第四章 第六話 あなたになればいい
第四章 第六話 あなたになればいい
ショーウインドーの前で、美緒は動けずにいた。
黒を基調に、銀色と虹色の光を散らす着ぐるみ。鏡のように周囲を映す胸部、大きなカメレオンの眼、腰から伸びる無数の鏡片に覆われた太い尻尾。
どこから見ても、人間の姿ではない。
それでも、その異様な着ぐるみの中から覗いている茶色い髪と顔だけは、間違いなく美緒自身のものだった。
「私……どれなの……?」
震える声で呟いた直後、ショーウインドーに映っていた美緒の顔が揺らいだ。
「…………!」
ほんの一瞬で、見覚えのない顔へ変わる。
美緒は反射的に振り返った。
少し離れた歩道を、一人の女性が歩いている。
ショーウインドーに映った顔と同じだった。
「え……?」
もう一度ガラスを見ると、自分の顔へ戻っている。
だが、通りかかった女性へ目を向けた瞬間、美緒の顔は再びその女性と同じものへ変わった。
「なに、これ……」
口から漏れた声に、美緒自身が息を呑む。
声まで違っていた。
自分の喉から出たはずなのに、まるで知らない誰かがすぐそばで話したように聞こえる。
その声に気づいたのか、女性もこちらを見た。
「えっ?」
「えっ?」
二つの声が重なった。
女性が目を見開けば、美緒も目を見開く。
女性が一歩後ろへ下がれば、美緒の身体まで同じように一歩下がった。
「ちょ、ちょっと……」
「ちょ、ちょっと……」
女性の表情が引きつる。
「なんで真似するの?」
「なんで真似するの?」
「…………!」
美緒は自分の口を押さえた。
「違う!」
「違う!」
否定したはずなのに、声まで目の前の女性と同じだった。
「やめて……!」
女性が驚いて片手を上げる。
すると、美緒の腕まで勝手に持ち上がった。
「やだ……!」
力を入れて止めようとしても、身体が言うことを聞かない。
相手が右を向けば、自分も右を向く。
肩を引けば、自分も同じように肩を引く。
表情まで、まるで鏡の中にいるかのように相手をなぞっていく。
「やめてよ!」
今度は、美緒自身の声だった。
その瞬間。
糸が切れたように身体が自由になった。
美緒は弾かれたように駆け出した。
◇
「待って!」
背後から声が聞こえる。
誰が追ってきているのかを確かめる余裕もなく、美緒は細い路地へ飛び込んだ。
「なんなの……これ……!」
息を切らしながら壁へ手をついた、その時。
着ぐるみの表面が、波打つように揺らいだ。
「え……?」
黒かった身体へ、壁と同じ灰色が広がっていく。
全身を覆っていた鏡片が周囲の色や模様を拾い、反射し、まるで身体そのものが背景へ溶け込んでいくようだった。
美緒は息を止めた。
路地の入り口から、誰かが覗き込む。
「あれ? いない……」
「…………」
美緒は壁へ張り付いたまま、自分の腕へ目を落とした。
そこにある。
触れば、確かにある。
なのに、少し離れて見れば輪郭が曖昧になり、壁の色と鏡面の反射に紛れてしまう。
完全に透明になっているわけではない。
近づけば何かがいると分かるだろう。
それでも、追ってきた人物はしばらく周囲を見回したあと、首を傾げながら去っていった。
「…………」
美緒は力が抜けるように、その場へしゃがみ込んだ。
「私……消えたの?」
恐る恐る壁から身体を離す。
すると、着ぐるみはゆっくりと元の黒と銀色へ戻っていった。
「これ……私がやったの?」
答える者はいない。
美緒自身にも分からない。
ただ一つ分かるのは。
逃げたいと思った。
その瞬間。
この着ぐるみが、自分を隠してくれたということだけだった。
◇
美緒は、なるべく人通りの少ない道を選びながら歩き始めた。
この姿で家へ戻ることはできない。
学校にも行けない。
けれど、ほかにどこへ行けばいいのかも分からない。
なるべく誰とも目を合わせないように、俯いたまま歩く。
それでも。
「ママー、あれ何?」
子供の声が聞こえた。
思わず顔を上げる。
小さな男の子が、美緒を指さしていた。
「見ちゃ駄目」
母親が子供の手を引く。
その瞬間、美緒の顔が母親と同じものへ変わった。
「…………!」
美緒は慌てて下を向く。
今度は店から出てきた店員が視界へ入った。
顔が変わる。
店員が会釈をすれば、美緒も会釈をする。
学生が笑えば、美緒も笑う。
会社員が時計を確認すれば、美緒も反射的に腕を見る。
「やめて……」
歩調を速める。
「私に戻ってよ……」
けれど、人を見るたびに変わる。
顔。
声。
仕草。
歩き方。
ほんの一瞬だけ。
目の前の相手そのものになったように。
「…………」
やがて、美緒は足を止めた。
少し先を、一人の女性が歩いている。
迷う様子もない。
足を止めることもなく、まっすぐ自分の行き先へ向かっている。
その姿を見た瞬間。
美緒の身体も同じように歩き始めた。
「…………」
考えなくても。
足が進む。
女性が右へ曲がる。
美緒も右へ曲がる。
信号の前で止まる。
美緒も止まる。
信号が青になる。
女性が歩き出す。
美緒も歩き出す。
それだけだった。
「…………」
いつの間にか。
美緒の表情から、ほんの少しだけ緊張が消えていた。
自分で決めていない。
前を歩いている人と同じことをしているだけ。
それなのに。
ちゃんと前へ進める。
「考えなくて……いいんだ」
美緒は小さく呟いた。
その言葉だけは。
自分自身の声だった。
◇
その頃。
道場の片隅では、則人がいつものように練習を続けていた。
「いち、にっ!」
「もう一回」
「はい!」
咲子は少し離れたところから則人を見ていたが、今日はどこか上の空だった。
「さっちゃん」
「なに?」
「なんか、きょうへん」
「私が?」
「うん」
則人が練習を止める。
「ずっと考えてる」
「……分かる?」
「分かるよ」
咲子は少し迷ったあと、口を開いた。
「学校の友達のことなんだけど」
「ともだち?」
「美緒っていう子」
「うん」
「最近、ちょっと変なんだよね」
「へん?」
「変って言い方もあれなんだけど……なんか、自分が何考えてるのか分からなくなってるみたいで」
則人は何も言わず、咲子の話を聞いている。
「今日も一緒にご飯食べようって言ったんだけど、断られた」
「ひとりでたべたかったんじゃない?」
「そうかもしれない。でも……」
咲子の頭に、美緒の顔が浮かんだ。
何度も繰り返していた「大丈夫」という言葉。
本当に大丈夫だったのだろうか。
あの時、自分は聞かない方がよかったのか。
それとも。
もっと何か聞くべきだったのか。
「さっちゃん!」
突然、小さな声が飛んできた。
「え?」
咲子が振り返る。
いつもの妖怪が、慌てた様子で駆けてきていた。
「あのこ!」
「誰?」
「あの、ぐちゃぐちゃのこ!」
咲子の表情が変わる。
「美緒?」
「もっとぐちゃぐちゃになった!」
「え?」
「すっごく! ぐちゃぐちゃ!」
「どこにいるの?」
「あっち!」
妖怪が指をさした。
咲子はすぐに立ち上がる。
「則人」
「うん!」
「ちょっと来て」
則人も迷わず頷いた。
◇
美緒は、大きな交差点の近くまで来ていた。
道路脇では、警備員が誘導棒を手に交通整理をしている。
「こちら止まってくださーい!」
警備員が片腕を上げる。
その動きを、美緒は何気なく見た。
次の瞬間。
自分の腕も上がった。
「え?」
警備員が誘導棒を横へ振る。
美緒の手元でも、鏡面の反射が棒のような細長い光を作り出した。
そして、同じように横へ振る。
道路を走ってきた車が速度を落とした。
「……?」
運転手が、美緒と警備員を交互に見る。
遠目には、交通整理をしている者が二人いるようにも見えた。
本物の警備員が片側を止める。
美緒も同じ動きをする。
その結果、反対側の車まで止まってしまう。
「ちょっと! そこの人、何してるんですか!」
警備員が叫んだ。
美緒がそちらを見る。
警備員が慌てて手を振る。
美緒も同じように手を振った。
その動きを見た一台の車が、進んでいいのだと勘違いする。
「あっ……!」
車が動き出した。
反対方向からも、別の車が進みかける。
「止まって!」
急ブレーキ。
鋭いクラクション。
「危ない!」
「何やってるんだ!」
美緒は、そこで初めて自分が何をしてしまったのか理解した。
「違う……私……」
本物の警備員が必死に誘導し、車は何とか止まった。
事故にはならなかった。
しかし、その騒ぎを聞きつけて周囲へ人が集まってくる。
「あれ、何?」
「怪人じゃない?」
「撮っていい?」
次々とスマートフォンが向けられた。
「やめて……」
美緒は後ずさる。
撮影していた一人と目が合った。
その瞬間。
美緒の顔が、その人物と同じものへ変わった。
「えっ?」
撮影していた本人が声を上げる。
「俺?」
「俺?」
美緒の口から、同じ声が出た。
「ちょっと待って。なんで俺が二人いるの?」
「ちょっと待って。なんで俺が二人いるの?」
「真似すんな!」
「真似すんな!」
「私じゃない!」
近くにいた別の人物が叫ぶ。
美緒が反射的にそちらを見る。
今度は、その顔へ変わる。
「私じゃない!」
同じ声。
「ちょっと、やめてよ!」
「ちょっと、やめてよ!」
「どっち!?」
周囲に戸惑いとざわめきが広がっていく。
誰かが笑い。
誰かが驚き。
誰かが面白がって撮影を続ける。
けれど。
美緒だけは。
少しも笑えなかった。
「やめて……」
目に入る人の数だけ、自分の顔が変わっていく。
「もうやめて!」
美緒は人混みから逃げるように走り出した。
◇
しばらく走ると、ガラス張りの大きな建物が見えてきた。
美緒は足を止めた。
建物の壁一面を覆う大きなガラス。
そこには、自分が何人も映っていた。
「…………」
一人は、さっき見た人物。
一人は学生。
一人は女性。
一人は警備員。
そして。
一人だけ。
美緒自身。
少し動くだけで、映る顔が次々と変わっていく。
美緒は、鏡のようなガラスへ近づいた。
さっきまでは。
怖かった。
誰かを見るたびに、自分ではなくなっていくことが。
でも。
「…………」
美緒は、もう一度通りを歩く人を見た。
顔が変わる。
その人が歩く。
美緒の身体も同じように動く。
「自分で……考えなくていい」
別の人を見る。
また変わる。
「その人が笑ったら、笑えばいい」
また別の人を見る。
「歩いたら、歩けばいい」
声に出すたび。
胸を締めつけていたものが、少しずつ軽くなっていく。
「別に……」
美緒はガラスの中に並ぶ、いくつもの自分を見た。
「私じゃなくてもいいのか」
誰かになっていれば。
何を言うか考えなくていい。
どこへ行くか決めなくていい。
何が好きなのか考えなくていい。
誰の味方をするのかも。
どこにいるのかも。
全部。
目の前の誰かに任せてしまえばいい。
「誰かになってれば……」
美緒が顔を上げる。
今度は。
偶然目に入った相手ではなかった。
美緒自身が、一人の通行人を選んで見た。
「…………」
顔が変わる。
声も。
立ち方も。
今までとは違う。
勝手に変わったのではない。
美緒が。
自分から、その人を選んだ。
「自分で決めなくていい」
ガラスの中。
別人の顔をした美緒が。
静かに笑った。
◇
「こっち!」
妖怪を追って、咲子と則人が走っていた。
「まだ?」
「もうちょっと!」
「美緒……」
咲子は走りながら、何度も周囲を見回す。
「さっちゃん」
「なに?」
「その美緒っていう人」
「うん」
「さっちゃんのおともだち?」
「……うん」
「じゃあ、たすけないとね」
咲子が則人を見る。
「まだ何が起きてるか分かんないよ」
「うん」
「もしかしたら、全然違うことかもしれないし」
「うん」
「だから……」
「おはなしすればいいんでしょ?」
咲子が目を瞬かせる。
「まず」
則人は言った。
「おはなしして、それから考えよう」
「…………」
咲子は少しだけ笑った。
「そうだね」
◇
「あっち!」
妖怪が声を上げた。
咲子が足を止める。
少し離れたところ。
ガラス張りの建物の前に、黒と銀色の大きな着ぐるみを着た人物が立っていた。
長い尻尾。
鏡のような身体。
そして。
その中から覗いている茶色い髪。
「…………」
咲子の表情が強張った。
「……美緒?」
則人が隣から見上げる。
「さっちゃんのおともだち?」
「うん……たぶん、あの子」
則人は、初めて見る怪人の姿をじっと見つめた。
それから。
「じゃあ、まずおはなししよう」
咲子は頷いた。
一歩、前へ出る。
「美緒!」
声が響いた。
ミラーカメレオンが、ゆっくりと振り返る。
「…………」
そこにあった顔は。
美緒だった。
「美緒……!」
咲子の表情が少し緩んだ。
「よかった。ちゃんと――」
その時。
美緒の顔が揺らいだ。
「…………え?」
茶色い髪の間から覗いていた顔が変わっていく。
目。
鼻。
口元。
輪郭。
次の瞬間。
そこにあったのは。
咲子の顔だった。
「……え?」
咲子が首を傾げる。
ミラーカメレオンも、まったく同じ角度で首を傾げた。
「……え?」
声まで。
咲子と同じだった。
「私……?」
咲子が自分の頬へ触れる。
目の前の美緒も、同じように頬へ触れた。
「私……?」
「やめてよ」
「やめてよ」
「美緒!」
「美緒!」
顔も。
声も。
仕草も。
咲子そのもの。
それなのに。
身体だけは、鏡に覆われたミラーカメレオンの着ぐるみだった。
則人は、咲子とミラーカメレオンを交互に見た。
「さっちゃんが、ふたり……?」
「違う!」
咲子がすぐに答える。
「違う!」
美緒も、まったく同じ声で答えた。
「だから真似しないで!」
「だから真似しないで!」
「もう!」
「もう!」
咲子が思わず頭を抱える。
美緒も同じように頭を抱えた。
則人は少し困ったように首を傾げる。
「どっちが、さっちゃん?」
「私!」
「私!」
「則人!」
「則人!」
「そっちじゃない!」
「そっちじゃない!」
「…………」
咲子は、とうとう言葉を失った。
美緒自身も。
最初は戸惑っているように見えた。
けれど。
少しずつ。
咲子の顔に、笑みが浮かんだ。
「これなら……」
その一言だけは。
美緒自身の意思で口にしたものだった。
ただし、声はまだ咲子のままだった。
「これなら、いいのかな」
「美緒?」
「さっちゃんみたいにしてれば」
咲子の顔をした美緒が、自分の両手を見る。
「さっちゃんが笑ったら、私も笑えばいい」
「…………」
「さっちゃんが怒ったら、私も怒ればいい」
「美緒、何言ってるの?」
「何か聞かれたら、さっちゃんと同じこと言えばいい」
美緒は、ゆっくりと咲子を見る。
その表情まで。
咲子のものだった。
「そうしたら……」
鏡面の尻尾が、静かに揺れた。
「私がどうしたいか、考えなくていい」
「…………」
咲子の表情から、怒りも戸惑いも消えていった。
「美緒……」
ようやく。
さっきから美緒が何をしているのか。
ほんの少しだけ、分かった気がした。
ただ真似をしているわけではない。
誰かを困らせたいわけでもない。
咲子になりたいわけですらない。
美緒は。
自分で決めることから。
逃げようとしている。
「美緒」
咲子が一歩近づく。
「私の真似なんかしなくていいよ」
美緒も、一歩近づいた。
「私の真似なんかしなくていいよ」
「違う。そうじゃなくて」
「違う。そうじゃなくて」
「美緒!」
「美緒!」
何を言っても。
返ってくる。
自分の言葉が。
自分の声で。
そのまま。
咲子は唇を噛んだ。
「…………」
美緒は、その表情まで真似した。
そして。
ほんの少しだけ笑った。
「これなら……」
咲子と同じ声で。
静かに言った。
「さっちゃんみたいにしてればいいのかな」
咲子は。
何も答えられなかった。
※本作は、作者とChatGPT(AI)による合作作品です。物語の企画・原案・世界観・キャラクター設定・物語構成・展開の方向性など、作品の根幹となる部分は作者が制作しています。それらの原案や設定、作者との相談・修正・指示をもとに、ChatGPTが文章化、表現の調整、推敲などを担当しています。作者とAIが互いに案を出し、検討と修正を重ねながら、一つの物語として完成させています。




