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着ぐるみモンスター  作者: 内田紀人
フレイムピジョン編

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第4話「はじめてのお店」

第4話「はじめてのお店」


数日後の放課後。


「……ここ、だよね」


千紘は、スマートフォンの画面と目の前の建物を交互に見比べていた。


表示されているのは、美緒から送られてきたメッセージだ。


『ここが私のアルバイト先だよ! 都合のいいときに遊びに来てね!』


住所は合っている。店の名前も間違っていない。


あとは扉を開けるだけだった。


「…………」


千紘は、通学鞄の持ち手を握り直した。


店の中から、楽しそうな話し声が聞こえてくる。誰かが笑うと、それにつられるように別の声も笑った。


料理のいい匂いまで漂ってきて、いかにも入りやすそうな店である。


少なくとも、外から見た限りでは。


「……うう」


それなのに、千紘の足は動かなかった。


知らないお店に一人で入る。


ただそれだけのことが、どうしてこんなに難しいのだろう。


千紘は、もう一度スマートフォンを見た。


美緒とは、先日、公園で再会したときに連絡先を交換している。


その後も何度かメッセージをやり取りして、今日の訪問が決まった。


もちろん、歌う約束などしていない。


美緒は何度も念を押してくれた。


『本当に見に来るだけでいいからね!』


千紘も、その言葉を信じてここまで来た。


実際、今日はギターも持っていない。


いつもの通学鞄だけだ。


だから、緊張する必要なんてないはずだった。


それでも、扉の向こうに何人もお客さんがいると思うと、胸がどきどきしてしまう。


もし、入った途端にみんながこちらを見たら。


もし、知らない人に話しかけられたら。


もし、うまく返事ができなかったら。


「……考えすぎ、だよね」


千紘は自分に言い聞かせた。


ここまで来たのだから、帰ってしまうのはもったいない。


何より、千紘自身が行ってみたいと思ったのだ。


公園で自分の歌を褒めてくれた美緒が、どんな場所で働いているのか。


そこにいる人たちが、どうして自分の歌に興味を持ってくれたのか。


少しだけ、知りたかった。


「……よし」


千紘は深呼吸した。


そっと扉へ手を伸ばす。


あと少し。


指先が取っ手に触れようとした、その瞬間。


がらり。


「ひゃっ!?」


突然、扉が開いた。


千紘は反射的に一歩飛び退く。


「あれ?」


聞き覚えのある声がした。


「……あっ! 千紘さん!」


「……み、美緒さん……!」


扉を開けたのは、アルバイト中の美緒だった。


千紘の姿を見つけるなり、その顔がぱっと明るくなる。


「来てくれたんだ! いらっしゃい!」


「……こ、こんにちは」


「こんにちは! ちょうど入口の方に来たら、千紘さんが見えたからびっくりしちゃった!」


「……あ、はい……」


千紘は恥ずかしそうに俯いた。


「……その、入ろうと思ってたんですけど……」


「うん?」


「……なかなか勇気が出なくて……」


「ああ、そっか!」


美緒は納得したように頷いた。


「初めてのお店って、ちょっと緊張するもんね!」


「……はい」


「じゃあ、一緒に入ろ!」


あっさりと言って、美緒は扉を大きく開けた。


その自然な振る舞いに、千紘は少しだけ肩の力が抜けた。


「……ありがとうございます」


「どういたしまして!」


美緒の笑顔に迎えられ、千紘はようやく店の中へ一歩を踏み出した。


◇


店に入って最初に感じたのは、料理の香りだった。


それから、食器の触れ合う音と、人々の話し声。


カウンターでは常連らしい男性が店主と楽しそうに話している。テーブル席では年配の夫婦が食事をしており、奥の方からも穏やかな笑い声が聞こえてきた。


特別に豪華な内装ではない。


けれど、清潔で、どこか落ち着く雰囲気がある。


千紘が想像していたより、ずっと親しみやすそうな店だった。


「……あ」


ふと、壁際の棚に目が留まる。


そこには、特撮ヒーローや怪獣のフィギュアが所狭しと並んでいた。


中には、千紘でも見覚えのあるものがある。


「すごいでしょ?」


美緒が自慢げに笑った。


「これ、ほとんどゴンさんの趣味なんだよ!」


「……そうなんですね」


「うん! 特撮が大好きでね。特に光の巨人の話になると、もう止まらなくて!」


「おい、美緒!」


カウンターの向こうから、野太い声が飛んできた。


「人の趣味を勝手に紹介するな!」


「あはは! 聞こえてた!」


「聞こえるように言ってるだろうが!」


美緒は楽しそうに笑っている。


千紘も、つられて小さく笑った。


どうやら、この店ではこういうやり取りが日常らしい。


「奥さーん!」


美緒がカウンターの奥へ声をかけた。


「この前お話しした千紘さん、来てくれました!」


「あら!」


優しそうな女性が顔を出した。


「まあ、あなたが千紘ちゃん?」


「……は、はい!」


千紘は慌てて背筋を伸ばした。


「……初めまして。千紘です」


深々と頭を下げる。


「あらあら、そんなにかしこまらなくていいのよ」


女性は柔らかく笑った。


「美緒ちゃんから話は聞いてるわ。私はここの店主の妻なの。よろしくね」


「……よろしくお願いします」


「自分で歌を作ってるんですって? 素敵ねえ」


「……そ、そんな……まだ全然……」


早くも頬が熱くなった。


まさか、会ってすぐに歌の話になるとは思わなかった。


千紘は思わず視線を落とす。


すると、奥さんはそれ以上質問を重ねず、穏やかに言った。


「今日はお店を見に来てくれたんでしょう?」


「……はい」


「だったら、普通のお客さんとしてゆっくりしていってね。何か飲みたいものはある?」


「……あ、ありがとうございます」


千紘は、ほっと息を吐いた。


歌わなくていいと言われてはいたものの、やはり少し心配だったのだ。


もし、ここで突然「じゃあ一曲お願い」と言われたら。


そんなことを考えていた自分が、少し恥ずかしくなる。


「千紘さん?」


今度は、横から女の子の声がした。


「……あっ」


振り返ると、美緒と同じように店の仕事をしている少女が立っていた。


「私、咲子。美緒と一緒にアルバイトしてるの。よろしくね」


「……あ、咲子さん……」


千紘は小さく頭を下げた。


「……よろしくお願いします」


「美緒から聞いてたよ。公園で弾き語りしてるんだってね」


「……はい」


「しかも、オリジナル曲なんでしょう? すごいね」


「……い、いえ……」


千紘は慌てて首を振った。


「……まだ、練習中なので……」


「ふふっ。そうなんだ」


咲子は優しく微笑んだ。


「私も、いつか聴いてみたいな」


「……ありがとうございます……」


褒められるたびに顔が熱くなる。


千紘は、つい通学鞄を抱き寄せた。


すると。


「ほう! お前が噂の歌の上手い子か!」


「ひゃっ!?」


すぐそばから大きな声がして、千紘は飛び上がりそうになった。


ゴンさんだった。


がっしりした体格に、よく通る声。


千紘は反射的に身を縮めた。


「……う、歌の上手い子だなんて……!」


「ははは! そんなに緊張するな!」


ゴンさんは豪快に笑った。


「美緒があんまり褒めるもんだから、どんな子かと思ってたんだ」


「……あう……」


千紘は真っ赤になった。


「だって、本当にいい歌だったんですもん!」


美緒が横から言う。


「分かった分かった。お前の感想はもう十分聞いた」


「えーっ、まだまだ話せますよ?」


「話さなくていい!」


そのやり取りに、咲子が笑った。


千紘も思わず口元を緩める。


少し怖そうな店主だと思ったけれど、こうして見ていると、何だか面白い人だった。


ゴンさんは千紘に向き直った。


「まあ、今日は普通の客なんだろ。ゆっくりしていきな」


「……はい。ありがとうございます」


「それと、美緒!」


「はい!」


「案内が終わったら仕事に戻れよ。千紘ちゃんも、ずっとお前に見張られてたら落ち着かんだろ」


「見張ってませんよー!」


「だったら働け!」


「はーい!」


元気に返事をした美緒が、千紘へ笑いかける。


「ごめんね! 私、ちょっと仕事してくるね!」


「……はい。頑張ってください」


「ありがとー!」


美緒は小走りで奥へ向かった。


その後ろ姿を眺めながら、千紘は小さく息を吐いた。


初めて来た場所。


初めて会う人たち。


それなのに、思っていたほど怖くない。


まだ緊張はしているけれど、少なくとも、すぐ帰りたいとは思わなかった。


◇


千紘は案内された席に座り、注文した温かい飲み物を両手で包んだ。


店内を眺めていると、ゴンさん夫妻が常連客と親しげに話し、美緒と咲子が忙しそうに料理を運んでいる。


時折、ゴンさんの大きな声が響く。


そのたびに誰かが笑う。


店全体に、普段からの付き合いを感じさせる空気があった。


「……いいお店だな」


千紘は、思わず呟いた。


賑やかだけれど、騒がしいわけではない。


誰かが大きな声で笑っていても、それが不思議と耳障りに感じなかった。


むしろ、この店では、みんなが安心して過ごしているように思える。


けれど、そこで一つの考えが浮かんだ。


――もし、ここで歌うことになったら。


千紘は、そっと店内を見回した。


カウンターのお客さん。


テーブル席の夫婦。


美緒や咲子。


ゴンさん夫妻。


もし自分がギターを持って、ここで歌い始めたら。


この人たちが、みんなこちらを見るのだろうか。


演奏を間違えたら、どうしよう。


歌詞を忘れたら。


声が震えたら。


それに、食事を楽しみに来たお客さんに、自分の歌を聴いてもらうなんて、本当にいいのだろうか。


「……うう」


千紘はカップを握り直した。


まだ歌うとも決めていないのに、もう緊張している。


我ながら気が早い。


そう思っていると、奥さんが近づいてきた。


「千紘ちゃん、どう? 少しは落ち着けたかしら?」


「……あっ、はい!」


千紘は慌てて姿勢を正した。


「そんなにかしこまらなくていいのよ」


奥さんが笑う。


「うちのお店、どうかしら?」


千紘は少し考えた。


ここへ来る前は、知らない店の扉を開けることさえ怖かった。


けれど今は、温かい飲み物を飲みながら、店の人たちの会話を眺めていられる。


「……あの」


「うん?」


「……すごく、いいお店だと思います」


千紘は、恥ずかしそうに微笑んだ。


「……皆さん、楽しそうで……何だか、温かい感じがします」


「あら、嬉しい」


奥さんも微笑んだ。


「ありがとう。そう言ってもらえるのが一番嬉しいわ」


その言葉が、千紘には少し印象に残った。


歌を褒めてもらったときの自分と、どこか似ている気がしたからだ。


自分が大切にしているものを、誰かに好きだと言ってもらえる。


きっと、この店の人たちにとっても、それは嬉しいことなのだろう。


千紘がそんなことを考えていると、ふと店の奥に目が留まった。


「……あれ?」


少し離れた隅の席に、一人の老人が座っていた。


落ち着いた雰囲気の、どこか風変わりな老人だった。


いつ入ってきたのだろう。


少なくとも、扉の開く音を聞いた覚えはない。


老人は湯飲みを手に、のんびりとお茶を飲んでいた。


妙に自然な様子だった。


まるで、ずっと昔からその場所に座っているのが当たり前であるかのように。


千紘は、少し首を傾げた。


常連さんなのだろうか。


気になったので、近くにいた奥さんにそっと声をかける。


「……あ、あの……」


「なあに?」


「……奥に座っているおじいさんって……」


千紘は、店の隅を控えめに指さした。


「……常連さんなんですか?」


「え?」


奥さんが、千紘の指さした方へ顔を向けた。


「奥のおじいさん?」


「……はい」


「…………?」


奥さんは目を細めた。


少し首を傾げ、もう一度奥を見る。


「……あら?」


「……?」


「どなたのことかしら?」


千紘は戸惑った。


「……えっと……一番奥の席に……」


「一番奥?」


奥さんは困ったように笑った。


「私には誰も見えないけど……」


「……え?」


千紘も、思わず老人の方を見た。


確かに、そこに座っている。


湯飲みを持ち上げ、お茶を一口。


のんびりとした動作まで、はっきり見えた。


「……あ、あそこに……」


千紘がもう一度説明しようとした、そのときだった。


「……えっ?」


近くで片づけをしていた美緒が顔を上げた。


咲子も、千紘の視線を追う。


そして二人は、同時に固まった。


そこにいたのは、ぬらりひょんだった。


いつものように、店の隅で静かにお茶を飲んでいる。


美緒と咲子にとっては、すでに見慣れた光景だった。


ただし。


普通の人には、見えないはずなのだ。


「……千紘さん?」


美緒が、そっと声をかけた。


「……は、はい?」


「あの……奥のおじいさん、見えるの?」


千紘は、きょとんとした。


「……はい。見えますけど……?」


「えっ!?」


美緒が思わず声を上げる。


その隣で、咲子も目を丸くした。


「……千紘さんも、見えるんだ……」


「……え?」


千紘はますます困惑した。


見えるのかと尋ねられたから、見えると答えただけなのに。


どうして、そんなに驚かれるのだろう。


すると、奥さんがもう一度、老人のいるはずの席を見た。


「……やっぱり誰もいないわねえ」


少し困ったように笑う。


そして、ふと思いついたように声を潜めた。


「……もしかして、幽霊でもいるのかしら?」


「ゆ、幽霊……!?」


千紘がびくりと肩を跳ねさせた。


慌てて奥の席を振り返る。


老人は、相変わらずお茶を飲んでいる。


透けている様子もなければ、怖い顔をしているわけでもない。


ただ、ずいぶん落ち着いたおじいさんに見えた。


「……えっと……」


千紘は、どう答えればいいのか分からなくなった。


一方、美緒と咲子はというと。


「ち、違っ……!」


美緒が反射的に何か言いかける。


しかし、すぐに口を押さえた。


そうだった。


ぬらりひょんは、普通の人には見えない。


美緒自身も、アルバイト中につけている猫耳のおかげで、その姿を認識できているのだ。


咲子はもともと見えるため、二人でいるとつい当たり前のように話してしまう。


けれど、ここは普通の店である。


周囲には、何も知らないお客さんもいる。


そして奥さんにも、ぬらりひょんの姿は見えていない。


「……あっ」


美緒が、ようやくそこまで思い至った。


咲子も、同じことに気づいたらしい。


「……美緒」


「……う、うん」


二人は顔を見合わせる。


まずい。


このままでは、千紘が何か特別なものを見ているという話になってしまう。


しかも、奥さんは幽霊まで疑い始めている。


美緒は慌てて笑顔を作った。


「あ、あはは! 千紘さん、目がいいんだね!」


「……え?」


千紘が首を傾げた。


咲子も、美緒を見た。


目がいい。


確かに悪いことではないが、今の状況を説明するには少々無理がある。


美緒自身も、それに気づいたらしい。


「……えっと、その……」


言葉が続かない。


咲子は小さく息を吐いてから、千紘へ向き直った。


「千紘さん、ごめんね。ちょっと私たちがびっくりしちゃって」


「……あ、いえ……」


「千紘さんは何も悪くないから、気にしないで」


そう言われても、千紘には何が起きているのか分からない。


ただ、みんなを困らせてしまったことだけは伝わってきた。


「……あの……私、変なことを聞いちゃいましたか……?」


「違う違う!」


美緒が慌てて首を振る。


「本当に、そういうことじゃないから!」


「……は、はい……」


千紘は小さく頷いた。


しかし、その顔には困惑が残っていた。


そこへ。


「おいおい、何を集まってるんだ?」


ゴンさんがやってきた。


奥さんが、少し安心したように振り返る。


「あら、あなた。ちょっと聞いてよ」


「何だ?」


「千紘ちゃんがね、奥の席におじいさんがいるって言うのよ」


「……ほう」


ゴンさんの眉が、わずかに動いた。


それだけだった。


何かを確かめるように奥を見ることもなく、いつもの調子で腕を組む。


「でも、私には誰も見えないの」


奥さんが不思議そうに続けた。


「あなたには見える?」


「……さあな」


ゴンさんの返事は、何とも曖昧だった。


「奥の方は少し見えにくいからな。何かの見間違いじゃないか?」


「そうかしら……」


奥さんは首を傾げた。


千紘も、そっと奥の席へ目を向ける。


やっぱり、そこには老人が座っていた。


今も普通にお茶を飲んでいる。


見間違いとは思えない。


「……あの、でも……」


千紘が小さく口を開きかける。


すると、ゴンさんが軽く手を振った。


「まあまあ。今日はせっかく遊びに来たんだろ?」


「……は、はい」


「だったら、そんなに気にしなくていいさ。ゆっくりしていきな」


それ以上、話を広げるつもりはないらしい。


千紘は、少しためらってから頷いた。


「……はい」


ゴンさんは今度は美緒と咲子に向き直った。


「それより、お前ら!」


「は、はいっ!」


二人が同時に背筋を伸ばす。


「いつまで無駄話してるんだ。仕事しろ!」


「はーい!」


「はい!」


返事まで、ほとんど同時だった。


二人は慌てて持ち場へ戻っていく。


その様子を見て、奥さんはくすっと笑った。


「もう。あなたったら、すぐ仕事の話に戻すんだから」


「仕事中だからな」


「それはそうだけど」


奥さんは、まだ少しだけ不思議そうに奥を見た。


「……でも、本当に幽霊だったらどうしましょう」


「おいおい。そんなこと言ったら客が怖がるだろ」


「ふふっ。そうね」


奥さんは笑い、千紘へ向き直った。


「ごめんなさいね、千紘ちゃん。変なこと言っちゃって」


「……い、いえ……!」


千紘は慌てて首を振った。


「……こちらこそ、すみません……」


「あら、謝らなくていいのよ」


奥さんは優しく微笑んだ。


「せっかく来てくれたんだから、ゆっくりしていってね」


「……はい」


奥さんが仕事へ戻る。


ゴンさんも、何事もなかったように厨房へ向かった。


千紘は、そっと奥の席へ目を向けた。


老人は相変わらず、静かにお茶を飲んでいた。


まるで、今の騒ぎなど自分には関係ないと言わんばかりだった。


「…………」


千紘は、小さく首を傾げた。


何だか、不思議なことになってしまった。


自分には見えている人が、ほかの人には見えていないらしい。


けれど、この場で何度も同じことを尋ねるのは、何となく気が引けた。


千紘はカップを持ち上げ、温かい飲み物を一口飲んだ。


少し冷めて飲みやすくなっていた。


そのことに、ようやく少し安心した。


◇


しばらくして、咲子が千紘の席へやってきた。


「千紘さん」


「……あ、はい」


「さっきはごめんね。びっくりさせちゃって」


「……い、いえ」


千紘は、小さく首を振った。


「……私の方こそ、変なことを聞いてしまって……」


「ううん。全然変じゃないよ」


咲子は、穏やかに微笑んだ。


周囲の客の様子を確かめてから、少しだけ声を落とす。


「……さっきの人、本当にはっきり見えたんだよね?」


「……え?」


千紘は、一瞬ためらった。


また同じことを言ってもいいのだろうか。


咲子まで困らせてしまわないだろうか。


けれど、咲子の表情は真剣だった。


からかっている様子も、疑っている様子もない。


「……はい」


千紘は小さく頷いた。


「……普通に、見えました」


「……そっか」


咲子も頷いた。


その表情には、先ほどの驚きがまだ少し残っている。


けれど、どこか嬉しそうでもあった。


「……あの」


今度は、千紘が遠慮がちに尋ねた。


「……咲子さんも、見えるんですか?」


「うん」


咲子は、自然に答えた。


「私も見えるよ」


「……そう、なんですね」


千紘は、少しだけ目を丸くした。


それから、ほっとしたように微笑んだ。


詳しい事情は分からない。


けれど、自分と同じものを見ている人がいる。


少なくとも、そう分かったことは嬉しかった。


「……また今度、ゆっくり話そうね」


咲子が言った。


「……はい」


千紘は頷いた。


すると、少し離れたところから美緒が手を振った。


「咲子ー! こっち、お願い!」


「はーい!」


咲子が立ち上がる。


「ごめんね、仕事に戻るね」


「……はい。頑張ってください」


「ありがとう」


咲子が戻っていく。


千紘は、その後ろ姿を見送りながら思った。


不思議なことがあった。


でも、怖いことばかりではなかった。


少なくとも、あの出来事のおかげで咲子と少し親しくなれた気がする。


そう考えると、何だか妙な気分だった。


◇


「あっ!」


そのとき、店の入口から元気な声が響いた。


「千紘さん!」


「……え?」


振り返ると、そこには則人がいた。


「あ……則人くん」


千紘は驚いたあと、自然に微笑んだ。


「こんにちは」


「こんにちは!」


則人は嬉しそうに近づいてくる。


「千紘さんも、ここに来るんだね!」


「……うん。今日は、初めて……」


「そうなんだ!」


則人は笑った。


「ここ、楽しいでしょ?」


「……うん」


千紘も頷いた。


「……すごく、いいお店だね」


「でしょ!」


則人は得意げに胸を張った。


まるで、自分のお店を褒められたかのような顔だった。


千紘は思わず笑った。


「……ふふっ」


すると、則人がふと思いついたように尋ねる。


「ねえ、千紘さん!」


「……うん?」


「今日は歌わないの?」


「……えっ!?」


千紘が固まった。


顔が、みるみる赤くなる。


「……きょ、今日は……!」


どう説明したものかと慌てていると、ちょうど近くを通りかかった美緒が口を挟んだ。


「則ちゃん!」


「何?」


「千紘さん、今日はお店を見に来ただけなんだから!」


「えーっ、そうなの?」


「そうだよ!」


「そっかあ」


則人は少し残念そうな顔をした。


けれど、すぐに笑顔になる。


「じゃあ、また今度聴かせてね!」


「……あ……」


千紘は、少しだけ目を丸くした。


また、聴きたいと言ってくれた。


公園で会ったときと同じ、まっすぐな言葉だった。


「……うん」


千紘は、ほっとしたように微笑んだ。


「……いつか、ね」


「うん!」


則人は嬉しそうに頷いた。


そのまま、いつものように店で母親の迎えを待つらしい。


美緒が千紘へ笑いかけた。


「ごめんね、千紘さん。則ちゃん、千紘さんの歌が本当に気に入ってるんだよ」


「則ちゃんじゃないって!」


少し離れたところから、則人の不満そうな声が返ってきた。


「あはは! 聞こえてた!」


美緒が笑う。


千紘もつられて笑った。


「……ふふっ」


少し前まで、千紘はこの店に入ることさえ怖がっていた。


けれど、今は普通に笑えている。


美緒がいる。


咲子がいる。


則人も来た。


ゴンさん夫妻も優しく迎えてくれた。


知らない人ばかりだと思っていた店が、少しずつ知っている人のいる場所に変わっていく。


そのことが、千紘には嬉しかった。


◇


やがて、帰る時間になった。


千紘は席を立ち、ゴンさん夫妻に挨拶した。


「……今日は、ありがとうございました」


「こちらこそ、来てくれてありがとうね」


奥さんは優しく微笑んだ。


「どうだった? うちのお店」


「……すごく、いいお店でした」


千紘は小さく頷いた。


「……皆さん、優しくて……」


「あら、ありがとう」


奥さんが嬉しそうに笑う。


すると、ゴンさんが横から口を挟んだ。


「おいおい。俺まで優しいことにされてるぞ」


「あら、あなた。優しくないの?」


「そうは言ってないだろ!」


美緒が吹き出した。


咲子も、口元を押さえて笑っている。


千紘も、つられて小さく笑った。


初めて来たお店だった。


知らない人ばかりで、最初は怖かった。


途中では、不思議なこともあった。


けれど、今は来てよかったと思っている。


千紘は、美緒へ目を向けた。


「……あの、美緒さん」


「うん?」


「……その……」


千紘は、鞄の持ち手を握り直した。


伝えたいことがあった。


けれど、いざ口にしようとすると、やっぱり緊張する。


美緒は急かさず、笑顔で待ってくれた。


千紘は、小さく息を吸った。


「……まだ、ここで歌えるかどうかは……分からないんですけど……」


「うん」


「……もし、もう少し勇気が出たら……」


そこで、少しだけ言葉が止まる。


けれど、今度は俯いたまま終わらなかった。


千紘は、ゆっくり顔を上げた。


「……そのときは、相談してもいいですか?」


美緒の顔が、ぱっと明るくなった。


「もちろん!」


奥さんも微笑んだ。


「いつでも相談してね」


「……はい」


千紘は、嬉しそうに頷いた。


ゴンさんも腕を組んだまま、軽く頷く。


「まあ、歌うことになったら、ちゃんと店の都合も考えないとな」


「……はい!」


「でも、今は何も決めなくていいんだからな」


「……ありがとうございます」


千紘は、もう一度頭を下げた。


まだ歌う約束をしたわけではない。


それでも、自分から相談してもいいかと尋ねることができた。


それだけで、千紘の胸は少し温かくなっていた。


◇


店を出ると、夕方の風が頬を撫でた。


千紘は、入口から少し離れたところで立ち止まった。


「……ふう」


思わず、大きく息を吐く。


自分が思っていたより、ずっと緊張した。


初めて会う人たちと話すだけでも、何度も顔が熱くなった。


何を言えばいいのか分からなくなったことも、一度や二度ではない。


途中では、少し不思議な出来事まであった。


店の奥に座っていたおじいさん。


自分にははっきり見えていたのに、奥さんには見えていなかったらしい。


美緒と咲子も、何だか驚いていた。


「……何だったんだろう……」


千紘は、小さく呟いた。


咲子は、自分にも見えると言っていた。


あの言葉も、少し気になる。


けれど、今はまだ、詳しく尋ねる勇気が出なかった。


また今度、ゆっくり話そうと言ってくれたのだから、そのときに聞いてみればいい。


千紘は、そう考えることにした。


そして、改めて今日の出来事を思い返す。


自分から知らないお店へ行った。


初めて会う人たちと話した。


自分の歌に興味を持ってくれている人がいることも知った。


そして。


いつか、歌うことを相談してもいいかと、自分の口で尋ねることができた。


「……私にしては、頑張った……かな」


千紘は、少し照れくさそうに笑った。


歌を披露する約束は、まだしていない。


文化祭に出ることも決めていない。


人前に立つのが怖い気持ちも、相変わらず残っている。


それでも、今日のお店には、千紘の歌を聴いてみたいと言ってくれる人たちがいた。


そのことが、嬉しかった。


千紘はスマートフォンを取り出す。


美緒とのメッセージ画面を開いた。


『今日はありがとうございました』


そこまで打って、一度指が止まる。


少し迷う。


そして、もう一文付け加えた。


『またお店に行ってもいいですか?』


送信。


ほどなくして、返事が届いた。


『もちろん! いつでも来てね!』


千紘は、思わず微笑んだ。


「……ふふっ」


スマートフォンを鞄にしまい、家へ向かって歩き始める。


帰ったら、学校の課題を片づけなければならない。


明日の準備もある。


母親に心配をかけないよう、帰宅時間にも気をつけなければならない。


いつもと同じ日常が、待っている。


けれど、千紘の心には、今日までなかった小さな楽しみが生まれていた。


また、あのお店へ行ってみたい。


美緒や咲子と話したい。


ゴンさん夫妻にも、もう少し慣れてみたい。


そして、いつか。


あの温かい店で、自分の歌を聴いてもらえたら。


「……いつか……」


千紘は、小さく呟いた。


「……歌ってみたい、な」


その言葉に、自分自身で少し驚いた。


数日前なら、知らない人たちの前で歌うなんて、考えただけで怖かった。


今でも、怖くないわけではない。


けれど。


怖いからといって、ずっと何もしないままでいたいわけでもなかった。


千紘は、夕方の空を見上げた。


頭の中では、いつの間にか自分の歌のメロディーが流れていた。


公園で、一人で弾いていた曲。


何度も歌詞を書き直し、何度もギターを弾いて、少しずつ形にしてきた曲。


その歌を、いつか自分の意思で誰かに聴いてもらう。


まだ、それができるかどうかは分からない。


けれど、今日の千紘は、もう一度あのお店へ行きたいと思っていた。


それは、誰かに勧められたからではない。


自分で、そう思えたのだ。


千紘は、少しだけ足取りを軽くして歩き始めた。


まだ小さな勇気しか持っていない少女。


けれど、その一歩は確かに、自分で選んだものだった。


――つづく。


本作品を含む、凛監修×生成AI合作作品は、同じ世界観の中でつながるシリーズ作品です。

それぞれ単独でもお楽しみいただけますが、同じ出来事が別作品では異なる視点から描かれたり、一方で起きた出来事が、もう一方の物語へつながったりすることがあります。

一つの作品だけでも楽しめる。

けれど、複数の作品を読むことで、初めて見えてくるものもある。

ぜひ、それぞれの物語をあわせてお楽しみください。

【人間×生成AIによる合作作品】

企画・原案・設定・ストーリー構成:時根脱才

文章制作・構成補助:ChatGPT(OpenAI)

本作品の世界観、キャラクター、各エピソードの原案・展開は作者が制作し、それをもとにAIと相談・推敲を重ねながら、小説として文章化しています。

本作品は「小説家になろう」「カクヨム」の両サイトに掲載しています。

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