第五章 第五話 ふたつのガスネズミ
第五章 第五話 ふたつのガスネズミ
朝から、どうにも気分が晴れなかった。
男は自分の席に座り、パソコンの画面を眺めていた。
少し離れたところでは、若い社員たちが新しいシステムについて話している。
「これ、こっちに移した方が早くない?」
「いや、それだと後で修正する時に面倒だよ」
「じゃあ、この機能使う?」
「それならいけるか」
会話の内容は分かる。
何をしようとしているのかも分かる。
でも、自分ではできない。
聞けばいい。
昨日だって、そう思った。
今からでも、
「ちょっと俺にも教えてくれ」
そう言えばいい。
男は椅子から立ち上がりかけた。
「……」
また座った。
何をやっているんだ。
たった一言だ。
分からないから教えてくれ。
それだけなのに。
若い社員の一人が男に気づいた。
「課長、どうしました?」
「いや……何でもない」
「そうですか?」
「ああ。続けてくれ」
「はい」
社員はすぐ仕事へ戻った。
男は机の下で拳を握った。
まただ。
また言えなかった。
◇
その日の午後。
若い部下が男のところへやって来た。
「課長、この前の取引先の件なんですけど」
「ああ。どうだった?」
「うまくいきました」
部下は嬉しそうだった。
「課長に言われた通り、最初に向こうの話を全部聞いたんです。そしたら、向こうも別にこっちを責めたいわけじゃなかったみたいで」
「そうか」
「ありがとうございました」
「俺は何もしてねえよ。話したのはお前だろ」
「でも、課長に聞いてなかったら、またこっちの事情ばっかり説明してたと思います」
部下が頭を下げる。
男は笑った。
「次からは自分でできるな」
「はい」
部下が戻っていく。
男はその背中を見送った。
嬉しい。
本当なら、それでいいはずだった。
自分が経験してきたことを、若い人間へ渡す。
それも仕事だ。
管理職として間違っていない。
分かっている。
なのに、隣のパソコン画面を見ると胸がざわつく。
「……俺だって、まだできるんだよ」
誰にも聞こえない声で呟いた。
◇
女は鏡の前で化粧をしていた。
今日は少し早めに目が覚めた。
スマートフォンには、以前から見ている求人サイトが表示されている。
あの求人もまだ残っていた。
何度見ただろう。
応募する。
そのボタンを押すだけ。
女は途中まで化粧をした顔で画面を見る。
「……今日こそ」
履歴書も残っている。
前に書いたところまで保存されていた。
職歴。
仕事内容。
全部書いた。
あとは応募するだけ。
指を伸ばす。
その時、別の通知が画面上部に表示された。
店からだった。
今日の予約。
指名。
出勤時間。
いつもの仕事。
女は通知を消した。
再び求人画面を見る。
「……」
応募する。
今度こそ。
指先がボタンに触れかける。
止まった。
もし採用されたら。
今の店を辞めるのか。
収入は下がる。
生活は変わる。
昼に起きていた生活から、朝起きて働く生活へ変わる。
パソコンを使う。
知らない人たちの中へ入る。
今までの自分が通用する保証なんてない。
「……怖い」
初めて、口に出した。
辞めたいのに。
変わりたいのに。
変わった先へ行くのが怖い。
「何やってんだろ、私」
結局、今日も画面を閉じた。
◇
夜。
男は家へ帰った。
今日は飲んでいなかった。
妻が少し意外そうな顔をする。
「今日は早いのね」
「ああ」
「ご飯食べる?」
「頼む」
リビングへ入る。
子供がソファでスマートフォンを見ていた。
男は隣に座ろうとして、少し迷った。
「なあ」
「何?」
「……最近、学校どうだ?」
「普通」
また同じ答え。
男は苦笑した。
「それ以外ないのかよ」
「別に」
「部活は?」
「普通」
「友達は?」
子供が顔を上げた。
「何で今日そんなに聞くの?」
「いや……」
ただ話したかっただけだ。
でも、それを言うのも妙に照れくさい。
「別に。何となくだ」
「ふーん」
子供はまたスマートフォンへ目を戻した。
男も、それ以上聞けなかった。
妻が料理を運んでくる。
「急に全部取り戻そうとしなくてもいいんじゃない?」
男が顔を上げる。
「何が?」
「最近、気にしてるでしょ。私たちのこと」
「……別に」
「そういうところよ」
妻は少し笑った。
責めているわけではない。
むしろ優しく言っている。
それなのに、男は何も返せなかった。
急がなくていい。
少しずつでいい。
そんなことは分かっている。
分かっているのに、うまくできない。
◇
その頃。
女は店で笑っていた。
「ほんと? それすごいじゃん!」
「だろ?」
「私だったら絶対無理」
「○○ちゃんはこういうの苦手そうだもんな」
「ひどーい」
客が笑う。
女も笑う。
仕事はできる。
今日だってできている。
客の機嫌も分かる。
次に何を言えば喜ぶのかも分かる。
グラスが空く前に酒を作る。
相手が話したい時には聞く。
褒めてほしい時には褒める。
何年もやってきた。
ちゃんとできる。
「○○ちゃんって、こういう仕事向いてるよな」
客が何気なく言った。
女の笑顔が、一瞬だけ止まりかけた。
「そう?」
「うん。ずっとやってけるんじゃない?」
悪意はない。
むしろ褒めている。
それも分かる。
「……そうかな」
女は笑った。
胸の中だけが、少しずつ苦しくなった。
◇
店を出た時には、空がわずかに明るくなり始めていた。
女は一人で歩いた。
今日も仕事はできた。
失敗していない。
客も喜んでいた。
店から怒られてもいない。
なのに、嬉しくなかった。
ずっとやっていける。
その言葉が頭から離れない。
「……嫌だ」
小さく漏れた。
ずっとは嫌だ。
でも、辞めるのも怖い。
じゃあ、どうすればいい。
「しっかりしなきゃ」
何度言ったか分からない。
「ちゃんとしなきゃ」
何を。
どうやって。
誰が決めた「ちゃんと」に向かえばいい。
女は立ち止まった。
「私だって、ちゃんとやってるのに……」
声が震えた。
今の仕事だって。
生活だって。
何もしていないわけじゃない。
「私だって……ちゃんとやってるのに!」
感情が溢れた。
◇
同じ頃。
男も一人だった。
眠れずに家を出て、近所を歩いていた。
妻の言葉が頭に残っている。
急に全部取り戻そうとしなくてもいい。
正しい。
分かっている。
会社のことだって同じだ。
若い奴らに教えてもらえばいい。
自分には自分の経験がある。
それを使えばいい。
正しい。
全部正しい。
なのに、できない。
「何でだよ……」
男は足を止めた。
「俺だって、やってきたんだぞ」
何十年も働いた。
部下も育てた。
家族のために働いた。
仕事を優先しすぎたことも分かっている。
妻に任せすぎた。
子供と話す時間を作らなかった。
自分にも悪いところはある。
全部分かっている。
だから変わろうとした。
早く帰った。
家族を誘った。
子供にも話しかけた。
会社でも、新しいことを覚えようと思った。
でも。
何一つ、思ったようにできない。
「俺だって……」
拳を握る。
「俺だって、まだやれるんだよ!」
声が夜道に響いた。
◇
男の周囲で、空気が揺れた。
「……何だ?」
身体が急に重くなる。
次の瞬間。
男の身体を何かが包み始めた。
黒く汚れたようなドブネズミの毛並み。
大きなネズミの頭部を模した着ぐるみ。
その顔の開口部からは、眼鏡をかけた男自身の顔だけが覗いている。
背中にはタンク。
身体には管。
腕には散布装置。
太いネズミの尻尾。
「な、何だよこれ!」
男は慌てて自分の身体を見る。
その拍子に、腕の装置から白っぽい煙が噴き出した。
「うわっ!」
近くを歩いていた男性が、思わず鼻をつまんだ。
「くさっ!」
別の人も顔をしかめる。
「何だ、この臭い!」
男も鼻を動かす。
「……俺?」
煙に混じって漂ってくるのは、強烈な整髪料の匂い。
さらに、その奥から何とも言えない中年男性特有の生活臭。
怪人化によって、それが何十倍にも濃くなっている。
「ちょ、ちょっと待て! 俺そんな臭うのか!?」
腕を振る。
すると、また煙が出た。
「うわあっ! 振るな!」
「もっと臭くなった!」
「何だよこれ!」
男自身が一番慌てていた。
逃げていく人々を見て、
「いや、違うんだ! わざとじゃねえ!」
と追いかける。
追いかければ追いかけるほど、背中の装置から臭気が広がった。
「来るなー!」
「ひどくない!?」
男の叫びが住宅街に響いた。
◇
女の周囲でも、同じように空気が揺れていた。
「……え?」
身体を包む感覚。
白く柔らかな毛並み。
大きな丸い耳。
ハツカネズミを思わせる華やかな着ぐるみが、女の身体を覆っていく。
顔の部分だけは開いている。
そこから見えるのは、派手なメイクをした女自身の顔。
身体には小型のタンクや管。
散布器。
長い尻尾。
「何……これ……」
女が後ずさる。
その拍子に、腕の散布器から霧が噴き出した。
ふわり。
一瞬だけなら、甘く華やかな香りだった。
その直後。
「……くっさ!」
通りかかった若者が鼻を押さえる。
「香水!?」
「濃っ! 何これ!」
女が目を丸くした。
「え?」
自分でも匂いを嗅ぐ。
甘い。
花のような香り。
普段使っている香水に近い。
ただし、異常に濃い。
「ちょっと待って。私こんなにつけてないんだけど!」
慌てて腕を動かす。
また霧が出る。
「うわっ!」
「鼻曲がる!」
「やだ、来ないで!」
「だから私も止めたいの!」
女が叫ぶ。
けれど散布器は、動くたびに香りを撒き散らしていく。
華やかなハツカネズミの着ぐるみ。
甘すぎる香水。
本人は必死。
周囲から見れば、ただただ妙な光景だった。
◇
しばらくすると、写真や短い動画がSNSに上がり始めた。
『近所にネズミの着ぐるみのおじさんいる』
『めちゃくちゃ整髪料くさいwww』
『動くたび臭い撒いてるんだけど』
怪我人はいない。
大事件でもない。
ただ、近所ではちょっとした騒ぎになっていた。
◇
その頃。
則人の家。
母親がスマートフォンを見ながら、首を傾げていた。
「何これ」
則人が振り向く。
「なに?」
「近所で変な人がいるんだって」
「へんなひと?」
「ネズミの着ぐるみ着て、すごい臭い出してるらしいよ」
「みせて」
母親からスマートフォンを見せてもらう。
少し遠くから撮られた、ドブネズミのような大きな着ぐるみ。
則人は最初、怪人の姿を見ていた。
そして、顔の部分に気づいた。
「……あ」
母親が聞く。
「どうしたの?」
則人は画面へ顔を近づけた。
眼鏡。
見慣れた顔。
「おじさん……?」
間違いなかった。
ゴンさんの店にいつも来ている、あのおじさんだった。
◇
一方。
美緒は咲子と一緒にスマートフォンを見ていた。
「あ、また何か出てる」
美緒が指を止める。
投稿には短く、
『怪人ナウ』
その下に一枚の写真。
白いハツカネズミのような着ぐるみ。
周囲の人たちが鼻をつまんでいる。
別の投稿には、
『香水ヤバすぎ』
『近づいたら鼻死ぬ』
などと書かれていた。
咲子が覗き込む。
「何これ」
「また着ぐるみ?」
美緒は写真を拡大した。
顔。
「……待って」
「どうしたの?」
美緒の表情が変わる。
派手な髪。
メイク。
何度か見かけた女性。
「あの人……」
咲子も顔を確認する。
「前に話してた?」
「うん」
美緒は頷いた。
「この前の人だ」
◇
二つの場所。
二体のガスネズミ。
片方は、加齢臭と整髪料の匂いを撒き散らすドブネズミ。
もう片方は、鼻が曲がりそうなほど濃い香水を撒き散らすハツカネズミ。
本人たちは、どちらも困り果てている。
周囲から見れば、妙な着ぐるみ姿の迷惑な人。
まだ誰も知らない。
それぞれの着ぐるみの中にいる二人が、ずっと前から、変わりたいのに変わり方が分からずにいたことを。
本作品を含む、凛監修×生成AI合作作品は、同じ世界観の中でつながるシリーズ作品です。
それぞれ単独でもお楽しみいただけますが、同じ出来事が別作品では異なる視点から描かれたり、一方で起きた出来事が、もう一方の物語へつながったりすることがあります。
一つの作品だけでも楽しめる。
けれど、複数の作品を読むことで、初めて見えてくるものもある。
ぜひ、それぞれの物語をあわせてお楽しみください。
【人間×生成AIによる合作作品】
企画・原案・設定・ストーリー構成:時根脱才
文章制作・構成補助:ChatGPT(OpenAI)
本作品の世界観、キャラクター、各エピソードの原案・展開は作者が制作し、それをもとにAIと相談・推敲を重ねながら、小説として文章化しています。
本作品は「小説家になろう」「カクヨム」の両サイトに掲載しています。




