閑話 見える人、見えない人
閑話 見える人、見えない人
卒業式まで、あと数日。
大学の研究室は、いつもよりずっと静かだった。
卒業論文を提出し終えた学生の多くは、引っ越しの準備をしたり、友人たちと残り少ない学生生活を過ごしたりしている。研究室へ顔を出す者も、以前ほど多くはない。
四年間を過ごした場所から、それぞれが少しずつ次へ向かい始めていた。
そんな中で、青年は今日も自分の机に座っていた。
机の上には、卒業を控えた学生のものとは思えないほど大量の資料が広がっている。
地方に残る昔話を集めた本。古い聞き書き。妖怪や怪異について記された研究資料。各地の習俗についてまとめた文献。
そして、それらに混じるようにして、動物図鑑や生態学の本まで積まれていた。
中央に置かれているのは、何度も付箋を貼り、書き込みを重ねた自分の研究ノートだった。
青年は古びた一冊の資料を読みながら、ある箇所で手を止めた。
「……やっぱり、ここ変だよな」
そこに記されていたのは、ある地方で昔から語られている妖怪についての記録だった。
現れた場所。目撃された時刻。おおまかな姿。人前へ現れる条件。
そのあたりまでは、似たような資料にもよく書かれている。
青年が引っかかったのは、その先だった。
妖怪が人間へ気づいたとき、わずかに身体を傾けた。
人間が一歩近づくと、右足を先に引いた。
周囲を警戒した際には、首を動かすより前に視線だけを向けた。
そんな、ごく細かな動きまで書き残されている。
青年は同じ文章を、ゆっくりともう一度読み返した。
「これ……話を聞いただけで、ここまで書けるか?」
もちろん、不可能とは言えない。
目撃した人物が細かく説明し、それを記録した人物が丁寧に書き残したのかもしれない。
けれど、どうにも文章の距離が近かった。
誰かから聞いた妖怪の話を書いているというより、まるで目の前にいる生き物を自分の目で観察して記録したような書き方だった。
青年は椅子の背にもたれ、資料を見つめた。
「この人……たぶん見えてたんじゃないか?」
そう思う。
けれど、それを研究上の事実として扱うことはできない。
本人はとっくに亡くなっている。確認のしようもなければ、妖怪を実際に視認していたという証拠も残っていない。
だから卒業研究では、あくまで記録の違いとして扱った。
観察内容が極端に具体的な資料。
人から聞いた話を丁寧にまとめたと思われる資料。
長い年月の中で話が膨らみ、後世の想像が混ざっていったと思われる資料。
それぞれを比較し、伝承がどのように形を変えてきたのかを考える。
それだけでも、十分に研究になる。
それでも。
青年自身が、ある程度「見える側」にいるからこそ、文章を読んでいて感じるものがあった。
別の資料を開く。
「こっちは……見えてないな」
そこに書かれた妖怪は、山よりも巨大で、空を覆うほどの羽を持ち、一度に何人もの人間を飲み込むことになっていた。
青年は思わず苦笑した。
「これは、さすがに盛ってるだろ」
もっとも、本当にそんな妖怪がいないと断言するつもりもなかった。
この数年間で、青年は何度も思い知らされている。
自分が知らないというだけで、「存在しない」と決めつけることはできない。
何しろ、自分自身、あの日までは天狗が本当に空から現れるなど考えたこともなかったのだ。
ましてや――。
「タライを落として採点する妖怪なんて、普通は思いつかないよな……」
そう呟いた瞬間、昔の光景が蘇ってきて、青年は小さく笑った。
ものすごい速度で走る老婆。
呼んだと思ったら、いつの間にかそこにいる老人。
空から現れた天狗。
そして、自分が元の姿へ戻った直後、小学生の頭へタライを落とし、その行動を点数で評価した小さな妖怪。
何年経っても、あの日のことは妙に鮮明に覚えている。
もし、あの出来事がなかったなら。
自分は今、この机の前に座っていなかったかもしれない。
青年は民俗資料の横に置かれた動物図鑑を開いた。
大学へ入る前、自分が最も興味を持っていたのはこちらだった。
生き物そのもの。
身体のつくり。
行動。
習性。
なぜ、その環境でそういう生き方をするのか。
浪人していた頃の自分は、そうしたことをもっと深く学びたいと思っていた。
大学へ入った当初も、その興味がなくなったわけではない。
むしろ、最初のうちは生物について学ぶことこそ、自分が大学へ来た理由だと思っていた。
ところが、授業で民俗学や昔話、地域伝承について触れるうちに、思いがけないところで二つの興味がつながり始めた。
ある土地に伝わる妖怪が、その地域に生息する動物とよく似た行動を取る。
夜行性の動物が立てる音や鳴き声が、怪異として語り継がれている。
縄張りを守ろうとする動物の行動が、人間には不可解な現象として受け取られ、長い年月の中で妖怪の物語へ変化していったのではないかと思える例もある。
青年は図鑑と伝承の資料を交互に見た。
「こっちは、縄張り行動に近いんだよな……」
図鑑へ戻る。
次に、その土地の古い記録を開く。
さらに別の地域の伝承を見る。
資料から資料へ視線を移しているうちに、青年はいつの間にか夢中になっていた。
ただし、何でも実在の動物だけで説明できるわけではない。
それもまた、彼はよく知っている。
昔の人が動物を妖怪と見間違えた話もあるだろう。
動物の特徴が誇張され、妖怪の姿になった例もあるかもしれない。
けれど、本当に妖怪だったものもいる。
少なくとも、自分があの日会った者たちは確かに存在していた。
その境目が、簡単には分からない。
だからこそ面白い。
青年は、机の上に並ぶ二種類の資料を見比べた。
「結局、俺が好きだったものって、そんなに変わってなかったのかもな」
生物学から民俗学へ。
まったく別の道へ来たつもりだった時期もある。
けれど今では、昔から興味を持っていたものを、少し違う角度から見ているだけなのかもしれないと思うようになっていた。
そして、この数年でもう一つ、青年の強い関心を引くものがあった。
妖怪が「見える」ということそのものだった。
数年前に比べれば、妖怪を実際に目にする人間は確実に増えている。
誰にでもはっきり姿が見え、人間と普通に会話している妖怪もいる。
町の中で、人間と自然に交流している者を目にする機会も、以前よりは珍しくなくなった。
だが、すべての妖怪が、すべての人間へ同じように見えるようになったわけではない。
ある人にははっきり見えるのに、その隣にいる人にはまったく見えない。
姿は分からなくても、声だけ聞こえる者がいる。
声さえ聞こえないのに、「何かがいる」という感覚だけを持つ人もいる。
そして今でも、ほとんど誰にも姿を見せず、昔話や伝承の中だけに存在していると思われている妖怪もいた。
青年自身も、何もかも見えるわけではない。
はっきり姿が見え、会話までできた相手もいる。
遠くにぼんやりと影だけ感じたこともある。
自分には普通に見えているのに、隣の人には何も分からなかったこともあった。
逆に、自分には何も見えない場所を指して、
「あそこにいる」
と断言した人にも会ったことがある。
そうした経験を重ねるにつれて、昔の資料を見る目も変わっていった。
青年は一冊の研究書へ付箋を貼る。
「この人は、かなり見えてた気がする」
別の資料を開く。
「こっちは見えてない。でも、聞き取りがすごく丁寧だな」
さらに別の記録へ移る。
「これは……見えた人から聞いた話を、見えない人がまとめた感じか?」
もちろん、すべて推測にすぎない。
けれど、文章から感じる距離が違う。
妖怪を「現象」として記録する人。
昔から伝わる「物語」として記録する人。
そして、まるで近所にいる動物を観察するような目で書き残している人。
同じ妖怪についての資料なのに、書き手によってまるで違う存在に見えることさえあった。
青年は古びた資料の表紙へ指を滑らせた。
「昔にも、いたんだろうな」
自分と同じような人間が。
妖怪が見えていた人。
けれど、それを誰にでも当然に見えるものとして扱うことはできなかった人。
誰かから妖怪の話を聞きながら、心の中では「自分も見たことがある」と思っていた人。
あるいは、自分に見えているものが周囲には見えていないと気づき、黙っていた人。
「会ってみたかったな」
今となっては、もう会えない人物も多い。
だからこそ、残された文章を読む。
何が書かれているかだけではなく、どんな距離から書いているのかを見る。
その人が、本当は何を見ていたのかを考える。
それ自体が、青年にとって研究の楽しさの一つになっていた。
「まだやってたのか?」
突然声をかけられ、青年は顔を上げた。
研究室の入口に、同じ学年の友人が立っている。
「もう卒論は出しただろ?」
「出したよ」
「じゃあ何してるんだ?」
青年は机いっぱいの資料へ目を向けた。
「気になったから調べてる」
友人は呆れたように笑う。
「もうすぐ卒業するんだぞ、お前」
「卒業しても調べられるだろ」
「そういう話じゃなくてさ」
友人は資料の山を眺めてから、ふと思い出したように青年を見る。
「お前、入学した頃からこんな感じだったっけ?」
「こんなって?」
「一個気になったら、その先を調べて、そこからまた別のこと調べて……って。昔はもっと、やること決めたら一直線って感じだっただろ」
青年は少し考えたあと、苦笑した。
「……そうだったかもな」
「そうだったよ。何時までにこれ、次はこれって。ゼミだって毎回十五分前には来てたし」
「遅刻したくないだけだ」
「そういうところは今も変わってないけどな」
二人で笑った。
予定を立てることが嫌いになったわけではない。
締め切りだって守る。
約束した時間には、今でも少し早めに着く。
性格そのものが、何もかも変わったわけではなかった。
ただ一つ。
予定どおりにいかないことを、以前ほど怖がらなくなった。
友人が思い出したように言った。
「そうだ。卒業式のあと、みんなで写真撮るからな」
「聞いたよ」
「そのあと飯行こうって話も出てる」
「何時から?」
「まだ決まってない」
青年は、一瞬だけ黙った。
昔の自分なら、まずそこを決めたかっただろう。
何時に始まるのか。
何時に終わるのか。
そのあと何をするのか。
帰ってからの予定はどうするのか。
次の予定までに、どれだけ余裕があるのか。
けれど今は、ほんの少し考えただけで肩をすくめた。
「じゃあ、そのとき決めればいいんじゃないか?」
友人が、驚いたように目を丸くした。
「……お前が?」
「何だよ」
「いや。珍しいなと思って。昔のお前なら、最初に時間を決めろって言いそうだったから」
青年は笑った。
「まあ……昔はな」
「何かあった?」
「いろいろ」
「何だよ、それ」
友人は笑いながら研究室を出ていった。
青年は、その背中を見送りながら、ふと昔の自分を思い出した。
浪人していた頃。
T大へ入る。
そのために何をする。
何時までに終わらせる。
次はどこへ行く。
毎日の予定を細かく決めて、それを守ることに必死だった。
止まれば遅れる。
遅れれば失敗する。
だから走り続けた。
文字通り。
本当に、自分は街の中を走り回った。
「……あのときは、本気だったんだよな」
今思えば、少しおかしい。
けれど、当時の自分を笑う気にはならなかった。
T大へ行きたかったのは本当だ。
そのために努力したことも、本当だった。
だから、不合格だった日はひどく落ち込んだ。
結果を見た直後は、あれだけやったのに駄目だった、これで終わったとさえ思った。
そんなとき。
何年も前、小学生だった少年に言われた言葉を思い出した。
――お兄さんがやりたい勉強って、T大じゃないとできないの?
あの言葉があったから。
青年は別の大学の資料を、もう一度開いた。
偏差値でも、判定でもない。
その大学へ行った先に、何があるのかを見るために。
そして、今の大学へ来た。
最初のうちは、生物学への興味をそのまま追っていくつもりだった。
ところが、ある授業で民俗学へ触れ、妖怪の伝承が扱われた瞬間。
あの日の記憶が鮮やかに蘇った。
天狗。
タライ小僧。
ターボババア。
ぬらりひょん。
資料に書かれている妖怪と、自分が実際に見た妖怪。
似ている部分。
まったく違う部分。
どうして、このような形で語り継がれたのか。
昔の人は何を見たのか。
動物の習性が、どこまで妖怪の伝承へ影響しているのか。
一つ疑問が出るたび、また次の疑問が現れた。
そして気づけば。
面白くて仕方がなくなっていた。
青年は机の上に積まれた資料を眺めながら、小さく呟いた。
「T大に受かってたら……」
もし受かっていたなら。
別の場所で、別の研究をしていたかもしれない。
昔から好きだった生き物を、もっと真っすぐ追い続けていたかもしれない。
それはそれで、きっと面白かった。
だから、
「落ちてよかった」
とは思わない。
本当に行きたかった。
悔しかった。
あのときの気持ちまで、今の自分を肯定するために否定する必要はない。
ただ。
今なら一つだけ、はっきり分かる。
「行けなかったから終わり、じゃなかったんだな」
青年は机の端に置かれていた古い冊子を手に取った。
卒業研究には使わなかった資料だった。
何気なくページをめくっていると、また一つ、妙に具体的な記述が目に入った。
妖怪が人間を見つけたときの身体の向き。
距離の取り方。
警戒したときの小さな動き。
青年の目が止まる。
「……ん?」
もう一度読む。
やはり、細かすぎる。
青年はしばらく文章を見つめたあと、少しだけ笑った。
「この人も……見えてたんじゃないか?」
もちろん、答えは分からない。
もう確かめようもない。
本当に見えていたのかもしれない。
驚くほど優秀な聞き取りをしただけかもしれない。
あるいは、自分が勝手にそう感じているだけなのかもしれない。
以前の自分なら。
答えが出ないことに苛立ったかもしれない。
どちらなのかを決めたかった。
結論を出したかった。
今は違う。
分からないからこそ、次を調べたくなる。
別の資料を読みたくなる。
別の土地の伝承も確認したくなる。
同じ妖怪について書かれた、もっと古い記録も探したくなる。
青年は机の上を見渡した。
もうすぐ卒業するというのに、読みたい資料がまだ山ほどある。
調べたい伝承もある。
確認したい動物の習性もある。
会ってみたい妖怪もいる。
妖怪が見える人にも、見えない人にも、話を聞いてみたい。
「……まだ、こんなに分からないことがあるのか」
その声には、焦りも不安もなかった。
むしろ、どこか楽しそうだった。
青年はもう一度ページをめくる。
知らない記録が、まだ先に続いている。
「面白いな」
卒業式まで、あと数日。
大学生活という一つの区切りは、もうすぐ終わる。
けれど、その先に何があるのかは、まだ全部決まってはいない。
昔なら、それを不安に思ったかもしれない。
今は違う。
分からないなら調べればいい。
途中で別のものが気になったなら、寄り道してもいい。
遠回りした先で、昔から好きだったものへ戻ってくることだってある。
道が一つではないことを。
答えが一つではないことを。
青年はもう、知っていた。
――つづく。




