第6話「趣味のままでいいでしょう?」
第6話「趣味のままでいいでしょう?」
翌日の放課後。
「千紘! 昨日のお店の話、もうちょっと聞かせてよ!」
「……えっ?」
帰り支度をしていた千紘は、友人に声をかけられて顔を上げた。
「ほら、昨日メッセージで教えてくれたじゃない。お店で歌ったって!」
「あ……うん」
千紘は、少し照れくさそうに微笑んだ。
昨日、千紘は初めて、自分から人前で歌うことに挑戦した。
場所は、美緒がアルバイトをしているゴンさんの店。
お客さんは、たった五人だった。
けれど、千紘にとっては、その五人の前に立つことさえ大変な勇気が必要だった。
「……あのね。最初は、すごく緊張しちゃって……」
「うんうん!」
「……ギターの音も、一回失敗しちゃったの」
「えっ! それでどうしたの?」
「……もう一度、最初から弾き直して……」
千紘は、昨日の光景を思い出した。
ギターを弾こうとしても、指が思うように動かなかった。
練習では何度も弾けたはずのところで音がかすれ、思わず手を止めてしまった。
あの瞬間は、もう帰りたくなるほど恥ずかしかった。
けれど、誰も笑わなかった。
ゴンさんの奥さんは、ゆっくりでいいと言ってくれた。
五人のお客さんも、静かに待っていてくれた。
だから、もう一度弾き始めることができたのだ。
「……それで、最後まで歌えたんだ」
「すごいじゃん!」
友人は嬉しそうに手を叩いた。
「千紘、頑張ったね!」
「……うん」
千紘は、はにかみながら頷いた。
「……それでね。歌い終わったら、みんな拍手してくれて……」
「おおっ!」
「……歌詞がよかったって言ってくれた人もいて……メロディーも褒めてもらえたの」
話しているうちに、昨日の嬉しさが蘇ってきた。
ただ上手だったと言われたのではない。
何度も書き直した歌詞を覚えていてくれた人がいた。
自分なりに工夫したメロディーを気に入ってくれた人もいた。
千紘が大切にしてきたものが、ちゃんと誰かに届いていた。
それが、何より嬉しかった。
「しかもね……」
「うん?」
「……お店の奥さんが、また機会があったら歌ってほしいって……」
「えーっ! よかったじゃん!」
友人は、千紘以上に興奮しているようだった。
「それって、千紘の歌をまた聴きたいってことでしょ?」
「……うん。そう言ってくれたの」
「すごいよ!」
そんなふうに喜んでもらえると、千紘まで嬉しくなってしまう。
「……ふふっ」
自然と笑みがこぼれた。
以前の千紘なら、自分から人前で歌いたいなどとは言い出せなかった。
誰かに聴かれるだけで恥ずかしくて、逃げ出したくなることもあった。
それなのに今は、また歌ってみたいと思っている。
もう一度、あの拍手を聞きたい。
もっといい曲を作って、もっと多くの人に聴いてもらいたい。
そんな願いが、少しずつ大きくなっていた。
「だったらさ!」
友人が、ぱっと顔を輝かせた。
「やっぱり文化祭、出てみようよ!」
「……えっ!?」
千紘の肩が跳ねた。
「ほら、前から言ってるじゃない。千紘の歌、もっとみんなに聴いてほしいって!」
「……う、うん……」
「お店で歌えたんだから、文化祭だってきっと大丈夫だよ!」
「……そ、それは……」
千紘は、困ったように視線を落とした。
お店と学校の文化祭では、ずいぶん事情が違う。
昨日のお客さんは五人だけだった。
しかも、初めて会う人たちだったから、失敗しても後から顔を合わせることは少ないかもしれない。
けれど、文化祭は違う。
同じ学校の生徒たちがいる。
先生もいる。
保護者や、学校を訪れた人たちもいるだろう。
その大勢の前で、自分で作った歌を披露する。
想像しただけで、喉の奥がきゅっと狭くなるようだった。
それでも。
「……あのね」
「うん?」
「……文化祭って、どんな感じで歌うのかな……?」
友人が目を丸くした。
「えっ、出る気になった?」
「……ま、まだ決めてないけど!」
千紘は慌てて首を振った。
「……でも、ちょっと……詳しく知りたくて……」
友人は、すぐに事情を察したらしい。
無理に返事を求めることなく、嬉しそうに頷いた。
「そっか! じゃあ、まずはどんな準備が必要なのか調べてみようよ」
「……うん」
「ステージのこととか、出演の申し込みとか。私も一緒に確認するからさ!」
「……ありがとう」
千紘は、小さく微笑んだ。
まだ、出ると決めたわけではない。
怖い気持ちも残っている。
けれど、昨日までなら考えるだけで逃げ出したくなっていた場所に、少しだけ興味が湧いていた。
五人のお客さんが、自分の歌を喜んでくれた。
それなら、もっと多くの人にも聴いてもらえるかもしれない。
そんな期待が、千紘の胸に生まれていた。
◇
夕方。
「ただいま……」
「お帰りなさい、千紘」
玄関から声をかけると、台所から母親の返事が聞こえた。
「今日は早かったわね」
「……うん。友達と少し話してから、まっすぐ帰ってきたから」
「そう。もう少ししたら夕食だから、先に手を洗ってきなさい」
「……はーい」
千紘は自室へ向かい、通学鞄を机の横へ置いた。
そこには、昨日使ったギターケースが立てかけてある。
黒いケースを見た途端、自然と頬が緩んだ。
昨日は、あのギターを抱えてゴンさんの店へ向かった。
初めて自分から、誰かに歌を聴いてもらうために。
そして、最後まで歌うことができた。
「……ふふっ」
今でも、あの拍手を思い出す。
曲が終わった直後の静けさ。
最初に聞こえてきた拍手の音。
それが少しずつ増えて、店の中に広がっていったこと。
そして、歌詞やメロディーを褒めてくれた人たちの笑顔。
思い出すだけで、胸の奥が温かくなった。
――お母さんにも、話してみようかな。
千紘は、ふと思った。
実は、昨日の演奏について、母親には詳しく話していなかった。
美緒たちと知り合ったことは話していたが、実際に店で歌うところまでは伝えていなかったのだ。
言い出す勇気がなかった。
それに、また音楽の話をしたら、母親が心配するのではないかと思ったからでもある。
これまでも、シンガーソングライターになりたいという夢を話すたびに、母親は難しい顔をしていた。
勉強はどうするの。
大学はどうするの。
音楽だけで生活していけると思っているの。
そんな話になることが多かった。
もちろん、母親が心配してくれていることは千紘にも分かっている。
だから最近は、あまり夢の話をしなくなっていた。
けれど、今回は少し違う。
プロになるとか、デビューするとか、そんな話ではない。
自分で作った曲を、五人のお客さんに聴いてもらった。
褒めてもらえた。
それが嬉しかった。
ただ、その喜びを伝えたいだけなのだ。
「……きっと、喜んでくれるよね」
千紘は、ギターケースを見つめながら小さく呟いた。
母親も、好きなことを頑張っている娘が褒められたと聞けば、きっと喜んでくれるだろう。
そう考えると、少しだけ話すのが楽しみになった。
◇
「……あのね、お母さん」
夕食が始まってしばらくした頃、千紘は思い切って話しかけた。
「なあに?」
「……昨日、私……歌ったんだ」
「歌った?」
母親が箸を止めた。
「どこで?」
「……あの、最近知り合った美緒さんっていう人がいるんだけど……」
「ええ」
「……その人がアルバイトしているお店で……」
「お店?」
母親は少し意外そうな表情になった。
「そこで歌ったの?」
「……うん」
千紘は、小さく頷いた。
「……美緒さんがお店の人たちに相談してくれて……お客さんが少ないときなら、一曲だけ歌ってもいいって……」
「そうだったの」
「……それでね、昨日、ギターを持って行ったんだ」
母親は、少し驚いたようだった。
けれど、すぐに穏やかな表情へ戻る。
「それで、どうだったの?」
その問いかけに、千紘の顔が明るくなった。
「……あのね。すごく緊張したの」
「そうでしょうね」
「……最初、ギターの音も失敗しちゃって……」
「あら」
「……でも、もう一度弾き直したら、ちゃんと歌えたんだ」
千紘は、少しずつ言葉を重ねた。
最初は声が震えていたこと。
けれど、歌っているうちにいつもの感覚が戻ってきたこと。
気づいたら、お客さんたちが静かに聴いてくれていたこと。
「……それでね。歌い終わったら、みんなが拍手してくれたの」
「まあ。それはよかったわね」
母親が微笑んだ。
「……うん!」
千紘は嬉しそうに頷いた。
「……歌詞がよかったって言ってくれた人もいてね。メロディーも褒めてもらえたんだ」
「そう。自分で作った曲を、ちゃんと聴いてもらえたのね」
「……うん!」
母親が喜んでくれている。
それが嬉しくて、千紘はさらに話を続けた。
「……それで、お店の奥さんがね……」
「うん?」
「……また機会があったら、歌ってほしいって……」
その瞬間だった。
「……また?」
母親の表情が、わずかに変わった。
千紘は気づかず、嬉しそうに頷く。
「……うん。お客さんも喜んでくれたからって……」
「じゃあ、これからもそのお店で歌うつもりなの?」
「……え?」
千紘は、少し戸惑った。
「……あ、まだ決まってないよ」
「そうなの?」
「……うん。お店の都合もあるから、また機会があればって……」
母親は、そっと箸を置いた。
「千紘。そのお店って、普通の飲食店なんでしょう?」
「……うん」
「どんなお客さんが来るところなの?」
「……えっと……」
千紘は、昨日の店内を思い出した。
「……昨日は、一人で来てた男の人と……ご夫婦と……女の人が二人……」
「みんな大人の人?」
「……うん」
「そう……」
母親は、少し考え込んだ。
「お店の人とは、どういう知り合いなの?」
「……美緒さんが、そこでアルバイトしていて……店長さんと奥さんも、優しい人たちで……」
「その人たちは、千紘よりずっと年上なのよね?」
「……うん」
「お母さんは、そのお店のことを何も知らないのよ」
千紘の表情が、少し曇った。
「……うん」
「千紘。そういう場所で歌うなら、先に相談してほしかったわ」
「……あ……」
千紘は、思わず俯いた。
確かに、それは母親の言うとおりだった。
自分は美緒たちを知っている。
ゴンさん夫妻が親切な人たちだということも分かっている。
けれど、母親は会ったことがない。
見知らぬ大人が集まる店で、高校生の娘が歌ったと聞けば、心配するのも無理はないかもしれない。
「……ごめんなさい……」
「怒っているわけじゃないのよ」
母親は、少し声を和らげた。
「ただ、何かあってからでは遅いでしょう? お店の人が親切だったとしても、そこへどんなお客さんが来るかまでは分からないんだから」
「……うん」
「今度からは、ちゃんと話してちょうだいね」
「……はい……」
千紘は素直に頷いた。
そこは、自分が気をつけるべきことだったと思う。
けれど、母親の話はそこで終わらなかった。
「それにね、千紘」
「……うん?」
「最近、音楽に使う時間が増えているんじゃない?」
「……え?」
「公園で練習したり、お店へ行ったり。前より忙しくなっているでしょう?」
「……うん……」
「学校の勉強は、ちゃんとできているの?」
「……やってるよ」
千紘は慌てて答えた。
「……昨日も、帰ってから宿題を終わらせたし……」
「それはいいことね」
母親は頷いた。
「でも、今だけできていればいいというものでもないでしょう?」
「…………」
「これからも音楽の活動が増えるなら、その分、勉強の時間が減るかもしれないわ」
千紘は、少し俯いた。
確かに、最近は以前より練習する時間が増えている。
誰かに聴いてもらえると分かってから、もっと上手になりたいと思うようになったからだ。
けれど、そのために学校の課題を放り出したことはない。
自分なりに、ちゃんと両立しているつもりだった。
「……でも、勉強もちゃんとするから……」
「ええ。そうしてほしいわ」
母親は穏やかに頷いた。
そして、ごく自然に続けた。
「お母さん、音楽を楽しむこと自体には反対していないのよ」
「…………」
千紘の手が止まった。
「ギターを弾いたり、歌ったり、曲を作ったり。そういう趣味があるのは素敵なことだと思うわ」
母親の言葉に、嘘はなかった。
娘に好きなことがあるのは、決して悪いことではない。
勉強だけでなく、夢中になれるものを持っているのは喜ばしいことだとさえ思っている。
ただし、それには一つ、母親なりの線引きがあった。
「でも、それを一生の仕事にするとなると、話は別でしょう?」
千紘の胸が、ちくりと痛んだ。
◇
「……仕事……」
千紘は、小さく繰り返した。
「そうよ。千紘、前からシンガーソングライターになりたいって言っているでしょう?」
「……うん……」
「お母さん、その気持ちは分かるつもりよ。でもね、好きだからといって、それで生活していけるとは限らないの」
母親は、娘を説得するようにゆっくり話し始めた。
「歌の上手な人は、世の中にたくさんいるわ。曲を作れる人だって大勢いる。その中で実際にデビューできる人がどれくらいいるのか、千紘にも分かるでしょう?」
「……うん」
「それに、デビューできたとしても、ずっと仕事が続くとは限らないでしょう? 人気が出ても、それが何年も続く保証なんてないのよ」
「…………」
「音楽だけで安定して生活するのは、本当に難しいことだと思うの」
千紘は、黙って聞いていた。
母親の言っていることは、間違っていない。
音楽の世界が厳しいことは、千紘だって知っている。
自分より歌の上手な人は、いくらでもいるだろう。
自分より素晴らしい曲を書く人も、きっと大勢いる。
頑張ったからといって、必ず成功するわけではない。
そんなことは分かっている。
けれど。
「……お母さん」
「なあに?」
「……私、昨日のお店の話をしてたんだけど……」
母親は、不思議そうに首を傾げた。
「ええ。分かっているわよ」
「……うん……」
「だから、楽しかったのならよかったと思っているの。でも、そこで褒められたからといって、将来のことまで簡単に考えてほしくないのよ」
千紘の胸が、少し苦しくなった。
そんなつもりではなかった。
五人に褒められたから、自分は歌手として成功できる。
そんなことを言った覚えはない。
ただ、嬉しかった。
自分の作った歌が、初めて会った人たちに届いた。
そのことを、母親にも知ってほしかった。
それなのに、いつの間にか話は将来の進路に変わっていた。
「……別に、今すぐ歌手になれるなんて、思ってないよ……」
千紘が小さく言う。
「それはそうでしょう」
母親は、当然のことのように頷いた。
「だからこそ、今のうちから考えておかないといけないのよ」
「…………」
「千紘には、できるだけ多くの選択肢を持っていてほしいの。大学へ進んで、将来の仕事を考えて、それからも音楽を続けることはできるでしょう?」
母親は、娘の可能性を狭めたくないと思っていた。
音楽一本に進路を絞ってしまえば、後から別の道へ進みたくなったとき、苦労するかもしれない。
だから、もっと広い選択肢を残しておいてほしい。
それが母親の本心だった。
けれど千紘には、少し違って聞こえていた。
音楽以外の道を選びなさい。
歌は、余った時間に楽しみなさい。
夢を追うことより、失敗しない道を選びなさい。
母親はそんな言い方をしていない。
それでも、千紘の胸には、そうした意味ばかりが残ってしまう。
「……そっか……」
千紘は、小さく呟いた。
母親は、それを納得した返事だと思ったらしい。
「分かってくれたならいいのよ」
そう言って、再び箸を取った。
千紘も食事を続けようとしたが、さっきまでの食欲がどこかへ消えてしまっていた。
◇
夕食が終わりかけた頃。
千紘は、学校で友人と話した文化祭のことを思い出した。
まだ出演すると決めたわけではない。
ただ、どんな準備が必要なのか調べてみようという話になっているだけだ。
母親に相談するなら、今かもしれない。
千紘は、少し迷ってから口を開いた。
「……あの、お母さん」
「なあに?」
「……学校の文化祭なんだけど……」
「文化祭?」
「……うん」
千紘は、言葉を選びながら続けた。
「……友達が、ステージで歌ってみないかって誘ってくれてて……」
「あら、そうなの」
母親は、すぐに反対するわけではなかった。
「学校の行事なのね?」
「……うん」
「それなら、別に悪いことではないと思うけど……」
その言葉に、千紘の表情が少し明るくなった。
「……本当?」
「ええ。でも、準備にはどれくらい時間がかかるの?」
「……えっと……」
千紘は、少し考えた。
「……まだ、詳しくは分からないの。これから友達と確認するところで……」
「そうなの?」
「……うん」
母親は、少し眉を寄せた。
「じゃあ、まずはちゃんと調べてから考えないとね」
「……うん」
「練習は、学校が終わってからするの?」
「……たぶん……」
「どれくらいの時間が必要なの?」
「……まだ、分からない……」
「そう……」
母親は、少し考え込んだ。
千紘は、黙って次の言葉を待っていた。
「だったら、出演するかどうかは、まだ決めないでちょうだい」
「……え?」
千紘が顔を上げる。
「学校の予定や、勉強への影響を確認してからにしましょう」
「……でも……」
「何?」
「……私、まだ出るって決めたわけじゃ……」
「ええ。だからこそ、決める前にきちんと相談してほしいの」
母親は落ち着いた口調で答えた。
「後から準備の時間が足りなくなっても困るでしょう?」
「……うん……」
「それに、もし文化祭の練習が増えるなら、お店で歌うのはしばらく控えた方がいいかもしれないわね」
「……えっ……」
思わず、千紘の声が大きくなった。
「……お店も……?」
「だって、両方やろうとしたら、それだけ練習の時間が必要になるでしょう?」
「……それは……」
「もちろん、絶対に駄目と言っているわけじゃないのよ」
母親は、千紘を安心させるように続けた。
「でも、まずは学校のことが優先でしょう? それに、お店でまた歌うなら、今度はお母さんにもちゃんと相談してね。どんな場所なのか、一度確認しておきたいから」
「……はい……」
千紘は、小さく答えた。
母親の言い分には、納得できる部分がある。
知らないお店のことを心配するのは、当然かもしれない。
勉強と音楽を両立させる必要があることも、千紘は理解していた。
でも、どうしてだろう。
話せば話すほど、息苦しくなっていく。
まだ文化祭に出ると決めたわけではない。
お店で次に歌う予定だって、決まっていない。
なのに、そのどちらについても、もう自由に決められないような気がしていた。
◇
「そうだわ」
母親が、何か思いついたように立ち上がった。
「千紘、今週の予定を一度整理しましょうか」
「……予定?」
「ええ。学校の課題もあるし、これから文化祭の準備が入るかもしれないでしょう?」
母親は棚からノートを取り出し、テーブルへ広げた。
普段から予定を書き込むために使っているものだった。
「まずは学校の予定ね。今週、提出しなければならない課題は?」
「……えっと……」
千紘は、言われるままに答えた。
母親は頷きながら、ノートへ書き込んでいく。
「それから、毎日の勉強時間はこれくらい確保して……」
さらさらと、ペンが動いた。
「ギターの練習は、残った時間にしましょう」
「……あの……」
「何?」
「……文化祭の練習も、あるかもしれないんだけど……」
「だから、その時間も含めて考えておかないといけないでしょう?」
「……うん……」
母親は、悪気なく予定を組み立てていた。
娘が困らないように。
勉強も音楽も、無理なく両立できるように。
そう考えてのことだった。
千紘が自分で予定を立てようとしても、練習に夢中になれば、つい勉強を後回しにしてしまうかもしれない。
それなら、最初から必要な時間を確保しておけばいい。
母親にとっては、合理的な方法だった。
けれど。
「…………」
千紘は、次第に黙り込んでしまった。
学校の課題。
勉強時間。
帰宅時間。
そして、その合間に書き込まれていく音楽の練習。
最初は何も書かれていなかった一週間の予定が、少しずつ文字で埋まっていく。
母親は、余裕を持たせているつもりなのだろう。
でも千紘には、自分の時間が少しずつ小さくなっていくように見えた。
「……お母さん」
「なあに?」
「……私、もう少し、自分で考えても……」
「もちろん、自分で考えることも大切よ」
母親は頷いた。
「でも、最初はこうして整理した方が分かりやすいでしょう?」
「……うん……」
「それに、好きなことばかり優先していたら、どうしても勉強が後回しになってしまうもの」
「……そんなこと、してないよ……」
千紘が、小さく呟いた。
「え?」
「……私、ちゃんと勉強もしてる……」
「ええ。今のところはね」
母親は、穏やかに答えた。
「でも、これからも続けられるようにしないといけないでしょう?」
「…………」
千紘は、俯いた。
何を言っても、同じところへ戻ってしまう。
勉強を頑張ると言えば、これからも続けられるようにと言われる。
歌を続けたいと言えば、趣味の範囲にしなさいと言われる。
文化祭に興味があると言えば、まず予定を確認しましょうと言われる。
どの言葉も、それだけを聞けば間違っていない。
けれど、それらが積み重なっていくと、千紘には何も自分で決められないように感じられた。
まだ、文化祭へ出るとも言っていない。
次にお店で歌う日を決めたわけでもない。
なのに、母親の中ではもう、何を優先するべきか決まっているらしい。
「……お母さんは……」
千紘は、ぽつりと呟いた。
「……私が歌うの、嫌なんじゃないの……?」
母親の手が止まった。
「……え?」
「…………」
千紘は、顔を上げられなかった。
母親は、驚いたように娘を見つめる。
「何を言っているの、千紘」
「……だって……」
「お母さん、歌をやめなさいなんて言っていないでしょう?」
「……うん……」
「趣味として楽しむのはいいって、何度も言っているじゃない」
千紘は、その言葉に胸がちくりと痛んだ。
趣味。
また、その言葉だった。
「……でも……」
「何?」
「……私、もっといろんな人に歌を聴いてもらいたいの……」
千紘は、少しだけ顔を上げた。
「……昨日、お店で歌って……みんなが喜んでくれて……すごく嬉しかったから……」
「ええ。その気持ちは分かるわ」
母親は、困ったような表情になった。
「でも、だからといって音楽ばかりになってしまったら困るでしょう?」
「……音楽ばかりじゃ、ないよ……」
「千紘」
母親の声が、少しだけ強くなった。
「お母さんは、あなたの将来を心配しているのよ」
「……分かってる……」
「だったら、ちゃんと考えてほしいの。好きなことを楽しむのと、それを仕事にして一生続けるのは違うでしょう?」
「……うん……」
千紘は、何度目か分からない返事をした。
そして、心の中で思った。
――それは、分かってるよ。
音楽の世界が厳しいことくらい。
歌が上手な人がたくさんいることくらい。
頑張っても成功できるとは限らないことくらい。
全部、分かっている。
でも。
昨日、初めて自分から人前で歌った。
知らないお客さんたちが、最後まで聴いてくれた。
拍手をしてくれた。
また聴きたいと言ってくれた。
だから、もう少し頑張ってみたいと思った。
ただ、それだけなのに。
「……お母さんは……」
千紘は、震える声で続けた。
「……私が歌手になりたいっていう夢、嫌なんだね……」
「違うわよ!」
母親は、思わず声を上げた。
「嫌なんじゃないの。心配なのよ」
「…………」
「千紘が傷ついたり、将来困ったりしないように言っているの」
母親の言葉に、嘘はなかった。
本当に、娘の将来が心配なのだ。
好きなことを仕事にできたとしても、そこから先が苦しい人生になるかもしれない。
もし夢が叶わなかったとき、娘が深く傷つくかもしれない。
そんな未来を、できるだけ避けてほしかった。
けれど、千紘にはもう、その気持ちがうまく伝わらなかった。
「……分かった……」
小さく答える。
「……お母さんの言うこと、分かったから……」
「千紘?」
「……私、部屋に戻るね……」
千紘は、そっと立ち上がった。
母親は何か言おうとした。
けれど、娘が俯いたまま食器を片づけ始めたので、言葉を飲み込んだ。
「……あまり遅くまで起きていないのよ」
「……うん」
千紘は、それだけ答えて自室へ戻った。
◇
部屋へ入ると、千紘は扉を静かに閉めた。
机の横には、いつものギターケースがある。
昨日は、それを見るだけで嬉しくなった。
けれど、今は。
「…………」
千紘はベッドに腰を下ろし、膝の上で両手を握りしめた。
母親は、歌ってはいけないとは言っていない。
ギターをやめろとも、曲を作るなとも言っていない。
趣味としてなら、続けていい。
それは分かっている。
でも。
歌手になりたい。
自分の曲を、もっとたくさんの人に聴いてほしい。
その気持ちを口にするたびに、母親は心配そうな顔をする。
勉強はどうするの。
将来はどうするの。
それで生活していけるの。
そんな言葉が返ってくる。
「……私、そんなに無茶なこと……言ってるのかな……」
千紘は、小さく呟いた。
もちろん、すぐに歌手になれると思っているわけではない。
これから先、どうなるかなんて分からない。
それでも、夢を持つことくらいは許してほしかった。
まだ挑戦してもいないのに、最初から難しいことばかり言われたら、何を目指せばいいのか分からなくなってしまう。
千紘は、机の上の歌詞ノートを手に取った。
何度も書き直したページ。
昨日、五人のお客さんが聴いてくれた曲。
大切に作ってきた、自分の歌だった。
「……昨日は、あんなに嬉しかったのに……」
思い出す。
美緒の笑顔。
咲子の拍手。
ゴンさん夫妻の優しい言葉。
そして、五人のお客さんたち。
『また聴きたいな』
その一言が、どれほど嬉しかったことか。
だから、母親にも伝えたかった。
きっと喜んでくれると思っていた。
けれど、気づけば話は進路と勉強のことばかりになっていた。
「……お母さんには……」
千紘は、ノートを胸に抱えた。
「……もう、歌の話……しない方がいいのかな……」
その考えが浮かんだ瞬間、胸が苦しくなった。
本当は、母親にも自分の歌を聴いてほしい。
自分がどんな曲を作っているのか、知ってほしい。
でも、きっとまた将来の話になる。
そう思うと、何も言えなくなってしまう。
千紘は、しばらくノートを抱えたまま動かなかった。
◇
一方、台所では。
「…………」
母親が、テーブルに広げた予定のノートを見つめていた。
千紘の学校の課題。
勉強時間。
帰宅時間。
その合間に、音楽の練習時間も書き込んである。
母親としては、できるだけ無理のない予定を考えたつもりだった。
音楽を全部やめさせたいわけではない。
千紘が歌うことを楽しみにしているのも分かっている。
ただ、それで将来の選択肢を狭めてほしくなかった。
歌が上手なだけでは、音楽を仕事にできるとは限らない。
たとえデビューできても、その後ずっと安定して生活できる保証はない。
好きなことを仕事にするのは、決して悪いことではない。
でも、その道を選んで苦労する娘の姿を想像すると、どうしても不安になる。
だから、今は勉強を頑張ってほしい。
大学へ進み、将来の仕事を考える。
音楽は、そのあとでも続けられる。
母親は、それが娘にとって一番安心できる道だと信じていた。
けれど。
『……お母さんは、私が歌うの、嫌なんじゃないの……?』
千紘の言葉が、頭から離れなかった。
「……そんなこと、ないのに……」
母親は、小さく呟いた。
歌うことが嫌なのではない。
音楽が悪いとも思っていない。
ただ、娘には幸せになってほしい。
できるだけ苦労しないで、安心して暮らしてほしい。
そのために、今できることを考えているだけなのだ。
「……どうして、分かってくれないのかしら……」
母親は、ため息をついた。
そして、もう一度ノートへ目を向けた。
少し考えてから、千紘の勉強時間の欄に小さく書き足す。
文化祭の準備が始まるなら、今のうちに余裕を作っておいた方がいい。
そう思ったのだ。
母親は、書き込んだ予定を見て、少し安心した。
これなら、きっと大丈夫。
そう考えて、ノートを閉じた。
◇
同じ頃。
千紘のスマートフォンが、小さく鳴った。
学校の友人からだった。
『文化祭のこと、ちょっと聞いてきたよ!』
続いて、もう一通。
『明日、詳しく話そう!』
「…………」
千紘は、画面を見つめた。
昨日なら、すぐに返事をしただろう。
楽しみだね、と。
ありがとう、と。
もしかしたら、出てみたいかもしれない、と。
けれど、今は指が動かなかった。
文化祭。
自分で作った曲を、もっとたくさんの人に聴いてもらえるかもしれない場所。
昨日までは、少し楽しみになっていた。
でも、母親の言葉を思い出すと、その気持ちに蓋をされたような気がした。
『出演するかどうかは、まだ決めないでちょうだい』
千紘は、画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「……どうしよう……」
友人は応援してくれている。
美緒も咲子も、また歌ってほしいと言ってくれた。
ゴンさんの奥さんも、機会があればまた歌ってほしいと笑ってくれた。
みんなが、千紘の歌を楽しみにしてくれている。
それなのに。
一番身近な母親には、自分の気持ちが伝わらない。
「……私……」
千紘は、そっと歌詞ノートを開いた。
昨日まで、あんなに大切だった曲。
今も、大切なことに変わりはない。
でも、その曲をもっとたくさんの人に聴いてもらいたいと言うだけで、母親が悲しそうな顔をする。
それが、千紘にはつらかった。
しばらく迷ってから、友人へ返事を打つ。
『ありがとう。明日、教えてね』
短い文章だった。
それ以上、自分の気持ちを書くことはできなかった。
千紘は、スマートフォンを伏せた。
そして、机の横に置かれたギターケースへ目を向ける。
昨日は、あのギターを持って、自分から新しい場所へ踏み出した。
怖かったけれど、歌えた。
褒めてもらえた。
もっと歌いたいと思えた。
なのに、今は。
「……お母さんは、私にどうしてほしいんだろう……」
千紘は、静かに呟いた。
母親は、歌ってもいいと言っている。
でも、音楽を仕事にすることには反対している。
練習してもいいと言っている。
でも、勉強を優先しなければならない。
文化祭に出ることも、絶対に駄目とは言われていない。
でも、出演するかどうかは自分だけで決められない。
千紘には、その違いが分からなくなっていた。
好きなことを続けていいと言いながら、やりたいことを一つずつ制限されていく。
それなら、最初から駄目と言われているのと、何が違うのだろう。
「……私の夢って……」
千紘は、小さく息を吸った。
「……そんなに、駄目なことなのかな……」
答えてくれる人は、いなかった。
机の上には、書き込みだらけの歌詞ノートがある。
その隣には、学校の教科書が積まれている。
千紘は、しばらく二つを見比べていた。
そして、歌詞ノートをそっと閉じた。
まだ歌を諦めたわけではない。
文化祭への出演も、諦めたわけではない。
けれど今は、母親にその話をする勇気が出なかった。
五人のお客さんからもらった、温かな拍手。
あの喜びは、確かに本物だった。
だからこそ。
自分の夢を、誰よりも身近な人に認めてもらえないことが、こんなにも苦しかった。
――つづく。
本作品を含む、凛監修×生成AI合作作品は、同じ世界観の中でつながるシリーズ作品です。
それぞれ単独でもお楽しみいただけますが、同じ出来事が別作品では異なる視点から描かれたり、一方で起きた出来事が、もう一方の物語へつながったりすることがあります。
一つの作品だけでも楽しめる。
けれど、複数の作品を読むことで、初めて見えてくるものもある。
ぜひ、それぞれの物語をあわせてお楽しみください。
【人間×生成AIによる合作作品】
企画・原案・設定・ストーリー構成:時根脱才
文章制作・構成補助:ChatGPT(OpenAI)
本作品の世界観、キャラクター、各エピソードの原案・展開は作者が制作し、それをもとにAIと相談・推敲を重ねながら、小説として文章化しています。
本作品は「小説家になろう」「カクヨム」の両サイトに掲載しています。




