第3話「小さな舞台へのお誘い」
第3話「小さな舞台へのお誘い」
数日後の放課後。
「……あれ? いないなあ」
美緒は、公園の奥にあるベンチを見つめていた。
そこは以前、千紘がアコースティックギターを弾きながら歌っていた場所だった。
学校からの帰り道、美緒は少し遠回りをして、この公園に立ち寄っていた。
もちろん、目的は千紘である。
先日、アルバイト先であるゴンさんの店で、千紘の話をした。
公園で偶然出会った、歌の上手な女の子。
自分で歌詞を書き、曲を作り、ギターを弾きながら歌っていた少女。
その話を聞いたゴンさんの奥さんが、思いがけない提案をしてくれたのだ。
『そんなにいい歌を歌う子なら、うちでも歌ってもらっていいんじゃない?』
もちろん、店の営業やお客さんの都合もある。
ゴンさんからも、勝手に決めるなと釘を刺されている。
何より、千紘本人が歌いたいと思っているかどうかも、まだ分からない。
それでも、美緒にとっては嬉しい話だった。
千紘の歌を、もっといろいろな人に聴いてもらえるかもしれない。
あの歌を聴いたときの気持ちを、ほかの誰かとも分かち合えるかもしれない。
そう思うと、自然と足取りも軽くなった。
ところが。
「……うーん」
肝心の千紘が見当たらない。
例のベンチには、買い物帰りらしい女性が一人、袋を隣に置いて休んでいるだけだった。
ギターの音も聞こえない。
「まあ、毎日いるわけじゃないよねえ」
美緒は苦笑した。
そもそも、千紘がいつ公園で練習しているのかも知らない。
貸しスタジオを使うこともあると言っていたし、学校の用事だってあるだろう。
何より。
「……連絡先、聞いとけばよかったなあ」
美緒は、がっくりと肩を落とした。
あれだけ歌の話で盛り上がって、また聴きたいとまで言ったのに。
肝心の連絡先を聞き忘れてしまったのだ。
ゴンさんに呆れられたことまで思い出してしまう。
『お前、肝心なところが抜けてるなあ』
「……うう。返す言葉もありません」
誰もいないところで、思わず呟いた。
しかし、いつまでも落ち込んでいる美緒ではない。
「よし! 今度会えたら絶対聞こう!」
気を取り直し、もう一度公園を見回す。
小さな子供たちが遊具の周りを走り、少し離れた場所では親子がボール遊びをしている。
千紘らしい姿は見当たらない。
「……今日は無理かな」
仕方なく帰ろうとした、そのときだった。
ぽろん。
「……ん?」
美緒は足を止めた。
もう一度、耳を澄ませる。
ぽろん、ぽろろん。
木々の向こうから、柔らかな弦の音が聞こえてきた。
続いて、女の子の歌声。
美緒の顔がぱっと明るくなる。
「……あっ!」
聞き覚えのある声だった。
少し控えめで、優しくて。
けれど、一度聴いたら不思議と耳に残る歌声。
「いた!」
思わず声が出た。
すぐに口元を押さえる。
「……あ、いけない。練習中だもんね」
前回は、突然の拍手で千紘を驚かせてしまった。
今回こそは、静かに聴いていよう。
美緒は小さく笑い、歌声の聞こえる方へ歩き始めた。
◇
千紘がいたのは、前回とは少し離れた場所だった。
木陰に置かれたベンチに腰を下ろし、膝の上にアコースティックギターを抱えている。
傍らには通学鞄と黒いギターケース。
ベンチの空いたところには、歌詞を書き込んだノートが広げられていた。
千紘は、まだ美緒に気づいていない。
目を伏せ、ギターの弦を弾きながら歌っている。
美緒は少し離れた場所で足を止めた。
声をかけたい気持ちを抑え、静かに耳を傾ける。
「……あれ?」
しばらく聴いているうちに、美緒は首を傾げた。
聞き覚えのあるメロディーだった。
以前、公園で聴いた曲だ。
けれど、何かが違う。
同じ歌のはずなのに、前より少しだけ印象が変わっていた。
サビに入る直前、ギターの音が柔らかくなり、そこから歌声が伸びていく。
以前は少し勢いよく聞こえた部分が、今は滑らかにつながっていた。
そのおかげか、サビの歌声が前よりも心地よく耳に残る。
美緒は音楽に詳しいわけではない。
どんなコードを使っているのかも分からないし、楽譜を見せられても、きっと難しいことは理解できないだろう。
それでも、違いは感じられた。
「……へえ」
小さく呟く。
千紘は、あの日からも曲を作り続けているのだ。
何度も考えて、書き直して、練習して。
少しずつ、自分の歌を磨いている。
何となく歌っているだけではない。
この一曲を、少しでも自分の思い描くものに近づけようとしている。
そのことが伝わってきて、美緒はますます嬉しくなった。
木々を揺らす風に、ギターの音が混じる。
遠くでは子供たちの声がしていたが、千紘の歌は途切れない。
歌っているときの千紘は、やはり少し違って見えた。
普段は恥ずかしそうに俯いてばかりなのに、今は自分の作った音を確かめるように、一つ一つの言葉を丁寧に歌っている。
大きな声ではない。
けれど、その歌には、確かに千紘自身の気持ちが込められているようだった。
やがて最後の一節を歌い終えると、千紘の右手が静かに弦を弾いた。
ぽろろん……。
最後の音が、ゆっくりと空気に溶けていく。
千紘は、ほっとしたように息を吐いた。
「……うん。今度は、いいかも」
ノートへ手を伸ばしかけたところで、美緒が声をかけた。
「千紘さーん!」
「ひゃっ!?」
千紘が、びくりと肩を跳ねさせた。
反射的にギターの弦へ指が触れる。
びよん。
せっかくの余韻が、何とも間の抜けた音で締めくくられてしまった。
「あっ、ごめん!」
美緒が慌てる。
「今度はちゃんと歌い終わるまで待ったんだけど!」
千紘は目を丸くしたまま、美緒を見つめた。
「……あ」
やがて、見覚えのある顔だと気づいたらしい。
「……美緒、さん?」
「うん! こんにちは!」
美緒が笑顔で手を振る。
千紘は慌ててギターを抱え直した。
「……こ、こんにちは」
頬を赤くしながら、小さく頭を下げる。
しかし、その口元には笑みが浮かんでいた。
「今日も練習してたんだね」
「……はい。少しだけ……」
「さっきの歌、前に聴いた曲だよね?」
「……え?」
千紘が顔を上げた。
「……覚えててくれたんですか?」
「もちろん!」
美緒は大きく頷いた。
「だって、すっごくいい曲だったもん!」
「……あ……」
千紘は、恥ずかしそうに視線を落とした。
「……ありがとうございます」
「それに、前とちょっと違わなかった?」
「……えっ!?」
今度こそ、千紘が驚いた顔になった。
「……分かりますか?」
「うん! 何か、サビに入るところが違う気がしたんだけど……」
千紘は、思わずノートへ目を落とした。
そして、嬉しそうに頷く。
「……はい。そこ、少し変えたんです」
「やっぱり!」
「前に歌ったあと、もう少し違う感じにしたくなって……」
千紘はノートを開き、書き込みのある部分を指さした。
「前は、ここから急にサビに入っちゃってたので……もう少し、自然につながるようにしたくて」
「うんうん!」
「それで、歌詞を少し変えて、コードも……」
そこまで説明してから、はっと口を閉じた。
「……あっ。ご、ごめんなさい」
「え?」
「……こんな話、分からないですよね……」
千紘は慌ててノートを閉じようとした。
しかし、美緒は首を振った。
「そんなことないよ!」
「……え?」
「細かいことは分からないけど、前と違うって思ったもん!」
美緒は笑った。
「それに、そうやって曲を作ってる話、聞くのも面白いし!」
「…………」
千紘は、しばらく美緒を見つめていた。
自分が何度も考えて直したところに、気づいてもらえた。
それだけでも嬉しいのに。
曲作りの話まで、面白いと言ってくれる。
昨日まで誰にも気づかれなかった小さな工夫が、誰かに届いていた。
そう思うと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「……ありがとうございます」
千紘は、そっと微笑んだ。
「どういたしまして!」
美緒も嬉しそうに笑った。
◇
「そうだ、千紘さん!」
しばらく音楽の話をしたあと、美緒が思い出したように声を上げた。
「……はい?」
「実はね、今日は千紘さんに話があって来たんだ!」
「……私に、ですか?」
千紘は不思議そうに首を傾げた。
「うん!」
美緒は少し得意げに胸を張った。
「私、アルバイトしてるお店があるんだけどね」
「……お店?」
「そう! ゴンさんっていう人と、その奥さんがやってるお店なの」
千紘は小さく頷いた。
「……はい」
「それでね、この前、千紘さんの話をしたんだ!」
「……え?」
「公園ですっごく歌の上手な女の子に会ったんですよーって!」
「…………えっ?」
千紘の頬が、みるみる赤くなった。
「……わ、私のこと……?」
「うん!」
「……そんな……」
千紘は慌てて俯いた。
自分の知らないところで、誰かが自分の歌について話していた。
しかも、ほとんど初対面だった美緒が、わざわざほかの人に話してくれたという。
それだけで、何とも言えない恥ずかしさが込み上げてくる。
「……あ、あの……」
「うん?」
「……何か、変なこと言ってませんでした……?」
「変なこと?」
「……その……歌があんまり上手じゃなかったとか……」
美緒は、きょとんとした。
そして、すぐに笑った。
「言うわけないじゃん!」
「……え?」
「すっごくいい歌だったって話したんだよ!」
美緒は楽しそうに続けた。
「自分で歌詞も曲も作ってるんだって言ったら、奥さんもすごいねって!」
「…………」
「それに、咲子っていう友達も、千紘さんの歌を聴いてみたいって言ってたんだ!」
「……私の歌を……?」
「うん!」
千紘は、ますます恥ずかしくなった。
まだ会ったこともない人が、自分の歌に興味を持ってくれている。
そんなこと、今までほとんどなかった。
「……あ、ありがとうございます……」
思わず頭を下げる。
美緒は、そんな千紘を見てにこにこと笑った。
「それでね!」
いよいよ、本題である。
「奥さんが、こんなこと言ってくれたの!」
「……?」
「そんなにいい歌を歌う子なら、うちでも一曲歌ってもらっていいんじゃないかって!」
「…………」
千紘は、しばらく動かなかった。
美緒は笑顔で続ける。
「もちろん、お客さんの邪魔にならないようにしないといけないし、ゴンさんともちゃんと相談しなきゃだけどね!」
「…………」
「でも、千紘さんが歌ってみたいなら、そういう機会を作れるかもしれないって!」
「……えっ」
ようやく、千紘が声を出した。
「……え、えっと……」
「うん?」
「……お、お店で……ですか?」
「そう!」
「……私が……?」
「うん!」
「……歌う……?」
「そういうこと!」
千紘の顔が、真っ赤になった。
「む、無理です!」
思わず、大きな声が出た。
普段の千紘からは考えられないほど、はっきりした返事だった。
美緒が目を瞬かせる。
千紘自身も、自分の声の大きさに驚いたらしい。
「あっ! ご、ごめんなさい!」
慌てて首を振る。
「せっかく、そんなふうに言ってもらったのに……!」
「ううん、いいよ!」
「……で、でも……」
千紘はギターをぎゅっと抱え直した。
「……知らない人たちの前で歌うなんて……」
考えただけで、心臓が速くなる。
お店にいる人たちが、こちらを見る。
自分がギターを構える。
みんなが演奏を待っている。
そこで、最初の音を鳴らす。
もし間違えたら。
もし声が出なかったら。
途中で歌詞を忘れてしまったら。
そもそも、お客さんに気に入ってもらえなかったら。
次から次へと、不安が浮かんでくる。
公園では、誰もいないと思って歌っていた。
だから、自分の歌だけに集中できた。
けれど、最初から人に聴いてもらうと分かっている場所では、きっとそうはいかない。
「……私、そういうの……本当に苦手で……」
千紘は、小さな声で言った。
美緒は、そんな千紘の様子を見つめていた。
歌っているときの千紘は、あんなに楽しそうなのに。
誰かの前で歌うことになると、途端に怖くなってしまう。
それが千紘なのだろう。
美緒は、少しだけ表情を和らげた。
「……そっか」
「……はい」
「ごめんね、千紘さん。急にこんな話して」
「……い、いえ……!」
千紘は慌てて首を振った。
「……そういう意味じゃ……」
嫌だったわけではない。
むしろ、自分の歌を聴きたいと思ってもらえたことは嬉しかった。
それなのに、最初に口から出たのは「無理です」という言葉だった。
千紘は、そんな自分が少し情けなくなった。
「……せっかくなのに、ごめんなさい……」
美緒は首を振った。
「謝らなくていいよ!」
「……でも……」
「千紘さんが歌うの、怖いって思うなら、今すぐ決めなくてもいいんだから!」
明るく言われ、千紘は少しだけ顔を上げた。
「……いいんですか?」
「もちろん!」
美緒は笑った。
「だって、千紘さんの歌だもん」
「…………」
「どうするかは、千紘さんが決めればいいんだよ」
その言葉に、千紘は何も答えられなかった。
ただ、胸の奥で固くなっていたものが、ほんの少し緩んだ気がした。
◇
「……ねえ、千紘さん」
美緒が、改めて話しかけた。
「……はい?」
「私ね、千紘さんの歌、本当に好きなんだ」
「……あ……」
「だから、もっといろんな人に聴いてもらえたらいいなって思ったの」
千紘は、ゆっくり顔を上げた。
美緒は、いつものように明るく笑っていた。
けれど、今度は少しだけ落ち着いた声だった。
「でも、無理に歌ってほしいわけじゃないよ」
「…………」
「千紘さんが歌ってみたいって思ったときに、そういう場所もあるって知ってもらえたらいいなって」
千紘は、黙って美緒の話を聞いていた。
知らない人の前で歌うのは怖い。
けれど、自分の歌に興味を持ってくれる人がいるのは嬉しい。
その二つの気持ちが、胸の中でぶつかっていた。
「……ありがとうございます」
千紘は、小さく答えた。
「うん!」
美緒は頷いた。
そして、ふと思いついたように声を上げる。
「あっ、そうだ!」
「ひゃっ!?」
千紘が、また肩を跳ねさせた。
「あ、ごめん!」
美緒は苦笑した。
「だったらさ、まずはお店を見に来るだけでもいいんじゃない?」
「……え?」
「歌うかどうかは置いといて、どんなお店か見に来るだけ!」
千紘は、きょとんとした。
「……見るだけ、ですか?」
「そう!」
美緒は楽しそうに続ける。
「知らないお店でいきなり歌えって言われても、緊張するに決まってるもんね」
「……はい」
「だから、まずは遊びに来るくらいの気持ちでどうかな?」
「……遊びに……」
千紘は、少し考えた。
知らないお店へ行く。
それだけでも、少し緊張する。
けれど、いきなり人前で歌うわけではない。
ただ、美緒が働いているお店を見に行くだけ。
それなら、自分にもできるかもしれない。
「……あの」
「うん?」
「……お店を、見に行くだけなら……」
美緒が顔を上げた。
「えっ!?」
「……ちょっと、興味はあります」
「ほんと!?」
「……は、はい」
千紘は恥ずかしそうに頷いた。
「でも……歌うかどうかは、まだ……」
「もちろん!」
美緒は大きく頷いた。
「それはあとで考えればいいよ!」
「……はい」
千紘は、ほっと息を吐いた。
自分の返事で、何かが決まってしまうのではないかと思っていた。
けれど、美緒は急かさなかった。
歌うと約束しなくても、笑顔で喜んでくれた。
そのことが、千紘にはありがたかった。
「……あの、美緒さん」
「うん?」
「……そんなふうに言ってもらえて、嬉しいです」
美緒は少し目を丸くした。
千紘は、ギターを見つめながら続けた。
「……私の歌を、聴いてみたいって……」
そこで、少し言葉に詰まる。
普段なら、そのまま俯いて終わっていたかもしれない。
けれど、今日は違った。
千紘はゆっくり顔を上げた。
「……ありがとうございます」
美緒も、嬉しそうに笑った。
「どういたしまして!」
その笑顔を見て、千紘も小さく微笑んだ。
言いたかったことを、ちゃんと伝えられた。
ほんの短い言葉だったけれど、千紘にとっては小さな勇気が必要だった。
◇
「あっ!」
美緒が突然声を上げた。
「ひゃっ!?」
千紘が、また肩を跳ねさせる。
「あ、ごめん!」
美緒は苦笑した。
「そうだ! 今度こそ連絡先交換しよう!」
「……今度こそ?」
「うん!」
美緒はスマートフォンを取り出した。
「実はね、この前、千紘さんの連絡先を聞くの忘れちゃってたんだ!」
「……あ」
千紘は、少し目を丸くした。
それから、くすっと笑った。
「……そういえば、そうですね」
「でしょ!? 私、歌の話に夢中になっちゃって!」
美緒は照れくさそうに笑う。
「それで、ゴンさんにも呆れられちゃった!」
「……ふふっ」
千紘は、また笑った。
美緒と話していると、不思議と緊張がほぐれてくる。
明るくて、少しおしゃべりで、思ったことをすぐ口にする。
千紘とは、ずいぶん違う性格だった。
でも、その明るさが心地よかった。
「……はい」
千紘もスマートフォンを取り出した。
「……よろしくお願いします」
「こちらこそ!」
二人は連絡先を交換した。
美緒は、登録された千紘の名前を確認して満足そうに頷く。
「よし! 今度は忘れなかった!」
「……ふふっ」
千紘も、小さく笑った。
「じゃあ、お店のことはまた連絡するね!」
「……はい」
「もちろん、無理のないときでいいからね!」
「……ありがとうございます」
千紘はスマートフォンを鞄へしまった。
今度は、いつでも美緒と連絡が取れる。
それだけのことなのに、何だか少し嬉しかった。
ふと時計を見ると、そろそろ帰らなければならない時間だった。
「あ……」
「どうしたの?」
「……そろそろ、帰らないと……」
「そっか!」
美緒は頷いた。
「じゃあ、今日はこのくらいにしよっか」
「……はい」
千紘はギターをケースへしまい始めた。
美緒は、その様子を見ながら言った。
「また歌、聴かせてね!」
「……うん」
千紘は、小さく頷いた。
そして、少し恥ずかしそうに付け加える。
「……今度は、最初から聴いてもらえるように……」
「ほんと!?」
「……あ、でも、まだ練習中なので……」
「いいよいいよ!」
美緒は笑った。
「完成するまで、何回でも聴きたい!」
「……ふふっ」
千紘は、嬉しそうに微笑んだ。
ギターケースを肩に掛け、二人は公園の出口へ向かう。
途中、美緒は何度か店の場所を説明しかけたが、詳しいことはメッセージで送ることにした。
千紘が本当に行ってみたいと思ったとき、迷わず来られるように。
それで十分だった。
◇
その日の夕方。
千紘が帰宅すると、母親が声をかけてきた。
「おかえり、千紘」
「……ただいま」
千紘は靴を脱ぎ、肩に掛けたギターケースを持ち直した。
母親は、壁の時計へ目を向ける。
「今日は少し遅かったのね」
「……うん」
「何をしていたの?」
「……公園で、ギターの練習を……」
千紘が答えると、母親は小さく頷いた。
「そう」
それから、少し心配そうな顔になる。
「練習するのはいいけど、帰りが遅くなるときは連絡してね」
「……うん。ごめんなさい」
「心配するでしょう。暗くなってから帰ってくるのも危ないんだから」
「……はい」
母親の言葉は、もっともだった。
千紘も、帰宅時間には気をつけなければと思っている。
ただ、今日は美緒と話しているうちに、思ったより時間が過ぎてしまったのだ。
「それから、学校の勉強は大丈夫?」
「……うん。ちゃんとやってるよ」
「課題は?」
「……今日の分は、帰ってからやる」
「そう」
母親は、千紘が肩に掛けているギターケースを見た。
「音楽が好きなのは分かるわ。でも、将来のこともちゃんと考えないといけないのよ」
「……うん」
千紘は、小さく頷いた。
母親は続ける。
「歌が上手な人なんて、世の中にたくさんいるんだから。好きだからって、それだけで仕事にできるわけじゃないでしょう?」
「…………」
「仮に歌手になれたとしても、それでずっと生活していけるとは限らないのよ」
母親は、少し言葉を選ぶように間を置いた。
「せっかく今まで勉強も頑張ってきたんだから、将来の選択肢を狭めるようなことはしてほしくないの」
その声は、決して怒っているわけではなかった。
むしろ、心配しているのだということは、千紘にも分かる。
実際、母親の言葉が間違っているとは思わなかった。
歌が上手な人は、いくらでもいる。
プロになれる保証なんてない。
仮にデビューできたとしても、それでずっと生活できるとは限らない。
そんなことは、千紘だって分かっている。
だからこそ、簡単に「絶対に歌手になる」と言い切れないのだ。
でも。
だからといって、歌うことまで諦めたくはなかった。
「……分かってるよ」
千紘は、小さく答えた。
「本当に?」
「……うん」
母親は、しばらく千紘を見つめていた。
それから、少し表情を和らげる。
「……まあ、いいわ。先に着替えてきなさい。もうすぐ夕飯だから」
「……うん」
千紘はギターケースを抱え直した。
そして、自分の部屋へ向かう。
階段を上がりながら、今日の美緒との会話を思い出した。
『うちでも一曲歌ってもらっていいんじゃないかって!』
『まずはお店を見に来るだけでもいいんじゃない?』
あのときは、嬉しかった。
怖いけれど、少しだけ興味も湧いた。
でも。
お母さんに、そのことを話したらどうなるだろう。
お店で歌うかもしれない。
そんな話をしたら、きっとまた心配される。
文化祭のことだって、まだ言い出せていないのに。
「……はあ」
千紘は、小さく息を吐いた。
部屋の扉を開け、ギターケースをいつもの場所へ置く。
机の上には、歌詞を書いたノートがあった。
その隣には、学校の教科書と問題集。
千紘は、しばらく二つを見つめていた。
どちらも、自分にとって大切なものだった。
勉強をしたくないわけではない。
将来のことを、何も考えていないわけでもない。
ただ、歌うことも大切にしたい。
それだけの気持ちを、どうしてうまく伝えられないのだろう。
「……難しいな」
誰にも聞こえない声で、千紘は呟いた。
◇
夕食を終え、自分の部屋へ戻った千紘は、机に向かっていた。
宿題を済ませ、教科書を片づける。
それから、スマートフォンを手に取った。
画面には、新しく登録された連絡先があった。
『美緒さん』
千紘は、その名前を見つめた。
少し前まで、まったく知らなかった人。
公園で偶然出会い、自分の歌を聴いてくれた人。
そして今日、新しい話を持ってきてくれた人。
「……お店、かあ」
千紘は、小さく呟いた。
知らない人たちの前で歌う。
考えるだけで緊張する。
もし本当に歌うことになったら、きっと何日も前から落ち着かなくなるだろう。
それでも。
もし歌うことができたら。
自分の歌を、また誰かに聴いてもらえるかもしれない。
その想像に、胸が少しだけ高鳴った。
すると、スマートフォンが鳴った。
美緒からのメッセージだった。
『今日は会えて嬉しかったよ! お店のことは急がなくていいからね。また歌を聴かせてね!』
千紘は、思わず微笑んだ。
「……ふふっ」
短い文章を、もう一度読む。
そして、少し考えてから返事を打った。
『こちらこそ、ありがとうございました。お店のこと、少し考えてみます』
送信。
少しして、すぐに返事が届いた。
『うん! いつでもいいよ!』
千紘は、ほっと息を吐いた。
急がなくてもいい。
無理に決めなくてもいい。
そう言ってもらえるだけで、気持ちが少し軽くなる。
そのとき、別のメッセージが届いた。
学校の友人からだった。
『千紘、文化祭のこと、まだ考えてる?』
「…………」
千紘は、画面を見つめた。
文化祭。
ゴンさんのお店。
二つの場所。
二つの選択肢。
どちらも、誰かに自分の歌を聴いてもらえるかもしれない場所だった。
けれど、どちらも今の千紘には、少し怖い。
「……私、本当に歌えるのかな……」
小さく呟く。
千紘は、机の上のノートへ目を向けた。
そこには、自分で作った歌がある。
誰かに言われたから作ったわけではない。
誰かに褒めてもらいたくて始めたわけでもない。
ただ、歌うことが好きだった。
ギターを弾くことが好きだった。
自分の気持ちを、言葉と音にすることが好きだった。
それだけだったはずなのに。
今は、少し違う。
誰かに聴いてほしい。
自分の歌が、誰かの心に届いたら嬉しい。
そんな気持ちが、少しずつ大きくなっていた。
千紘は、ノートをそっと開いた。
そこには、何度も消しては書き直した歌詞が並んでいる。
今日、美緒が気づいてくれた部分もあった。
『前とちょっと違わなかった?』
その言葉が、ふと蘇る。
自分が一生懸命考えた小さな違い。
それを、ちゃんと聴いてくれた人がいる。
千紘はノートを見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
「……まずは、見に行くだけ……」
小さな声で呟く。
それなら、自分にもできるかもしれない。
歌うかどうかは、そのあとで考えればいい。
文化祭のことも、まだ決められない。
お母さんにどう話せばいいのかも、分からない。
けれど、何も決められないからといって、何もしないままでいる必要はないのかもしれない。
千紘は、スマートフォンをもう一度手に取った。
美緒の名前が、画面に表示されている。
しばらく見つめてから、小さく微笑んだ。
「……ちょっとだけ、頑張ってみようかな」
それは、まだ誰にも聞こえないほど小さな声だった。
ステージに立つ決心がついたわけではない。
歌手になれる自信が生まれたわけでもない。
ただ、知らない場所へ行ってみようと思えた。
自分の歌を聴いてくれた人が働いている、あのお店へ。
その小さな一歩を、千紘は自分で選ぼうとしていた。
机の上には、書きかけの歌詞がある。
窓の外では、静かな夜の街に明かりがともっていた。
千紘はノートを閉じ、明日の準備を始めた。
その表情には、まだ不安が残っている。
けれど、今日、公園へ向かったときにはなかった小さな期待も浮かんでいた。
――つづく。
本作品を含む、凛監修×生成AI合作作品は、同じ世界観の中でつながるシリーズ作品です。
それぞれ単独でもお楽しみいただけますが、同じ出来事が別作品では異なる視点から描かれたり、一方で起きた出来事が、もう一方の物語へつながったりすることがあります。
一つの作品だけでも楽しめる。
けれど、複数の作品を読むことで、初めて見えてくるものもある。
ぜひ、それぞれの物語をあわせてお楽しみください。
【人間×生成AIによる合作作品】
企画・原案・設定・ストーリー構成:時根脱才
文章制作・構成補助:ChatGPT(OpenAI)
本作品の世界観、キャラクター、各エピソードの原案・展開は作者が制作し、それをもとにAIと相談・推敲を重ねながら、小説として文章化しています。
本作品は「小説家になろう」「カクヨム」の両サイトに掲載しています。




