第5話「五人のお客さん」
第5話「五人のお客さん」
送信ボタンは、画面の右端にある。
千紘はその小さな印を、もう何分も見つめていた。
『あの……もしご迷惑でなければ、今度、お店で一曲だけ歌わせてもらえませんか?』
文章はできている。読み返しても、おかしなところはないと思う。
それなのに、親指が動かなかった。
「……やっぱり、急にこんなこと言ったら困るかな」
独り言を呟き、文章の最後を消そうとして、手を止める。
前にも同じことをした。今夜だけで三度目だ。
机には学校の教科書と、書き込みだらけの歌詞ノートが並んでいた。千紘は宿題を終えたあと、ずっとそのノートを眺めたり、美緒とのメッセージ画面を開いたりしている。
数日前、千紘は美緒に誘われ、ゴンさん夫妻の店を初めて訪れた。
店の入口で立ちすくんでしまったこと。美緒が笑顔で迎えてくれたこと。大きな声のゴンさんに驚き、優しい奥さんにほっとしたこと。咲子と少し不思議な話をしたこと。
どれも、思い返すと何だか温かい。
あのとき千紘は、帰り際に自分から尋ねたのだ。
『もし、もう少し勇気が出たら……そのときは、相談してもいいですか?』
美緒も奥さんも、もちろん、と答えてくれた。
だから、今こうして相談しようとしている。
ただ、それだけのはずなのに。
「……歌ってみたいって、自分から言うんだよね……」
誰もいない公園でギターを弾くのとは違う。
あの公園では、則人や悟、美緒に偶然歌を聴かれた。拍手をもらったときは嬉しかったけれど、最初から聴いてもらうつもりで歌っていたわけではない。
今度は、自分でお願いすることになる。
知らない人の前に座って、ギターを構え、自分の曲を歌う。
その光景を想像すると、指先が冷たくなった。
途中で音を外したら。緊張して声が出なかったら。誰も気に入ってくれなかったら。
怖いことなら、いくらでも思いつく。
けれど、そのたびに、千紘はあの店の空気を思い出していた。
料理の香りと食器の音。誰かが笑えば、つられてほかの人も笑う、あの穏やかな雰囲気。
あそこで歌えたら、どんな気持ちになるのだろう。
「……うん」
千紘は歌詞ノートを閉じ、もう一度スマートフォンを持ち直した。
決まってから考えてもいい。もし店の都合が悪ければ、それまでのことだ。
何より、自分が歌ってみたいと思った気持ちを、なかったことにはしたくなかった。
「……えいっ」
親指で送信ボタンを押した。
短い文章が、画面の向こうへ飛んでいく。
「……あっ」
送ってしまった。
千紘は反射的にスマートフォンを伏せ、両手で顔を覆った。
「……うわあ……」
今すぐ取り消したい気もする。けれど、取り消したくない気持ちもある。
そっと画面を覗く。返事はまだない。
落ち着かずにノートを開いては閉じ、数分もしないうちにまた画面を確かめた。
そのとき。
ぴこん。
「ひゃっ!?」
手の中で鳴った通知音に、千紘は肩を跳ねさせた。
『ほんと!? 千紘さん、歌ってくれるの!?』
美緒からだった。すぐに、続きが届く。
『すっごく嬉しい! でも私だけじゃ決められないから、ゴンさんと奥さんに聞いてみるね!』
千紘は、ゆっくり息を吐いた。
怒られなかった。困ったとも言われなかった。
それどころか、喜んでくれている。
『ありがとうございます。無理だったら大丈夫ですので……』
そう返すと、ほどなくして元気な返事が届いた。
『うん! ちゃんと相談してみるからね!』
画面を見つめているうちに、千紘の口元が緩んだ。
「……よかった」
まだ一曲も歌っていない。それでも、自分からお願いできたことが、少し誇らしかった。
◇
「……というわけで、千紘さんが歌ってみたいって!」
翌日。昼の混雑が落ち着いたゴンさんの店で、美緒が嬉しそうに報告した。
「ほう。あの、おとなしそうな子か」
ゴンさんが顔を上げる。
「はい! 自分からメッセージをくれたんです!」
「あら、それは嬉しいわねえ」
奥さんが手を止めて微笑んだ。
「初めて来てくれたときは、ずいぶん緊張していたもの。勇気を出してくれたのね」
「そうなんですよ!」
美緒は何度も頷いた。
食器を片づけていた咲子も、話を聞いて柔らかく笑う。
「自分から言えたんだ。千紘さん、頑張ったね」
「ね! だから、ぜひ聴いてほしいんです!」
美緒は期待を込めてゴンさんを見た。
ところが、ゴンさんは腕を組み、すぐには頷かなかった。
「……美緒。前にも言ったよな」
「はい?」
「うちはライブハウスじゃないぞ」
「分かってますって!」
美緒は慌てて手を振った。
「大きなイベントにするんじゃなくて、一曲だけです。ギター一本で!」
「一曲でも、食事中の客にとっちゃ関係のない音かもしれん。店の都合ってものがあるだろう」
ゴンさんの声は厳しかったが、ただ反対しているわけではなかった。
美緒も、さすがに口を閉じて考える。
すると奥さんが言った。
「お客さんの少ない時間なら、どうかしら」
「少ない時間?」
「ええ。昼の忙しい時間が終わって、夕方の混み合う前くらいなら、落ち着いている日もあるでしょう。それで、その場のお客さんにも一曲聴いても大丈夫か聞いてみるの」
奥さんは続けた。
「もし静かに過ごしたい方がいらしたら、また別の日にすればいいわ。千紘ちゃんにだって、無理はさせたくないもの」
「……まあ、それならな」
ゴンさんが頷きかけると、美緒の表情がぱっと明るくなった。
「じゃあ!」
「まだ話は終わっとらん!」
「はいっ!」
「通り道を塞がないこと。店が忙しくなったら中止。それから、あの子が緊張して嫌になったら、無理にやらせるなよ」
「もちろんです!」
「本当に分かってるか?」
「分かってます!」
元気のいい返事に、ゴンさんは半ば呆れたように息を吐いた。
「……ま、一曲くらいならいいか」
「やったー!」
美緒が両手を上げる。
「美緒、今は店の中だよ」
咲子に小声で注意され、美緒は慌てて口元を押さえた。
奥さんはそんな二人を眺めながら、ゴンさんへ笑いかけた。
「あなたも、楽しみなんじゃない?」
「別に、そういうわけじゃない」
「あら、そう?」
「……せっかく勇気を出したんだろ。だったら、なるべく落ち着いて歌えるようにしてやりたいだけだ」
「ふふっ。そうね」
美緒は早速スマートフォンに手を伸ばした。
「じゃあ、千紘さんに連絡を――」
「おい、美緒!」
「はいっ!?」
「仕事中だ!」
「あっ……休憩になったら送ります!」
「最初からそうしろ!」
咲子と奥さんの笑い声が、店の奥に小さく響いた。
◇
それから千紘は、いつも以上に自分の曲と向き合うようになった。
公園でギターを弾き、時間を取れる日は貸しスタジオでも練習する。家では思い切り声を出せないので、歌詞を読み返しながら息継ぎの場所を確かめたり、指の動きを思い浮かべたりした。
曲そのものは、もう何度も歌っている。
けれど、誰かの前で演奏すると思うだけで、弾き慣れたはずの部分が急に難しく感じられた。
練習中に一度つまずくと、もし本番でも同じ間違いをしたら、と考えてしまう。
「……落ち着いて、落ち着いて……」
何度も自分に言い聞かせながら、千紘は最後まで通して歌う練習を繰り返した。
不思議なことに、以前ほど苦にはならなかった。
自分の歌を、ちゃんと誰かに聴いてもらいたい。
その思いが、一回一回の練習に小さな意味を加えてくれたからだ。
そして、約束の日。
放課後の千紘は、黒いギターケースを肩に掛けてゴンさんの店へ向かった。
通学鞄しか持っていなかった前回と違い、今日はギターがある。その重みを感じるたびに、これから本当に歌うのだと実感してしまう。
店の入口が見えてくる。
「……大丈夫」
千紘は深呼吸をした。
怖くない、と言うのは無理だった。今日も十分に怖い。
ただ、帰ろうとは思わなかった。
ギターケースを持ち直し、自分の手で扉を開ける。
「……こ、こんにちは」
「あっ! 千紘さん!」
美緒がこちらに気づくなり、顔を輝かせた。
「いらっしゃい! 待ってたよ!」
「……お、お邪魔します」
「わあ、本当にギター持ってきてくれたんだね!」
「……はい」
「楽しみだなあ!」
美緒の嬉しそうな声に、千紘の頬が一気に熱くなる。
「……あ、あの、あまり期待されると……」
「美緒」
隣から咲子がたしなめた。
「千紘さん、ただでさえ緊張してるんだから」
「あっ! ごめん!」
美緒は慌てて両手を合わせる。
「嬉しくて、つい!」
「……いえ」
千紘は小さく首を振った。
「……喜んでもらえて、私も嬉しいです」
美緒が、また笑顔になった。
「千紘さん、今日はよろしくね」
咲子が優しく言う。
「……はい。よろしくお願いします」
そこへ奥さんがやってきた。
「あら、千紘ちゃん。いらっしゃい」
「……こんにちは」
「今日はちょうど落ち着いているの。お客さんにお話しして、よさそうなら一曲お願いしようと思ってるわ」
千紘はこくりと頷いた。
「でもね、もし途中で怖くなったら言ってね。今日はやめておく、でも構わないから」
「……いいんですか?」
「もちろん。せっかく歌いに来てくれたのに、嫌な思い出になっちゃったら残念でしょう?」
奥さんは何でもないことのように笑った。
千紘は、その言葉に救われた気がした。
ここまで来たからといって、必ず成功しなければならないわけではない。目の前の人たちは、千紘の失敗を見に集まっているわけでもない。
「……ありがとうございます」
そう答えると、カウンターの向こうから声が飛んできた。
「おい、千紘ちゃん!」
「ひゃっ!?」
「今日は一曲だけだからな! うちはあくまで飲食店だ!」
「……は、はいっ!」
千紘が背筋を伸ばすと、ゴンさんは少しだけ声を和らげた。
「……ま、慌てずやんな。客の方にはこっちから話す」
「……はい。ありがとうございます」
千紘は頭を下げた。
少し乱暴な言い方だったけれど、気を遣ってくれているのは分かった。
◇
店に残っていたお客さんは、五人だった。
カウンターに一人で座っている男性。
テーブル席には年配の夫婦。
窓際には、二人連れの女性客がいた。
普段はもっと賑わう店だが、今日は昼の忙しさが一段落したところらしい。料理を食べ終えて、飲み物を楽しんでいる人もいた。
奥さんは、それぞれのお客さんへ事情を説明して回った。
「実は、今日はちょっとだけギターを弾いて歌ってくれる子が来てるんです。一曲だけなんですけど、よろしいかしら?」
カウンターの男性が、興味深そうに顔を上げた。
「へえ、弾き語りかい? いいねえ」
年配の夫婦も顔を見合わせ、にこやかに頷く。
「うちは大丈夫よ。ねえ、あなた」
「ああ。聴かせてもらおうじゃないか」
窓際の女性客たちも、嫌な顔はしなかった。
「一曲ならぜひ」
「自分で作った曲なんですって? それは気になるね」
奥さんが全員の了承を確かめて戻ってくる。
「みなさん、聴いてくださるそうよ」
「……ほ、本当ですか?」
「ええ。だから、気負いすぎなくていいからね」
「……はい」
千紘は返事をしたものの、ギターケースを開く手は少し震えていた。
五人。
たった五人だと思っていた。
でも、今その人数を聞くと、五人もいるのだと感じる。
公園を通りがかった人なら、興味がなければそのまま歩いていってしまう。千紘も、そういう人の視線は気にしないで済んだ。
ところが、目の前の五人は違う。
これから自分が歌うことを知ったうえで、聴いてくれると答えてくれた。
つまり、始めたら、ちゃんと聴かれてしまう。
「……うう」
千紘はギターを抱え、思わず小さく呻いた。
その様子に気づいた咲子が、そっと近づいてくる。
「千紘さん、少し座って落ち着く?」
「……だ、大丈夫……だと思います」
「そっか。無理そうになったら、言ってね」
その声に頷くと、今度は美緒が笑いかけてきた。
「私、公園で聴いたときから、また聴きたかったんだ」
「……美緒さん」
「だから、千紘さんが歌ってみたいって言ってくれて嬉しかった。今日は私も、普通に楽しんで聴くね!」
変に励まそうとするのではなく、楽しみにしているという気持ちをそのまま伝えてくれた。
それが、千紘にはありがたかった。
「……はい。頑張ります」
店の通り道を避けた一角に、椅子が用意された。
特別な舞台も、マイクも、照明もない。
ただ、椅子が一脚と、千紘のアコースティックギターだけ。
公園のベンチで弾くときと、ほとんど変わらないはずだった。
それでも椅子へ腰を下ろすと、目の前の空間がいつもより広く感じられる。
千紘はギターを膝に乗せた。
左手でネックを支え、右手を弦の上へ運ぶ。
五人のお客さんが、自然にこちらへ目を向けた。
美緒も咲子も、少し離れた場所で待っている。奥さんはカウンターのそばに立ち、ゴンさんも腕を組んだままこちらを見ていた。
こんなに誰かに見られながら、弾き始めたことがあっただろうか。
「……あ、あの……」
声を出した途端、喉が思ったより乾いていることに気づいた。
「今日は……聴いてくださって、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げる。
「……自分で作った曲を、一曲だけ……歌わせていただきます」
どうにか言い終え、千紘は小さく息を吸った。
最初のコードを押さえる。
それから、弦を弾いた。
ぽろん。
「……あっ」
一つ、音がうまく鳴らなかった。
指先がわずかにずれ、いつもは澄んで響くはずの弦が鈍い音を立てたのだ。
千紘の手が止まった。
練習では何度も弾けたところなのに。
最初の一音で間違えるなんて。
「……ご、ごめんなさい……」
反射的に謝ってしまった。
顔を上げるのが怖い。呆れられているかもしれないし、何をしているんだと思われたかもしれない。
けれど、返ってきたのは奥さんの優しい声だった。
「大丈夫よ。ゆっくりでいいからね」
そっと顔を上げると、誰も嫌な顔などしていなかった。
カウンターの男性は、穏やかな表情で待っている。年配の夫婦も、窓際の二人も同じだった。
美緒は何か声をかけようとしていたが、隣の咲子がそっと首を振った。今は千紘が落ち着くまで待とう、ということらしい。
その様子に、千紘はほんの少しだけ肩の力を抜いた。
間違えた音は、もう消えている。
これから鳴らす音まで、失敗したわけではない。
「……もう一度、お願いします」
小さな声でそう告げ、千紘は指を置き直した。
ぽろん。
今度は、聞き慣れた響きが返ってきた。
続けて、もう一つ。
柔らかなギターの音が、店の中へ広がる。
千紘は、その音に合わせて歌い始めた。
最初の声は小さく、わずかに震えていた。いつもなら自然に出せる高さなのに、どこか喉が固くなっている。
それでも、ギターを弾く手は少しずついつもの動きを思い出していった。
自分で考えた歌詞。何度も直したメロディー。サビへ入る前のつなぎ方だって、納得できるまで繰り返し練習した。
何も知らない曲を、いきなり歌わされているわけではない。
これは、千紘自身が作った曲だ。
少しずつ呼吸が落ち着き、次の言葉が出てくる。
視線は、まだギターの手元から離せなかった。
けれど、曲の途中、短く息を整えたとき、千紘はふと顔を上げた。
カウンターの男性が、飲み物へ伸ばしかけた手を止めていた。
年配の夫婦は、二人ともこちらを向いている。
窓際の女性客たちも、さっきまでの会話をやめて耳を傾けていた。
誰も急かさない。
誰も途中で感想を言わない。
ただ、聴いてくれている。
その静けさが、千紘には不思議だった。
さっきまでは、見られるのが怖くてたまらなかった。
でも、今は。
この人たちに、最後まで聴いてもらいたい。
そう思った。
サビへ入る。
千紘は、いつもより深く息を吸った。
言葉を一つずつ、ギターの音に乗せていく。今までより少しだけ声が伸びた。
目の前のお客さんがどんな感想を持つかは分からない。それでも、自分が伝えたいと思って書いた言葉を、途中で引っ込めたくなかった。
音の流れに身を任せるうちに、先ほどの失敗を気にする余裕もなくなった。
聴いてくれる人がいる。
その人たちへ歌を届けようとしている。
公園では味わったことのない感覚だった。
歌は最後の部分に差しかかり、千紘はもう一度、丁寧に弦を鳴らした。
最後の言葉を歌い終える。
ぽろろん……。
余韻が、ゆっくり消えていった。
千紘は弦に手を添え、静かに息を吐いた。
終わった。
最初に一度つまずいたけれど、最後まで歌い切れた。
ほっとして顔を上げる。
一瞬、店の中が静かになった。
その短い間に、千紘はまた不安になりかけた。
どうだったのだろう。退屈だっただろうか。歌詞はちゃんと聞こえただろうか。
すると。
ぱち、ぱち。
カウンターの男性が、手を叩き始めた。
続いて年配の夫婦が拍手する。窓際の女性客二人も、笑顔で手を叩いた。
美緒と咲子、奥さんの拍手も重なる。ゴンさんも、しっかりと手を叩いてくれていた。
大きな会場を揺らすような拍手ではない。
けれど、すぐそばで鳴るその音は、千紘にとって驚くほど温かかった。
「……あ……」
胸の奥がいっぱいになり、すぐには言葉が出なかった。
「……あ、ありがとうございます……!」
どうにかそう言って、深く頭を下げる。
膝の上のギターを抱えたまま、千紘はしばらく顔を上げられなかった。
◇
「いやあ、よかったよ」
最初に声をかけてくれたのは、カウンターの男性だった。
「最初は緊張してるなと思ったけど、途中から声がよく出てたね。いい声してるじゃないか」
「……あ、ありがとうございます……!」
「それに、これ本当に自分で作った曲なんだろ?」
「……は、はい。歌詞も、曲も……」
「へえ。大したもんだねえ」
男性は感心したように頷いた。
年配の女性も、穏やかな表情で言った。
「私も好きだったわ。言葉が優しくて、聴いていて落ち着いたもの」
「……あ……」
「特にサビのところ。あそこ、耳に残るわね」
千紘は思わず顔を上げた。
サビは、何度も書き直したところだった。最初の形ではどうしても気に入らず、言葉もメロディーも少しずつ直してきた。
そこを覚えていてくれた。
「……ありがとうございます……!」
声が、少し上ずった。
隣の男性も頷く。
「最後の終わり方もよかったな。ちゃんと聴き終わった感じがしたよ」
窓際の女性客二人も、笑顔で話しかけてきた。
「メロディーがきれいだね。途中から、つい聴き入っちゃった」
「うん。また聴きたいなって思ったよ」
「……また……?」
千紘は、思わず聞き返した。
「そう。また聴きたい」
女性は、当たり前のように答えた。
千紘の胸に、何かがじんわり広がった。
上手だと言ってもらえたことは、もちろん嬉しい。
けれど、それだけではなかった。
声のこと。歌詞のこと。自分で何度も考え直したサビや、最後のメロディーのこと。
初めて聴いた人たちが、それぞれ違うところを覚えていてくれた。
自分の作った歌が、ちゃんと届いていたのだ。
「千紘さん!」
美緒が駆け寄ってくる。
「すっごくよかったよ!」
「……み、美緒さん……!」
「ほら、やっぱり! 私、絶対みんなも好きになると思ってたんだ!」
「美緒、それだと千紘さんが恥ずかしくなっちゃうよ」
咲子が笑いながら注意する。
「えっ、そう?」
美緒が千紘を見ると、本人は耳まで真っ赤だった。
「あっ、ごめん!」
「……い、いえ……嬉しいです……」
そう答える千紘を見て、咲子も微笑んだ。
「私も初めてちゃんと聴いたけど、本当によかったよ」
「……咲子さん……」
「さっき、途中から千紘さんの表情が変わったの、分かった?」
「……え?」
「最初は緊張していたけど、歌ってるうちに楽しそうになってた」
千紘は少し考えた。
始める前は、逃げ出したいくらい怖かった。
最初の音を失敗したときは、本当にどうしようかと思った。
けれど、途中からは違った。
目の前の人たちに自分の歌を届けたくて、夢中で弾いていた。
「……そう、かもしれません」
千紘は恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに微笑んだ。
「……途中から、歌うのが楽しくなって……」
「うん。そう見えたよ」
咲子が頷く。
そこへ、奥さんが近づいてきた。
「千紘ちゃん。今日はありがとうね」
「……あ、こちらこそ……!」
「私も楽しませてもらったわ。お客さんたちも喜んでくださったみたいで、本当によかった」
「……ありがとうございます」
千紘は何度目か分からないお礼を言った。
すると、奥さんは少し考えてから、穏やかに続けた。
「ねえ、千紘ちゃん。もしまた機会があったら、うちで歌ってくれないかしら?」
「……えっ?」
思わず顔を上げる。
「……ま、また……ですか?」
「ええ。もちろん、千紘ちゃんの都合もあるし、お店の様子にもよるけどね。今日みたいに、みんなが楽しめる時間があれば、ぜひお願いしたいわ」
奥さんは、微笑んだ。
「私、また聴きたいもの」
「…………」
千紘は、返事を忘れた。
一度だけ歌わせてもらえたら、それで十分だと思っていた。
迷惑をかけずに最後まで歌えれば、それでいいと。
ところが、初めて会ったお客さんに褒めてもらえたばかりか、奥さんまで、また歌ってほしいと言ってくれている。
「……あの……」
千紘は、ぎゅっとギターのネックを握り直した。
「……私で、よければ……」
少し言葉が詰まる。
けれど今度は、俯かずに続けられた。
「……また、歌わせてもらえたら……嬉しいです」
「あら、ありがとう」
奥さんの笑顔が明るくなった。
すると、横からゴンさんの声が飛んできた。
「おいおい! 勝手に次の予定まで決めるなよ!」
「あら、あなた。まだ決めてないわよ」
「……そうか?」
「機会があれば、って言っただけ」
「……まあ、それならいいが」
ゴンさんは、やれやれと息を吐いた。
それから千紘へ向き直り、少し照れくさそうに言った。
「……しかし、いい歌だったぞ」
「……え?」
「美緒があれだけ褒めるから、どういうもんかと思ってたがな。あれなら、ちゃんと聴いてもらう意味がある」
「……あ、ありがとうございます……!」
「最初は緊張してたみたいだが、最後まで歌い切ったのは立派だ」
思いがけない褒め言葉に、千紘はまた頬を赤くした。
ゴンさんは、腕を組み直す。
「ま、次があるなら、そのときも客の都合が第一だ。それは忘れるなよ」
「……はい!」
千紘は、今度ははっきり返事をした。
その声に、奥さんが嬉しそうに笑う。
美緒と咲子も、顔を見合わせて微笑んでいた。
少し前まで、自分の声で挨拶することさえ精いっぱいだった千紘が、今はちゃんと顔を上げている。
その変化が、二人にも伝わっていた。
◇
店を出る頃には、夕方の空が少し赤く染まり始めていた。
千紘はギターケースを肩に掛け、来た道をゆっくり歩いていた。
足取りが軽い。
けれど、胸の中はまだ落ち着かなかった。
何度も、店での光景が浮かんでくる。
最初の音をうまく鳴らせず、思わず謝ってしまったこと。
奥さんが、ゆっくりでいいと言ってくれたこと。
途中から、自分でも驚くほど自然に歌えたこと。
そして、最後の音が消えたあとに聞こえてきた拍手。
「……歌えたんだ……」
千紘は、ぽつりと呟いた。
誰かに頼まれたからではない。
自分から歌いたいと伝えて、自分の曲を歌い切った。
もちろん、上手にできなかったところもある。最初の音は失敗したし、声だって少し震えていた。
それでも、聴いてくれた人たちは喜んでくれた。
歌詞がよかった、と。
あのメロディーが好きだった、と。
また聴きたい、と。
思い出すたび、顔が熱くなった。
「……五人、か……」
千紘は、歩きながら小さく呟いた。
美緒や咲子、ゴンさん夫妻を除けば、お客さんは五人だけだった。
特別な舞台ではない。大勢の観客がいたわけでもない。
ただ、いつもどおり営業しているお店で、ほんの少しだけ時間をもらった。
それでも、こんなに嬉しい。
始まる前は、五人も聴いている、と怖くなった。
でも今は、五人もの人が自分の歌を聴いてくれた、と思える。
たった一曲で、五人の人たちと少しだけ気持ちを分け合えたような気がした。
千紘は、ギターケースの肩紐を握り直した。
ふと、学校の文化祭のことが頭に浮かぶ。
友人が何度も誘ってくれている、ステージへの出演。
今までは、そこに立つ自分を想像するたび、失敗する場面ばかりが浮かんでいた。
大勢の人に見られて、声が出なくなる。ギターを間違える。恥ずかしくて逃げ出したくなる。
ところが今日、初めて別の光景を想像した。
大勢の人が、自分の歌を聴いてくれている。
その中の誰かが、今日のお客さんのように笑ってくれる。
もし、そうなったら。
「…………」
胸が、少し高鳴った。
怖いことに変わりはない。
でも、怖いだけではなくなった。
「……もっと……」
千紘は、立ち止まった。
夕暮れの道を、何人もの人が行き交っている。
その人たちは、千紘がどんな歌を作っているのか知らない。千紘も、その人たちのことを知らない。
けれど今日、店にいた五人だって、最初は知らない人たちだった。
聴いてもらって初めて、歌詞が好きだと言ってもらえた。
聴いてもらわなければ、そんな気持ちを知ることもなかった。
「……もっと、たくさんの人に……」
千紘は小さく息を吸った。
「……私の歌を、聴いてもらいたいな」
そう口にした瞬間、自分でも少し驚いた。
五人の前で歌うだけで、あんなに怖かったのに。
今度は、もっと多くの人に聴いてほしいと思っている。
自分でも、少し欲張りになったような気がした。
千紘は、思わず笑った。
「……ふふっ」
それが、本当に不思議だった。
もちろん、今日褒めてもらえたからといって、将来シンガーソングライターとして生活できる保証が生まれたわけではない。
母親が心配する気持ちも、千紘には分かる。
上手な人は世の中にたくさんいる。自分よりずっと素晴らしい曲を書く人だって、きっと大勢いる。
どれほど頑張っても、音楽だけで生きていけるかは分からない。
けれど、それとは別に、今日の喜びは本物だった。
自分の歌を誰かが聴いてくれた。
その人の心に、少しだけ残った。
もっと届けたいと思う理由としては、今の千紘にはそれで十分だった。
◇
その夜、千紘はいつもどおり学校の課題を終え、自室の机に向かっていた。
歌詞ノートを開くと、今日歌った曲のページがある。
何度も消して、書き直して、ようやく今の形になった一曲だ。
千紘はその文字を眺めながら、奥さんの言葉を思い出した。
『私、また聴きたいもの』
思わず頬が緩む。
「……また、歌いたいな」
今度は、もう少し落ち着いて最初の音を鳴らせるだろうか。
できれば、新しい曲も作ってみたい。
そう思ったところで、スマートフォンが鳴った。
美緒からだった。
『千紘さん、今日は本当にありがとう! すっごくよかったよ!』
すぐに続きが届く。
『また機会があったら、一緒に何かできたらいいね!』
千紘は、小さく笑った。
『こちらこそ、ありがとうございました。すごく緊張しましたけど、とても楽しかったです』
送信すると、元気な返事が返ってくる。
『よかったー! 私も楽しかった!』
その文字を読んでいると、また別の通知が届いた。
学校の友人からだった。
『千紘、文化祭のステージ、どうする? まだ考えてる?』
「…………」
千紘は、画面を見つめた。
これまでなら、もう少し考えさせて、と返していただろう。
出てみたい気持ちはあっても、怖さが先に立ち、何も決められなかった。
けれど、今日は違う。
千紘は、ゆっくり文字を入力し始めた。
『あのね。今日、初めてお店で自分の曲を歌わせてもらったの』
少し考えて、続きを打つ。
『すごく緊張したけど、聴いてくれた人たちが褒めてくれて……嬉しかった』
送信すると、ほどなくして返事が届いた。
『えっ!? すごいじゃん! おめでとう!』
千紘は微笑んだ。
友人が喜んでくれたことも、嬉しかった。
画面の上には、文化祭のことを尋ねるメッセージが残っている。
学校のステージなら、今日よりずっと多くの人がいるだろう。
同級生も、先生も、保護者も。
きっと、緊張する。
それでも、今日のように自分の歌を最後まで届けられたら。
聴いてくれた人の誰かが、好きだと思ってくれたら。
千紘は、しばらく考えてから新しい文章を入力した。
『文化祭のこと、もう少し詳しく教えてもらってもいい?』
送信。
それは、出演を決めたという返事ではない。
まだ不安は残っているし、考えなければならないこともある。
けれど、今までとは違う。
怖いから先延ばしにするのではなく、歌えるかどうか、自分で確かめてみたくなったのだ。
千紘は、机の上の歌詞ノートを見た。
今日歌った曲が、そこにある。
たくさんの人に聴いてもらうには、もっと練習が必要かもしれない。新しい曲も、まだまだ書きたい。
それでも、今日の千紘には、少しだけ自信があった。
うまく歌えるかどうか分からなくても、まず歌ってみようと思うことならできる。
あの日、初めて店の扉を開けたときよりも、今はもう少し先へ進んでみたい。
「……頑張って、みようかな」
声は相変わらず控えめだった。
けれど、その言葉は、誰かに促されて口にしたものではない。
今日、五人のお客さんからもらった拍手を思い出しながら、千紘が自分で選んだ言葉だった。
――つづく。
本作品を含む、凛監修×生成AI合作作品は、同じ世界観の中でつながるシリーズ作品です。
それぞれ単独でもお楽しみいただけますが、同じ出来事が別作品では異なる視点から描かれたり、一方で起きた出来事が、もう一方の物語へつながったりすることがあります。
一つの作品だけでも楽しめる。
けれど、複数の作品を読むことで、初めて見えてくるものもある。
ぜひ、それぞれの物語をあわせてお楽しみください。
【人間×生成AIによる合作作品】
企画・原案・設定・ストーリー構成:時根脱才
文章制作・構成補助:ChatGPT(OpenAI)
本作品の世界観、キャラクター、各エピソードの原案・展開は作者が制作し、それをもとにAIと相談・推敲を重ねながら、小説として文章化しています。
本作品は「小説家になろう」「カクヨム」の両サイトに掲載しています。




