第五章 第三話 なにも、かわらない
第五章 第三話 なにも、かわらない
黒服から、あの妙な物を受け取って数日が経った。
結局、何も変わらなかった。
当たり前と言えば、当たり前だ。
会社へ行けば仕事があり、家へ帰れば妻と子供がいる。朝になれば目覚まし時計が鳴り、いつもの電車に乗って会社へ向かう。
あの夜のことなど最初からなかったように、日常は続いていた。
男は出勤の支度をしながら、鞄の中に入ったままの物を見つけた。
「……何を期待してたんだ、俺は」
自分でも馬鹿馬鹿しくなって、鞄を閉じる。
黒服から受け取った物に何かが起きたわけではない。ただ、なぜか捨てずに持っている。それだけだった。
男はそれ以上考えず、仕事へ向かった。
◇
会社では、若い部下たちが新しいシステムを使った仕事を進めていた。
「課長、ちょっと確認お願いできますか?」
「ああ」
呼ばれて、部下のパソコンを覗き込む。
画面には数字が並んでいた。操作方法は相変わらずよく分からない。それでも、表示されている内容を追うことならできる。
「……待て」
「はい?」
「ここの数字、おかしくないか?」
男が画面を指す。
部下が確認して、声を上げた。
「あ」
「このまま先方に出したら、前回の数字と合わないぞ」
「本当だ……。すみません、気づきませんでした」
「謝るのは俺じゃなくて、出す前に気づけてよかったと思っとけ」
「はい。ありがとうございます」
「おう」
こういうことなら、まだ分かる。
何年も働いてきた。数字そのものだけではなく、その数字が誰に渡り、どう見られるのかも分かる。
経験で気づけることは、まだある。
部下が画面を操作し始めた。
「じゃあ、ここ修正しますね。課長、システム上だとどこ直せばいいです?」
「……」
男の動きが止まる。
画面を見る。
さっきまでなら分かった。
だが、そこから先になると分からない。
「……そこは俺じゃなくて、詳しい奴に聞いてくれ」
「あ、分かりました」
部下は特に気にした様子もなく、別の社員を呼んだ。二人で画面を見ながら、すぐに作業を始める。
男は自分の席へ戻った。
役に立った。
ちゃんと間違いを見つけた。
感謝もされた。
それなのに、胸の奥には小さな引っかかりが残っている。
「……違うんだよな」
自分が役に立ちたい形とは、少し違った。
◇
その日の夜。
女は仕事を終えて店を出た。
今日も笑った。客の話を聞き、何度もグラスを作った。
疲れていた。
家へ帰ったら、また求人サイトを見る。
たぶん、見るだけだ。
そんなことを考えながら歩いていると、目の前に誰かが立った。
黒い服。
「……何?」
女は足を止める。
黒服は答えなかった。
ただ、手を差し出す。
そこには何かが載っている。
「何これ?」
返事はない。
「勧誘?」
何も言わない。
「こういうの間に合ってるんだけど」
黒服は動かず、ただ手を差し出している。
女は眉をひそめた。
「……何なのよ」
答えない。
売ろうとしているようにも見えない。説明もしないし、連絡先を聞いてくるわけでもない。
「渡したいだけ?」
やはり返事はない。
女はしばらく黒服を見たあと、ため息をついた。
「はいはい。もらえばいいんでしょ」
手を伸ばし、それを受け取る。
「……で?」
黒服を見る。
何も言わない。
「何か説明とかないの?」
黒服はそのまま背を向けた。
「ちょっと」
呼び止めても、歩いていく。
「何なのよ、あの人……」
女は手の中の物を見る。
意味が分からない。
少し考えてから鞄へ入れ、そのまま家へ帰った。
◇
数日後。
男は珍しく、いつもより早く会社を出た。
「課長、今日は早いですね」
部下に言われ、男は笑った。
「たまにはな」
今日は飲みに行かない。
真っ直ぐ家へ帰る。
最近、妻とも子供ともまともに話していない。
だったら、まずそこから変えてみればいい。
自分なりに考えた結果だった。
◇
「ただいま」
玄関を開ける。
妻が驚いた顔をした。
「早いのね」
「たまにはな」
「何かあった?」
「何もねえよ」
上着を脱ぎながら、少し迷う。
「あのさ」
「何?」
「今度の日曜、どっか行くか?」
妻が目を丸くした。
「急にどうしたの?」
「いや、たまにはいいかなと思って」
「ごめん。日曜、前から友達と約束してるの」
「ああ」
妻は申し訳なさそうに続ける。
「別の日なら――」
「いいって、いいって」
男は笑った。
そこへ子供が来た。
「じゃあ、お前は?」
「何が?」
「日曜。どっか行くか?」
「友達と約束してる」
「ああ、そうか」
「うん」
子供はそのまま部屋へ戻っていった。
誰も悪くない。
妻には前から予定があり、子供にも友達との約束がある。
たまたま日が合わなかっただけ。
そんなことは分かっている。
それでも、胸の奥に小さな寂しさが残った。
「……まあ、急に言ったって無理だよな」
男は笑う。
妻が、
「だから別の日なら――」
と言いかける。
「大丈夫、大丈夫。気にすんな」
自分から話を終わらせた。
せっかく少し早く帰ったのに、何となく家にいるのが居心地悪くなった。
◇
女は自宅で求人サイトを開いていた。
今日は見るだけではない。
一件、気になる仕事があった。
接客経験歓迎。
未経験でも応募可能。
条件も悪くない。
「……これなら」
履歴書を開く。
名前を書く。
住所を書く。
学歴を書く。
そして職歴。
一度、手が止まった。
それでも今日は書いた。
今まで働いてきた店。
期間。
仕事内容。
全部。
「別に悪いことしてたわけじゃないし」
自分に言い聞かせる。
応募画面まで進んだ。
あと少し。
その時、募集条件が目に入る。
パソコン基本操作。
勤務時間。
給与。
一つずつ確認した。
今より収入はかなり下がる。
生活費。
家賃。
保険。
いろいろな数字が頭に浮かぶ。
それでも、働けない額ではない。
問題はそれだけではなかった。
「……本当にできるのかな」
昼の仕事。
今までとは違う環境。
パソコンだって、仕事で本格的に使ってきたわけではない。
採用されたとして、ついていけるのか。
そもそも採用されるのか。
画面の下には、
『応募する』
のボタン。
指を近づける。
止まる。
しばらく迷った末、画面を閉じた。
「……無理じゃん」
誰に言ったわけでもなかった。
◇
その夜。
男はゴンさんの店にいた。
「お前、今日は早く帰ったんじゃねえのか?」
「ああ。帰ったよ」
「じゃあ何でここにいる」
「帰ったから来たんだよ」
「意味分かんねえよ」
ゴンさんがグラスを置く。
男はそれを手に取った。
「家族とどっか行こうと思ってさ」
「おう」
「日曜どうだって聞いたら、嫁は友達と約束。子供も友達と約束」
「じゃあ別の日にすりゃいいだろ」
「分かってるよ」
「ならいいじゃねえか」
「俺もそう思うよ」
男はグラスを口へ運ぶ。
ゴンさんがじっと見ている。
「じゃあ何で飲んでんだ」
男の手が止まった。
「……分かってんだよ。そんなことくらい」
思ったより強い声が出た。
店の空気が一瞬止まる。
則人とサトルも男を見る。
男自身もすぐに気づいた。
「……悪い」
グラスを置く。
「別に、嫁も子供も悪くねえんだよ。急に言った俺が悪い」
ゴンさんは何も言わなかった。
「ちゃんとしようとはしてんだよ」
男が小さく言う。
「俺だってさ」
その先は言わなかった。
則人は黙って男を見ていた。
いつものおじさんとは、少し違った。
◇
同じ頃。
女は店で客の隣に座っていた。
「いやあ、お前らはいいよな」
客が笑う。
「何がです?」
いつもの笑顔で聞き返す。
「酒飲んで笑ってりゃいいんだから。俺なんか会社で毎日頭下げてんだぞ」
いつもなら流せる。
「大変ですね」
そう言えばいい。
今日も同じように答えた。
「大変ですね」
でも、自分でも分かるくらい声が冷たかった。
「ん?」
客が少しだけ顔を見る。
女はすぐに笑顔を作った。
「じゃあ今日はいっぱい飲んで忘れちゃいましょ」
「ああ、それそれ!」
客は気にしなかった。
女はグラスを作り、笑う。
仕事だから。
でも、自分の中に何かが溜まっている。
前よりも、ずっと。
◇
夜。
男はグラスを見ながら呟いた。
「ちゃんとしようとはしてんだよ……」
別の場所。
女も一人で缶を開ける。
「私だって、何もしてないわけじゃない……」
二人とも変わりたいと思っている。
何もしていないわけではない。
やってみた。
一歩だけ進もうとした。
でも、うまくいかなかった。
たった一度の空振り。
それだけなのに、
やっぱり駄目なんじゃないか。
そんな考えが、少しずつ大きくなっていた。
◇
ゴンさんの店からの帰り道。
則人がサトルに言った。
「おじさん、きょうなんかへんだったね」
「うん」
「いつも、もっとわらってるのに」
サトルも少し考える。
「おこってた」
「ゴンさんに?」
「ちがうとおもう」
「じゃあ、だれに?」
サトルは首を傾げた。
「わかんない」
則人にも分からなかった。
◇
その日の夜。
美緒はバイトを終え、家へ向かって歩いていた。
時計はもう十時近い。
前から、派手な髪とメイクの女性が歩いてくる。
きれいな服。
きれいな髪。
きれいに整えられた顔。
これから仕事へ向かうところなのだろう。
夜の街へ向かって歩く姿は華やかだった。
それなのに、ひどく疲れて見えた。
二人はすれ違う。
女性は美緒に気づくこともなく、そのまま歩いていく。
美緒は数歩進んでから、何となく振り返った。
女性の背中は、夜の街へ遠ざかっていく。
「……大丈夫かな、あの人」
それだけだった。
まだ、二つの出来事がつながっていることを、誰も知らなかった。
本作品を含む、凛監修×生成AI合作作品は、同じ世界観の中でつながるシリーズ作品です。
それぞれ単独でもお楽しみいただけますが、同じ出来事が別作品では異なる視点から描かれたり、一方で起きた出来事が、もう一方の物語へつながったりすることがあります。
一つの作品だけでも楽しめる。
けれど、複数の作品を読むことで、初めて見えてくるものもある。
ぜひ、それぞれの物語をあわせてお楽しみください。
【人間×生成AIによる合作作品】
企画・原案・設定・ストーリー構成:時根脱才
文章制作・構成補助:ChatGPT(OpenAI)
本作品の世界観、キャラクター、各エピソードの原案・展開は作者が制作し、それをもとにAIと相談・推敲を重ねながら、小説として文章化しています。
本作品は「小説家になろう」「カクヨム」の両サイトに掲載しています。




