第四章 第一話 こっちも私
第四章 第一話 こっちも私
咲子は最近、ときどき困ることがある。
あの道場での出来事を境に、それまで見えなかったものまで見えるようになってしまったからだ。
「さっちゃん、さっちゃん」
「ん?」
昼休み。
教室へ戻ろうとしていた咲子は、廊下の端から聞こえた声に反射的に振り向いた。
窓際に置かれた植木鉢。その陰から、小さな妖怪がひょこりと顔を出している。
「きょう、髪ちがうね」
「ああ。今日は――」
そこまで答えかけて、咲子は慌てて口を閉じた。
ちょうど目の前を通りかかった女子生徒が、不思議そうな顔でこちらを見ていたからだ。
「咲子、誰と喋ってるの?」
「……独り言」
「結構はっきり喋ってたけど」
「気にしないで」
「そ、そう?」
女子生徒は首を傾げながら去っていった。
その背中が十分に離れたのを確認してから、咲子は植木鉢へ顔を寄せ、声を潜める。
「もう。急に話しかけないでよ」
「なんで?」
「なんでも」
妖怪は本当に分かっていないらしく、きょとんとしている。
咲子からすれば、見えている相手に返事をしただけだ。
けれど、周囲の人間には妖怪の姿が見えていない。
最近は気をつけているつもりなのだが、向こうから突然話しかけられると、どうしても反射的に答えてしまう。
「またやっちゃった……」
「さっちゃん、また?」
後ろから笑い声がした。
振り返る。
茶色く染めた髪に、少し目立つアクセサリー。制服も校則に怒られない程度に着崩している。
何人かの女子に囲まれたその子は、いかにも楽しそうに笑っていた。
「またって何よ」
「だって最近、たまに一人で喋ってない?」
「考え事してるだけ」
「声に出るタイプ?」
「そういうことにしといて」
「あはは。なにそれ」
彼女――美緒は、咲子と同じクラスの女子だった。
親友と呼ぶほど近いわけではない。
けれど席が近ければ普通に話すし、休み時間に同じ輪へ入ることもある。
そんな距離の友達だった。
「ねえ美緒、これ見て!」
友達の一人がスマートフォンを差し出した。
「なになに?」
「このバッグ。めっちゃ可愛くない?」
「あ、かわいい!」
「でしょ?」
「この色いいじゃん。私もこういうの好き」
「だよね!」
美緒はすぐに会話の中心へ戻っていく。
明るくて、よく笑う。
相手が誰でも話題を拾えるし、会話の流れを止めない。誰かが一人だけ輪から外れそうになれば、自然にそちらへ話を振ることもできる。
咲子から見ても、美緒は人付き合いの上手な女の子だった。
「でもさ、その店ってちょっと高くない?」
別の子が言った。
「分かる!」
美緒が今度はそちらへ身体を向ける。
「デザインはいいんだけど、あの値段出すなら別の店でもよくない?」
「それな!」
咲子は一瞬だけ首を傾げた。
さっき、好きだと言っていたような。
けれど、可愛いと思うことと、値段が高いと思うことは別だ。
それだけの話だろう。
わざわざ気にするほどのことでもない。
咲子はそのまま教室へ戻った。
◇
放課後。
咲子は道場へ向かっていた。
学校から直接向かう時は、いつもの帰り道より少しだけ遠回りになる。
その途中、小さな書店の前を通りかかったところで、見覚えのある茶髪が目に入った。
「……あれ?」
美緒だった。
ただ、最初は本当に本人なのか迷った。
学校で見る時とは、雰囲気があまりにも違っていたからだ。
目立つアクセサリーは外している。
髪も自然に下ろしていて、服装も落ち着いている。
そして何より。
静かだった。
書店の横に設けられた小さな休憩スペースで、美緒は一人、本を読んでいた。
時折ページをめくる以外、ほとんど動かない。
学校で友達と笑いながら騒いでいた女の子と、目の前で静かに本へ目を落としている女の子。
同じ人間だと分かっているのに、どこか別人のように見えた。
「美緒?」
咲子が声をかける。
美緒が顔を上げた。
「あ、咲子ちゃん」
声まで違う。
学校で聞く軽い調子より、少し低くて落ち着いている。
「やっぱり美緒だ」
「何それ」
「いや……なんか、学校と全然違うから」
「そう?」
美緒は自分の服を見下ろした。
「変?」
「変じゃないけど。学校だともっと……」
「うるさい?」
「そこまでは言ってない」
「でも言おうとしたでしょ」
美緒が小さく笑う。
その笑い方まで、学校で見るものとは少し違っていた。
「本、好きなの?」
「うん」
「知らなかった」
「学校じゃあんまり読まないからね」
「どうして?」
「友達いる時に本読んでてもしょうがないじゃん」
「まあ、そうだけど」
美緒は本を閉じ、膝の上へ置いた。
「一人の時は、こういう方が好き」
「へえ」
「変?」
「だから変じゃないって」
咲子は少し考えてから、素直に口にした。
「でも、本当に違う人みたい」
美緒は一瞬だけ黙った。
何か気に障ることを言ってしまっただろうか。
咲子がそう思った時、美緒はいつものように笑った。
ただし、その笑顔も学校で見せるものよりずっと穏やかだった。
「こっちも私だよ」
「……こっちも?」
「学校でみんなと騒いでるのも私。こうやって一人で本読んでるのも私」
「そっか」
「うん」
咲子は、それ以上何も言わなかった。
言われてみれば、当たり前なのかもしれない。
人間は、いつでも同じ顔をしているわけではない。
咲子だって、学校にいる時と道場にいる時では違う。
則人と話している時も違うし、妖怪と話している時だって違う。
場所や相手が変われば、振る舞いも少しずつ変わる。
それだけなら、何も不思議なことではない。
「じゃあ私、そろそろ行くね」
「道場?」
「うん」
「頑張って」
「ありがと」
咲子が歩き出そうとした、その時だった。
「あ、美緒じゃん!」
少し離れたところから声が飛んできた。
美緒が振り返る。
「あー!」
咲子も思わず振り返った。
さっきまでの落ち着いた声が、一瞬で変わった。
「何してんの、こんなとこ!」
「それこっちのセリフ! てか久しぶりじゃん!」
咲子の知らない女の子が、美緒へ駆け寄ってくる。
美緒もすぐに立ち上がった。
表情。
声。
立ち方。
言葉の選び方。
それだけではない。
相手との距離の取り方まで、さっきとは違って見えた。
「その服かわいくない?」
「でしょ? 最近買った!」
「いいなー!」
「今度一緒に見に行こ!」
あっという間に盛り上がっている。
ほんの数分前まで、一人で静かに本を読んでいた人とは、やはり別人のようだった。
「じゃあ、咲子ちゃん。また明日ね」
「あ、うん。また明日」
美緒は手を振る。
咲子も振り返した。
美緒とその友達が歩いていく。
遠ざかる二人の背中を見ながら、咲子はしばらくその場に立っていた。
「…………」
こっちも私。
さっきの言葉を思い出す。
「まあ……そうだよね」
別に、美緒は何もおかしなことをしていない。
誰と一緒にいても、まったく同じ人間でいる必要なんてない。
そう思いながら。
それでも胸のどこかに残った小さな引っかかりを抱えたまま、咲子は道場へ向かった。
◇
道場では、今日も則人が片隅を借りて練習していた。
正式な道場生になったわけではない。
それでも邪魔にならない場所を借りて、教わったことを一つずつ、一生懸命に繰り返している。
「いち、にっ!」
「もっと腰」
「はい!」
咲子は道着へ着替えながら、その様子を横目で見る。
以前より少しずつ、形になってきていた。
もっとも、本人は形になってきたと思うほど、ますます張り切ってしまうのだが。
「さっちゃん!」
「なに?」
「きょうもよろしく!」
「はいはい」
則人が、ふと咲子の顔を見る。
「なんか考えてる?」
「え?」
「なんか、いつもとちがう」
「そんなに分かりやすい?」
「ちょっと」
咲子は苦笑した。
「今日ね。学校の友達の、意外なところ見ちゃっただけ」
「いがい?」
「学校ではすごく明るい子なんだけど、一人の時はすっごく静かなの」
「へえ」
「それで、別の友達が来たら、また雰囲気が変わって」
則人は少し考えた。
咲子は、どんな答えが返ってくるのか待つ。
ところが則人は、ごく当たり前のことのように言った。
「でも、そういうことあるんじゃない?」
「そう思う?」
「ぼくも、おうちとここだとちがうよ」
「まあ、それはそうだけど」
「学校もちがうし」
「うん」
「じゃあ、ふつうじゃない?」
咲子は目を瞬かせた。
それから、少しだけ笑った。
「そうかもね」
子供に言われると、難しく考えていた自分の方が妙に思えてくる。
「ほら、練習戻って」
「はーい!」
則人が元気よく返事をして走って戻る。
咲子も練習を始めた。
その日は、それ以上深く考えなかった。
まだ。
考えるほどのことではないと思っていた。
◇
同じ頃。
美緒は自宅の前に立っていた。
鞄から鍵を取り出す。
いつものように扉へ差し込もうとした、その時。
中から声が聞こえた。
「だから、そういう話じゃないでしょう!」
母親の声だった。
「じゃあどうしろっていうんだよ!」
今度は父親。
美緒の手が止まる。
まただ。
珍しいことではなかった。
最近は、むしろ静かな日の方が少ない。
「あなたはいつもそう!」
「お前だって同じだろ!」
扉一枚向こうで、二つの声がぶつかっている。
美緒は鍵を持ったまま、しばらく動かなかった。
ここで扉を開ければ。
また。
あの二人の間へ入らなければならない。
学校で笑っていた顔。
一人で本を読んでいた時の穏やかな顔。
さっき、昔の友達と話していた時の顔。
そのどれもが、今は消えていた。
美緒は目を閉じ、小さく息を吐いた。
そして。
扉を開ける。
「ただいま」
声を出した瞬間、母親が振り返った。
「あ、美緒。おかえり」
「ただいま、お母さん」
父親もこちらを見る。
「今帰ったのか」
「うん。お父さん」
美緒は母親を見る。
次に、父親を見る。
二人とも、さっきまでとは違う顔をしていた。
娘が帰ってきたから。
ほんの少しだけ。
美緒は笑った。
「どうしたの? 二人とも」
何も聞いていなかったように。
いつものように。
自然に。
母親が何かを言いかける。
父親も口を開く。
美緒は二人の間に立った。
母親の話を聞けば、母親の気持ちに合わせる。
「うん。そうだね」
父親が反論すれば、今度は父親の言葉に頷く。
「うん。それも分かるよ」
どちらも否定しない。
どちらにも逆らわない。
どちらの前でも、同じように笑う。
そうしていれば。
少なくとも、自分がどちらか一方の敵になることはない。
父親にも。
母親にも。
嫌われずに済む。
今日も。
たぶん。
それで大丈夫だ。
◇
自分の部屋へ戻った美緒は、鞄を床へ置いた。
ようやく静かになった。
いや。
下からはまだ、両親の声が微かに聞こえている。
美緒は机の前へ座った。
今日読んでいた本を取り出す。
開く。
一行読む。
もう一行。
「…………」
内容が頭に入ってこない。
本を閉じた。
昼間。
咲子に言った言葉を思い出す。
「こっちも私だよ」
あれは嘘ではない。
学校でみんなと笑っている自分も。
一人で本を読んでいる自分も。
友達に合わせて話している自分も。
全部、自分だ。
なら。
母親の言葉に頷く自分も。
父親の言葉に頷く自分も。
きっと、自分。
そう思えばいい。
そう思っていればいい。
今までだって。
ずっと。
そうしてきた。
美緒は立ち上がった。
その時。
部屋の鏡に自分の姿が映った。
足が止まる。
「…………」
鏡の中には。
誰とも話していない美緒がいた。
友達はいない。
父親もいない。
母親もいない。
合わせる相手が。
誰もいない。
今の私は。
どの私なんだろう。
そんな考えが、一瞬だけ浮かんだ。
「……何考えてるんだろ、私」
美緒は小さく笑った。
けれど。
鏡の中の自分は。
学校で友達に見せる笑顔とも。
咲子に見せた穏やかな笑顔とも。
両親に見せた笑顔とも。
少し違って見えた。
美緒は視線を逸らした。
考えないことにした。
考えてしまったら。
本当に。
どれが自分なのか。
分からなくなりそうだった。




