第2話「歌を聴かせたい人」
第2話「歌を聴かせたい人」
翌日の放課後。
千紘は、自分の席で一冊のノートを広げていた。
教室では、帰り支度をする生徒たちの声が飛び交っている。部活動へ向かう生徒が友人を呼び、廊下からは慌ただしい足音が聞こえてきた。
そんな賑やかな教室の片隅で、千紘だけは机に向かったまま、鉛筆を動かしていた。
「……うーん」
ノートに並んでいるのは、授業の内容ではない。
何度も消しては書き直した歌詞と、アコースティックギターのコードだった。
昨日、公園で歌った自作曲。
途中で変更した部分が、どうしても気になっていたのだ。
あのときは、これでいいと思った。
けれど、一晩たって読み返してみると、もう少し違う言葉の方が、メロディーに合っているような気がする。
千紘は鉛筆を止め、書いたばかりの一行を見つめた。
「……やっぱり、違うかな」
消しゴムに手を伸ばす。
しかし、せっかく考えた言葉を消してしまうのも惜しい。
しばらく迷ってから、その横に小さく別の言葉を書き添えた。
頭の中で、昨日弾いたギターの音を思い浮かべる。
ぽろん、ぽろろん。
実際には音を鳴らしていないのに、指の動きまで思い出せる。
こうして曲のことを考えている時間は、千紘にとって何より楽しかった。
そのときだった。
「千紘!」
「ひゃっ!?」
突然名前を呼ばれ、千紘はびくりと肩を跳ねさせた。
鉛筆が指先から転がり、机の端で止まる。
「もう、そんなに驚かなくてもいいじゃん!」
顔を上げると、同じクラスの友人が笑っていた。
「ご、ごめん……」
千紘は反射的にノートを閉じる。
友人は、その動きを見逃さなかった。
「また曲、作ってたの?」
「……うん。ちょっとだけ」
「ほんと、好きだよねえ」
「……うん」
千紘は、恥ずかしそうに頷いた。
歌詞を書き、メロディーを考え、ギターで音を確かめる。
頭の中にしかなかったものが、少しずつ一つの曲になっていく。その過程が、たまらなく好きだった。
もちろん、うまくいかないことも多い。
何度書き直しても納得できなかったり、思いついたメロディーをギターで弾こうとして、指が追いつかなかったり。
それでも、嫌になったことはほとんどない。
ただ、その楽しさを誰かに説明するとなると、話は別だった。
千紘は昔から、人前で自分の気持ちを話すのが得意ではない。
頭の中にはたくさんの言葉があるのに、いざ誰かと向き合うと、うまく出てこなくなる。
だから、いつも同じ答えになってしまう。
「……好きだから」
友人は、そんな千紘の性格をよく知っていた。
「ふふっ。知ってるよ」
笑いながら答え、千紘の前の席に腰を下ろす。
「そうだ、千紘。文化祭のステージのこと、考えてくれた?」
「……あ」
千紘の手が止まった。
昨日、帰り道にもメッセージで尋ねられたことだった。
学校の文化祭では、希望者が歌や演奏などを披露するステージが予定されている。
友人は以前から、千紘も出演してみればいいと勧めてくれていた。
けれど、千紘はまだ返事ができずにいる。
「……えっと、その……」
「まだ迷ってる?」
「……うん」
千紘は俯いた。
「やっぱり、人前で歌うのは……ちょっと……」
「でも、千紘、歌うの好きでしょ?」
「……好き、だけど」
「それに、自分で曲まで作ってるじゃん。せっかくなんだから、みんなにも聴いてもらったらいいのに」
「……そんな……」
千紘は、閉じたノートを胸元へ引き寄せた。
文化祭。
大勢の生徒や保護者が集まる場所。
その前に立って、自分の歌を披露する。
想像しただけで、心臓が速くなる。
もし歌詞を忘れたら。
ギターを間違えたら。
緊張して声が出なくなったら。
しかも、そこで歌うのは有名な歌手の曲ではなく、自分で作った歌だ。
演奏を間違えるだけなら、練習不足だと笑って済ませられるかもしれない。
けれど、自分の歌そのものを笑われたら。
そう考えると、胸の奥がぎゅっと縮こまってしまう。
「……私、そんなに上手じゃないし」
ぽつりと呟くと、友人は少し呆れたように笑った。
「またそれ?」
「……だって」
「千紘、自分に厳しすぎるんだよ」
「……そう、かな」
「そうだって!」
友人は、千紘が抱えているノートを指さした。
「それだって、何回も書き直してるんでしょ?」
「……うん」
「練習もいっぱいしてるじゃん。ちゃんと頑張ってるの、私知ってるよ」
千紘は、そっとノートへ視線を落とした。
頑張っている。
それだけは、自分でも否定したくなかった。
けれど、努力したからといって、必ず誰かに喜んでもらえるとは限らない。
自分ではいいと思っている曲も、ほかの人にはつまらなく聞こえるかもしれない。
そう考えると、どうしても踏み出せなかった。
そのとき、千紘の頭に昨日の光景が浮かんだ。
夕方の公園。
木々に囲まれたベンチ。
アコースティックギターを抱えて、一人で練習していたときのこと。
誰もいないと思っていたのに、歌い終わった途端、拍手が聞こえてきた。
驚いて顔を上げると、三人が笑顔でこちらを見ていた。
『すごくよかった!』
『また聴きたい!』
『頑張ってね!』
あの言葉が、まだ耳に残っている。
「……あのね」
千紘は、小さく口を開いた。
「ん?」
「……昨日、ちょっと……嬉しいことがあって」
「嬉しいこと?」
「……うん」
千紘は少しためらってから、ゆっくり話し始めた。
「公園で、ギターの練習をしてたんだけど……知らない人たちが、歌を聴いてくれてたの」
「えっ、そうなの!?」
友人が目を丸くした。
「……うん。私、全然気づかなくて……」
「それで? どうだった?」
「……歌い終わったら、拍手してくれて……」
「えーっ! すごいじゃん!」
「……う、うん」
千紘の頬が赤くなる。
「すごくびっくりしたんだけど……いい歌だったって、言ってくれて……」
「ほら! やっぱり!」
友人は、自分のことのように嬉しそうだった。
「千紘の歌、いいって思う人、ちゃんといるんだよ!」
「……うん」
「それで、それで?」
「……また、聴きたいって」
その言葉を口にした瞬間、千紘の胸が温かくなった。
「……言ってくれたの」
思い出すと、今でも恥ずかしい。
知らない人に歌を聴かれていたなんて、考えただけで顔が熱くなる。
けれど、それ以上に嬉しかった。
自分が一生懸命作った歌を、誰かが好きだと言ってくれた。
しかも、もう一度聴きたいと。
「よかったじゃん、千紘!」
「……うん」
千紘も、小さく笑った。
すると、友人が勢いよく身を乗り出した。
「じゃあ、文化祭も出ようよ!」
「えっ!?」
千紘は、また肩を跳ねさせた。
「そ、それは……!」
「もう、そこはやっぱり別なの?」
「……うん」
千紘は困ったように笑った。
「公園では、誰もいないと思って歌ってたから……」
知らないうちに聴かれていたことと、最初から大勢に聴かれると分かっていること。
その違いは、千紘にとってとても大きかった。
友人も、それは理解してくれたらしい。
「そっか。まあ、いきなり大きなステージは緊張するよね」
「……うん」
「でも、無理に決めなくてもいいよ。まだ考える時間はあるんだから」
その言葉に、千紘はほっと息を吐いた。
「……ありがとう」
「ただし!」
「……え?」
「出ることにしたら、私、絶対応援するからね!」
「……ふふっ」
千紘は、ようやく自然に笑えた。
「……うん。ありがとう」
閉じたノートに、そっと手を置く。
文化祭に出る勇気は、まだない。
けれど、昨日までの自分とは、少しだけ気持ちが違っていた。
怖い。
でも、歌いたい。
その二つが、今は同じくらい強くなっている気がした。
◇
同じ日の夕方。
ゴンさんの店では、いつものように忙しい時間が続いていた。
「ありがとうございましたー!」
美緒が笑顔で客を見送る。
扉が閉まると、彼女は小さく息を吐いた。
「ふうっ。今日は忙しいですねえ」
「そうだね。でも、少し落ち着いてきたかな」
隣では咲子が、空いたテーブルの食器を手際よく片づけていた。
美緒も皿をまとめ、厨房へ運んでいく。
店には、まだ何人かの常連客が残っていた。
料理を楽しんでいる客もいれば、ゴンさんと世間話をしている客もいる。
棚には、ゴンさんが大切にしている特撮ヒーローのフィギュアが並び、いつもの賑やかな雰囲気を作っていた。
美緒と咲子がアルバイトに入るようになってから、二人の接客を楽しみにしている客も増えている。
もっとも、店の主人であるゴンさんは、相変わらず二人に容赦がない。
「美緒、そこのテーブルも頼むぞ!」
「はーい!」
「咲子、手が空いたらこっちも手伝ってくれ!」
「はい!」
二人が元気よく返事をする。
その様子を、カウンターの奥から奥さんが微笑ましそうに見ていた。
「二人とも、いつもありがとうね」
「いえいえ!」
美緒は笑顔で答えた。
「私、ここで働くの好きですから!」
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない」
奥さんも笑う。
すると、美緒はふと思い出したように声を上げた。
「あっ、そうだ!」
「どうしたの?」
「奥さん、聞いてくださいよ!」
美緒の顔がぱっと明るくなった。
「この前、すっごく歌の上手な女の子に会ったんです!」
「へえ、そうなの?」
「はい! 公園でアコースティックギターを弾きながら歌ってたんですけど、もう、すっごくいい歌で!」
美緒は、あの日の光景を思い出しながら話し始めた。
「最初は、誰かが歌ってるなあって思っただけだったんです。でも、聴いてたらどんどん引き込まれちゃって!」
「まあ」
「しかも、その歌、全部その子が自分で作ったんですよ!」
「えっ、自分で?」
奥さんが目を丸くする。
「作詞も作曲も?」
「そうなんです!」
美緒は嬉しそうに頷いた。
「それでね、歌い終わったとき、思わず拍手しちゃったんです!」
「ふふっ。美緒ちゃんらしいわね」
「だって、本当によかったんですもん!」
奥さんは笑いながら、美緒が運んできた食器を受け取った。
その横では、咲子も興味深そうに耳を傾けている。
「へえ。美緒がそこまで褒めるなんて、よっぽどよかったんだね」
「そうなの!」
美緒は勢いよく頷いた。
「帰り道でも、ついその子の歌を口ずさんじゃって!」
「そんなに印象に残ったんだ」
「うん! 今でも、メロディーが頭に残ってるくらい!」
咲子は少し笑った。
「じゃあ、私も一回聴いてみたいな」
「でしょ!?」
美緒はますます嬉しそうになった。
「千紘さんっていうんだけどね、シンガーソングライターになりたいんだって!」
「まあ、素敵な夢ね」
奥さんが微笑んだ。
「それにしても、自分で歌を作れるなんて、すごいじゃない」
「そうなんですよ!」
美緒は、千紘が恥ずかしそうに夢を語っていた姿を思い出した。
「でもね、その子、すっごくおとなしいんです」
「あら、そうなの?」
「はい。歌ってるときは、何かすごく楽しそうだったんですけど……」
美緒は思わず笑った。
「私たちが拍手したら、もうびっくりしちゃって! 顔が真っ赤になっちゃったんですよ!」
「ふふっ。可愛い子ね」
「そうなんです! もう、すっごく可愛くて!」
美緒は楽しそうに続ける。
「歌を褒めても『そんなことないです』って、恥ずかしそうに俯いちゃうし。でも、ギターとか歌の話になると、ちょっとだけ表情が変わるんです」
「へえ」
「何ていうのかな。普段は自分のことを話すのが苦手みたいなんですけど、歌ってるときは……」
美緒は、言葉を探すように少し考えた。
公園で見た千紘の姿が、頭に浮かぶ。
木々に囲まれたベンチ。
アコースティックギターを抱え、目を伏せながら歌っていた少女。
話しかけたときは、あんなに恥ずかしがっていたのに。
歌っているときだけは、自分の世界を持っているように見えた。
「……そうだ!」
美緒は顔を上げた。
「歌ってるときだけ、自分の気持ちを全部出せるって感じだったんです!」
奥さんは、その言葉を聞いて静かに頷いた。
「そう」
「だから、もっといろんな人に聴いてもらえたらいいのになあって」
美緒は、少し照れたように笑った。
「私が言うのも何ですけどね」
「そんなことないわよ」
奥さんは優しく答えた。
「誰かの歌を聴いて、そんなふうに思えるのは素敵なことじゃない」
「……えへへ」
美緒は嬉しそうに笑った。
もちろん、千紘の歌を聴いた人が全員気に入るとは限らない。
音楽には好みがあるし、世の中には歌の上手な人がいくらでもいる。
それでも、少なくとも美緒は、あの歌が好きだった。
則人も悟も、また聴きたいと言っていた。
咲子だって、話を聞いただけで興味を持ってくれた。
そのことが、何だか嬉しかった。
奥さんは、少し考えるように首を傾げた。
そして。
「……それならさ」
「はい?」
「その子、うちで歌ってもらってもいいんじゃない?」
「…………え?」
美緒が固まった。
咲子も、少し驚いた顔をする。
「ここで、ですか?」
「そう」
奥さんは笑顔で頷いた。
「もちろん、お客さんの迷惑にならないように考えないといけないけどね」
美緒は、ようやく言葉の意味を理解した。
「えええっ!? いいんですか!?」
思わず大きな声が出た。
近くの常連客が、何事かとこちらを見る。
「あっ、ご、ごめんなさい!」
美緒は慌てて頭を下げた。
すると、カウンターの向こうから低い声が飛んできた。
「おいおい!」
ゴンさんだった。
「何を勝手に話進めてるんだ!」
「あら、あなた」
奥さんが振り返る。
「ちょっとした提案よ」
「提案ってなあ。うちはライブハウスじゃないんだぞ?」
「分かってるわよ」
奥さんは落ち着いた様子で答えた。
「別に、大きなイベントを開こうって話じゃないの」
「じゃあ何だ?」
「お客さんの少ない時間とか、都合のいいときに、一曲くらい歌ってもらってもいいんじゃないかと思って」
「……一曲?」
「そう。ギター一本で歌う子なんでしょう?」
奥さんは美緒へ目を向けた。
「はい! マイクとかも使ってなかったです!」
「だったら、特別な設備を用意する必要もないでしょうし」
「うーん……」
ゴンさんは腕を組んだ。
もちろん、店の営業が第一である。
食事や会話を楽しみに来る客もいるし、落ち着いて過ごしたい客だっている。
いくら歌が上手でも、店の都合も考えずに演奏を始めてもらうわけにはいかない。
「……まあ、客に迷惑をかけないっていうのが大前提だな」
「ええ、それはもちろん」
「それに、本人が歌いたいかどうかも分からんだろ」
「そうね」
奥さんは素直に頷いた。
「だから、まずは聞いてみたらいいんじゃない?」
「……聞いてみる?」
美緒が繰り返した。
「そう。もし、その子が歌ってみたいって思うなら、そういう場所があってもいいでしょう?」
奥さんは微笑んだ。
「せっかく自分で作った歌なんですもの。誰かに聴いてもらえる機会があったっていいじゃない」
「…………」
美緒は、少しの間、黙っていた。
そして。
「……いいですね、それ!」
ぱっと顔を輝かせた。
「千紘さん、きっと喜びますよ!」
「おいおい、まだ決まったわけじゃないぞ!」
ゴンさんが慌てて釘を刺す。
「分かってますって!」
「本当か?」
「本当です!」
美緒は笑った。
「じゃあ、今度会ったら聞いてみます!」
咲子も頷く。
「いいと思う。千紘さんがやってみたいって言うなら、私も聴いてみたいし」
「でしょ!?」
美緒は、すっかり上機嫌だった。
しかし。
ふと、あの日の千紘の姿が浮かんだ。
三人に歌を聴かれていたと知った途端、真っ赤になってしまった少女。
歌を褒めても、なかなか顔を上げられなかった。
夢の話をするときも、「笑わないでくださいね」と小さな声で言っていた。
あんなに恥ずかしがり屋の子が、知らないお客さんのいる店で歌えるだろうか。
「……あ」
美緒の声が、少し小さくなった。
「どうしたの?」
奥さんが尋ねた。
「……でも、千紘さん、すっごく恥ずかしがり屋なんですよね」
「あら」
「私たち三人が聴いてただけでも、ものすごく緊張しちゃってたし……」
美緒は、少し困ったように笑った。
「お店で歌ってくださいって言ったら、びっくりしちゃうかなあ」
「そうかもしれないわね」
奥さんは穏やかに頷いた。
「だったら、無理に誘わなくてもいいじゃない」
「……え?」
「こういう場所もあるって、教えてあげるだけでいいのよ」
奥さんは続けた。
「歌ってみたくなったら、相談してねって」
「…………」
「やってみたいかどうかは、その子が決めることでしょう?」
美緒は、少し考えた。
確かにそうだ。
自分は千紘の歌が大好きになった。
だから、もっといろんな人に聴いてほしい。
けれど、それは美緒自身の気持ちだ。
千紘がどう思うかは、千紘にしか分からない。
歌を聴いてほしいと思っていても、大勢の人の前に立つのは怖いかもしれない。
自分のペースで、静かに歌っていたいという気持ちだってあるだろう。
千紘が勇気を出そうとしているときに、周りが急かしてしまっては意味がない。
「……そうですね」
美緒は、ゆっくり頷いた。
「私が聴きたいからって、無理に歌ってもらうのは違いますよね」
「そういうこと」
奥さんが微笑む。
「でも、応援してくれる人がいるって分かるだけでも、嬉しいものよ」
「……はい!」
美緒は、今度は落ち着いた笑顔で頷いた。
「じゃあ、千紘さんに、ちゃんと伝えてみます!」
千紘が歌うかどうかは、まだ分からない。
けれど、そんな機会があると知るだけでも、何かが変わるかもしれない。
美緒は、そう思った。
◇
「……あっ!」
美緒が、突然声を上げた。
「今度は何だ?」
ゴンさんが振り返る。
「どうしたの、美緒?」
咲子も尋ねた。
美緒は、困ったような顔で三人を見た。
「……そういえば、私……」
「うん?」
「千紘さんの連絡先、聞いてない!」
「…………」
一瞬、三人とも黙った。
そして。
「ええっ!?」
咲子が思わず声を上げる。
「あんなに仲良くなったって言ってたのに!?」
「だ、だって!」
美緒は慌てて言い訳した。
「歌がすっごくよかったから、そっちの話ばっかりしちゃって!」
咲子は、こらえきれずに笑った。
「もう、美緒らしいなあ」
「うう……」
ゴンさんは呆れたように首を振る。
「お前、肝心なところが抜けてるなあ」
「そんなこと言わなくてもー!」
「実際、連絡取れないんだろ?」
「……はい」
美緒は、しゅんと肩を落とした。
あれだけ千紘の歌を褒めて、また聴きたいと伝えて。
それなのに、連絡先を聞くことすら思いつかなかった。
「……あーっ! 私のばかー!」
「店で叫ぶな!」
「すみませーん!」
美緒が慌てて口を押さえる。
そんな姿を見て、奥さんが優しく笑った。
「まあまあ。公園で歌ってた子なんでしょう?」
「はい……」
「だったら、また同じ場所で会えるかもしれないじゃない」
美緒は顔を上げた。
「……そうですよね!」
「ええ。次に会えたら、そのときに聞いてみればいいのよ」
「……はい!」
美緒は、すぐに元気を取り戻した。
「よーし! 今度は絶対、連絡先を聞くぞー!」
「その前に!」
ゴンさんの声が飛んだ。
「……はい?」
「そこに置いた皿、いつになったら片づけるんだ?」
「あっ!」
美緒が振り返る。
話に夢中になっている間に、片づけかけの食器を、そのままにしていたのだ。
「す、すみませーん!」
慌てて皿を持ち上げる。
その姿に、咲子がまた笑った。
「美緒、落ち着いて。私も手伝うから」
「ありがとー!」
ゴンさんは、ため息をついた。
「まったく……無駄話してないで仕事しろ!」
「はーい!」
美緒は元気よく返事をした。
もっとも、その顔はまだ嬉しそうだった。
千紘に、話したいことができた。
あの子の歌を聴きたいと思ってくれる人が、また増えたのだ。
そして、もし本人が望むなら、歌を披露できる場所が一つある。
そのことを早く伝えたい。
千紘は、何と言うだろう。
驚くだろうか。
それとも、少しは喜んでくれるだろうか。
そんなことを考えながら、美緒は張り切って仕事へ戻った。
◇
その夜。
千紘は、自分の部屋の机に向かっていた。
開いているのは、学校の問題集だった。
今日の宿題は、すでにほとんど終わっている。
けれど、千紘の視線は、ときどき机の端に置かれた一冊のノートへ向かっていた。
歌詞を書いたノートだ。
「…………」
千紘は、問題集へ目を戻した。
残っていた問題を解き、答えを確認する。
それから、教科書と問題集を重ね、机の端へ寄せた。
ようやく、ノートを手に取る。
開いたページには、何度も書き直した歌詞が並んでいた。
昨日、公園で歌った曲。
まだ完成したとは言い切れない。
少し変えたい部分もあるし、もっといい言葉が見つかる気もする。
けれど。
あの日、あの三人は、自分の歌を聴いてくれた。
そして、また聴きたいと言ってくれた。
千紘は、思わず口元を緩めた。
「……また、聴きたいって……」
小さく呟く。
言葉にすると、また少し恥ずかしくなる。
あのときは、本当に驚いた。
誰もいないと思って歌っていたのに、突然拍手が聞こえてきたのだから。
しかも、知らない人たちだった。
歌を褒められたときも、どう返事をすればいいのか分からなかった。
ただただ恥ずかしくて、早く顔の赤みが引いてくれないかと思っていた。
それなのに。
今、思い出すのは恥ずかしさよりも、嬉しかった気持ちの方だった。
「……不思議」
千紘は小さく笑った。
学校の友人からも、文化祭のステージに出てみないかと勧められている。
応援してくれる人は、いる。
それなのに。
「……でも、なあ……」
千紘は、ノートの上に鉛筆を置いた。
大勢の人の前で歌う。
その光景を想像しただけで、手のひらが少し冷たくなる。
自分の歌を聴いてほしい。
けれど、人前に出るのは怖い。
この二つの気持ちは、どうしても一緒に存在していた。
「……変なの」
千紘は、少し困ったように笑った。
歌うことは好きなのに。
誰かに聴いてもらえるのは嬉しいのに。
どうして、自分から聴いてくださいと言うのは、こんなに難しいのだろう。
文化祭のことを考えると、胸がどきどきする。
ステージの上。
たくさんの視線。
静まり返った会場。
自分がギターを構え、最初の音を鳴らす瞬間。
そこで指が震えてしまったら。
歌い出せなくなってしまったら。
そんなことばかり想像してしまう。
千紘は、そっと息を吐いた。
そして、ノートのページをめくった。
そこには、まだ書きかけの歌詞があった。
何度考えても、しっくりくる言葉が見つからなかった部分だ。
「……うーん」
鉛筆を手に取る。
少し考える。
そして、昨日の公園を思い出した。
木々の間から差し込む夕日。
ギターの音。
歌い終えた瞬間の、突然の拍手。
驚いて顔を上げると、三人が笑っていた。
『また聴きたい!』
千紘は、ゆっくりと鉛筆を動かした。
書いては止まり、また書き足す。
最初の一行を書き終えたところで、少し首を傾げた。
「……これ、かな」
もう一度、読み返す。
声には出さず、頭の中でメロディーに乗せてみる。
言葉の長さは合っているだろうか。
歌ったときに、不自然にならないだろうか。
しばらく考えてから、千紘はほんの少しだけ笑った。
「……うん」
昨日までは、自分が好きだから歌っていた。
もちろん、それは今も変わらない。
でも。
今は、もう一つ。
誰かに聴いてもらいたい。
そう思っている自分がいた。
千紘はノートを見つめた。
文化祭に出るかどうかは、まだ決められない。
自分にどれほどの才能があるのかも、分からない。
歌を続けていった先に、何が待っているのかも分からない。
それでも。
「……もう一回、聴いてもらえたら……」
小さな声で呟いた。
あの三人に。
学校の友人に。
そして、いつかは、もっとたくさんの人に。
その想像は、やっぱり少し怖かった。
けれど、以前のように、怖いという気持ちだけで終わらなくなっていた。
千紘は、そっとノートの端を撫でた。
歌詞の隣には、先ほど書き足した言葉がある。
それを見つめながら、小さく微笑んだ。
まだ、勇気は出ない。
それでも、昨日よりほんの少しだけ。
自分の歌を、誰かに届けたいと思えるようになっていた。
千紘は鉛筆を置き、ノートを閉じた。
机の端には、ギターのケースが立てかけられている。
本当なら、今すぐにでも弾いて、書き直した部分を確かめてみたかった。
けれど、家では自由に音を出せない。
千紘はケースに目を向けたあと、もう一度ノートを開いた。
今は、頭の中で歌ってみることしかできない。
それでも、メロディーはちゃんと覚えている。
千紘は目を閉じ、弦を押さえる指の動きを思い浮かべた。
ぽろん、ぽろろん。
心の中で、ギターの音が鳴る。
そこへ、書き直した歌詞をそっと重ねてみる。
「……うん。やっぱり、こっちの方がいいかも」
誰にも聞こえない声で呟き、千紘は小さく頷いた。
窓の向こうには、静かな夜の街が広がっている。
彼女はまだ知らない。
自分の歌を聴いてくれた美緒が、別の場所でその歌を嬉しそうに話していたことを。
そして、まだ会ったことのない人たちまで、千紘の歌に興味を持ち始めていることも。
いつか、誰かの前で歌ってみたい。
今はまだ、その気持ちをはっきり言葉にする勇気もない。
けれど、今日の千紘は、もう一度だけノートを開いた。
そして、明日になったら続きを考えようと思っていた歌詞に、新しい言葉を書き足した。
まだ、小さな一歩。
それでも、彼女の中では確かに何かが変わり始めていた。
――つづく。




