
「俺、入社した時、結構びっくりしたんですよ」
若い部下の一人が言った。
「何が?」
「だって、課長がいきなり『これ分かんねえから教えてくれ』って言ってきたんですよ」
「あったな」
「しかもパソコン」
「悪いかよ」
「悪くないですけど、普通、逆だと思うじゃないですか」
別の部下が笑う。
「教えた次の日、また聞いてたよな」
「そうそう」
「しょうがねえだろ。覚えられなかったんだから」
「三回目くらいで、やっとメモ取るようになりましたよね」
「お前が取れって言ったんだろ!」
「最初から取ってくださいよ!」
また笑いが起こる。
男は少し不満そうに酒を口へ運んだ。
「お前ら、俺の送別会で何で俺の悪口ばっかり言ってんだよ」
「悪口じゃないですよ」
「じゃあ何だよ」
「そこがよかったって話です」
男の手が止まった。
「……何が?」
部下は少しだけ真面目な顔になった。
「上司が普通に『分かんない』って言うから、俺たちも聞きやすかったんですよ」
「……」
「失敗した時もそうです」
別の部下が続ける。
「怒られる時は、めちゃくちゃ怒られましたけど」
「当たり前だ。仕事だからな」
「でも、分からなくて聞いたことで怒られたことはなかったですよね」
男は首を傾げた。
「聞かなきゃ分かんねえだろ」
「そういうところですよ」
「何が?」
「だから相談しやすかったんですって」
「……そうか?」
「そうですよ」
男には、いまいちピンと来ていないらしい。
今では、それが当たり前になっていたからだ。
少し離れたところで、ゴンさんがその会話を聞いていた。
何も言わず、少しだけ笑った。
◇
「だから、延長してほしかったんですよ」
「まだ言うか」
「だって、もったいないじゃないですか」
「会社からも言われてたんですよね?」
「ああ」
男は酒を一口飲んだ。
昔のように、一気には飲まない。
ゆっくりとグラスを置く。
「もういいんだよ」
「でも――」
「俺、仕事ばっかりしてきたからな」
部下たちが静かになる。
「途中から、ちょっとはマシになったと思うけどさ」
男は頭を掻いた。
「それでも、母ちゃんには随分待たせた」
「奥さんですか?」
「ああ」
「息子さんは?」
「もうとっくに独立したよ」
「寂しくないですか?」
「寂しいよ」
即答だった。
部下が少し驚く。
男は笑った。
「そりゃ寂しいだろ。子供なんだから」
「じゃあ、一緒に住んでもらえば」
「馬鹿言え。あいつにはあいつの生活がある」
男はグラスを手に取った。
「たまに飯でも食いに来りゃ、それでいいんだよ」
そう言って、少しだけ嬉しそうに笑った。
◇
「じゃあ、定年後は何するんです?」
「遊ぶ」
「遊ぶ?」
「母ちゃんと」
「旅行ですか?」
「そう」
男はスマートフォンを取り出した。
「今、色々調べてんだよ」
「へえ」
「まず温泉だろ。それから――」
画面を見せる。
「ほら、ここ」
部下が画面を見る。
「……それ、広告ですよ」
「え?」
「広告」
「またかよ!」
一斉に笑いが起きた。
「十五年経っても広告押すんですか!」
「最近の広告が紛らわしいんだよ!」
「絶対それだけじゃないですよ!」
「うるせえ!」
男はスマートフォンを部下へ差し出す。
「じゃあ、これどうやって戻る?」
「ここです」
「これ?」
「そうです」
「おう、ありがと」
何でもないやり取りだった。
男も、部下も。
誰も、それを特別なことだとは思っていない。
十五年前には、なかなか言えなかった言葉。
教えてくれ。
それが今では、ごく普通の言葉になっていた。
◇
「で、どこ行くんです?」
「それを今、母ちゃんと決めてんだよ」
「奥さんに全部お任せじゃないんですか?」
「違うよ」
男は少し得意そうにスマートフォンを見せる。
「母ちゃんが行きたいところ聞いて、俺が行きたいところも言って。予算見て、一緒に決めてんの」
「へえ」
「何だよ、その顔」
「いや、ちゃんとしてるなと思って」
「俺を何だと思ってんだ!」
「仕事人間」
「昔の話だ!」
「今も結構そうでしたけどね」
「だから辞めるんだよ!」
男は笑った。
「これからは、今までできなかったことやるんだ」
「いいですね」
「ああ」
少しだけ間を置く。
「楽しみなんだよ」
照れくさそうな言葉だった。
けれど、それは男の素直な気持ちだった。
◇
送別会も終わりに近づいた。
部下たちが立ち上がる。
花束。
記念品。
そして。
「本当に、お疲れ様でした」
男は花束を受け取った。
「ありがとな」
「会社来たくなったら、いつでも来てください」
「嫌だよ。辞めた次の日に行ったら恥ずかしいだろ」
「一週間後なら?」
「早えよ!」
「一か月?」
「何で戻る前提なんだよ!」
笑い声が上がる。
その中で、一人の部下が少し真面目な顔をした。
「でも、本当にありがとうございました」
「ん?」
「俺、あなたが上司でよかったです」
男が固まった。
「……お前」
「はい」
「そういうのやめろよ」
「何でです?」
「恥ずかしいだろ」
「今日くらいいいじゃないですか」
周りの部下たちも頷く。
「俺もです」
「俺も」
「相談しやすかったです」
「失敗した時は怖かったですけど」
「最後のいらねえだろ!」
また笑いが起きた。
男は少しだけ俯く。
それから。
「……俺も」
顔を上げた。
「お前らが部下でよかったよ」
一瞬、静かになった。
「……」
男が眉を寄せる。
「何だよ」
「いや」
「言うと思わなかったんで」
「お前らなあ!」
笑い声が店いっぱいに広がった。
◇
「じゃあ、また来ます!」
「おう」
「連絡しますからね!」
「おう」
「会社の愚痴聞いてください!」
男が手を上げる。
「それは一杯おごれ」
「有料なんですか!?」
「当たり前だ!」
「元上司なのに!」
「もう元だからな!」
部下たちは笑いながら店を出ていった。
扉が閉まる。
急に少しだけ静かになった。
男は花束を横へ置く。
「……終わったなあ」
ゴンさんがグラスを片付けながら言った。
「いい部下じゃねえか」
「まあな」
「ずいぶん慕われたもんだ」
「俺の人徳だな」
「十五年前のお前じゃ考えられんな」
「うるせえ」
「若い奴に『教えてくれ』って言うだけで、あんなに悩んでたのにな」
「昔の話だろ」
「ネズミにもなったしな」
「それは言うな!」
ゴンさんが笑う。
男は少し恥ずかしそうに酒を飲んだ。
◇
「でも」
ゴンさんが聞く。
「本当に辞めてよかったのか?」
男は少し考えた。
会社からは、もう少し残らないかと言われた。
部下たちも残ってほしいと言ってくれた。
必要とされている。
それは嬉しかった。
「……いいんだよ」
男はスマートフォンを見る。
ちょうどメッセージが届いた。
妻からだった。
旅行先の候補。
宿の写真。
その下に、
『ここも良くない?』
男の顔が少し緩む。
「今度は、こっちをちゃんとやる」
ゴンさんが画面をちらりと見る。
「旅行が仕事かよ」
男は笑った。
「十五年遅れの大仕事だ」
「仕事にすんなよ」
「そうだな」
男も笑う。
「じゃあ、遊びだ」
「それでいいんだよ」
◇
男は花束を持って立ち上がった。
「じゃあ、俺も帰るわ」
「おう」
店を出ようとして、ふと止まる。
「そういやさ」
「ん?」
「則人は?」
ゴンさんが男を見る。
「則人?」
「最近どうしてんだよ」
「どうって、あいつもあいつで忙しいらしいけどな」
ゴンさんは何でもないことのように続ける。
「ぼちぼち来るぞ」
「まだ来てんのか」
「来るよ」
「そうか」
男は少し笑った。
「じゃあ、今度会ったら話してみるかな」
「そうしろ」
「一杯おごってやるか」
ゴンさんが眉を上げる。
「酒か?」
「……あいつ、飲むのか?」
「本人に聞け」
「じゃあ飯でいいか」
「それが無難だな」
「十五年前のお礼、まだちゃんとしてねえ気がするし」
ゴンさんが笑う。
「十五年も経ってからかよ」
「いいんだよ。会った時で」
「そうか」
「ああ」
◇
男は店を出た。
夜風が少し気持ちいい。
スマートフォンを開く。
妻から送られてきた旅行先を見る。
少し考えて、文字を打った。
『ここいいな。こっちも見つけたけど、どうだ?』
送信。
少しして、返事が来る。
そこからまた、二人の相談が始まった。
十五年前。
何をすればいいのか分からなかった。
分かっていても、一度うまくいかなければ、そこで諦めていた。
若い人間に教えてほしいと言うことも。
妻をもう一度誘うことも。
子供との距離を受け入れることも。
難しく考えていた。
十五年経っても、分からないことはまだいくらでもある。
新しいものは、相変わらず苦手だ。
失敗だってする。
だから。
分からなければ聞く。
できなければ教えてもらう。
一人で決められなければ、一緒に考える。
そうやって十五年やってきた。
男はスマートフォンを見ながら歩き出す。
仕事は終わった。
これからは。
母ちゃんと二人で。
ゆっくりやればいい。
本作品を含む、凛監修×生成AI合作作品は、同じ世界観の中でつながるシリーズ作品です。
それぞれ単独でもお楽しみいただけますが、同じ出来事が別作品では異なる視点から描かれたり、一方で起きた出来事が、もう一方の物語へつながったりすることがあります。
一つの作品だけでも楽しめる。
けれど、複数の作品を読むことで、初めて見えてくるものもある。
ぜひ、それぞれの物語をあわせてお楽しみください。
【人間×生成AIによる合作作品】
企画・原案・設定・ストーリー構成:時根脱才
文章制作・構成補助:ChatGPT(OpenAI)
本作品の世界観、キャラクター、各エピソードの原案・展開は作者が制作し、それをもとにAIと相談・推敲を重ねながら、小説として文章化しています。
本作品は「小説家になろう」「カクヨム」の両サイトに掲載しています。




