第11話 それぞれの次へ
第11話 それぞれの次へ
その日の夜。
青年の机の上には、いつもの問題集と参考書が積まれていた。
見慣れた光景だった。
帰宅したら時計を見る。
今日の予定と実際の時刻を比べる。
何分遅れているのかを確認する。
遅れていれば、どこで取り返すのかを決める。
この科目を十分短くする。
休憩を五分削る。
予定より遅くまで起きる。
そうやって、決めた一日を決めた通りに終わらせる。
少し前までの青年なら、今ごろはもう問題集を開いていただろう。
今日の遅れは大きい。
取り返さなければならない時間も、かなりある。
けれど青年は、問題集へ手を伸ばさなかった。
代わりに、鞄の中から何冊かの資料を取り出した。
一番上にあるのは、T大の資料だ。
机の中央へ置く。
第一志望を変えるつもりはない。
今日一日で、そこまで簡単に気持ちが変わるはずもなかった。
T大へ行きたい。
そこを目指して勉強する。
それは、これからも変わらない。
ただ――。
青年は、もう一冊の資料を取り出した。
T大とは別の大学。
以前から持っていたものだった。
見たことがないわけではない。
むしろ、何度か開いている。
入試科目。
偏差値。
過去の合格ライン。
模試でどれくらいの判定なら安全か。
そういうところは、すでに確認していた。
青年にとって、その大学はずっと「T大に届かなかったときのための場所」だったからだ。
今日は、その先のページを開いた。
「……」
指が止まる。
こんなページがあったことは知っていた。
けれど、ちゃんと読んだ記憶がない。
どんな授業をしているのか。
どんな環境で学べるのか。
その大学で、どんなことに取り組めるのか。
ゆっくりと読み進める。
一枚めくる。
もう一枚。
そして、青年の口から小さな声が漏れた。
「……へえ」
少し意外だった。
今まで、自分はこの大学について知っているつもりだった。
偏差値も知っている。
入試科目も知っている。
自分が受けた場合の判定だって知っている。
けれど、それは「受かるための情報」を知っていただけだった。
その大学が、どんな場所なのか。
そこへ入ったあとに何があるのか。
そんなことは、ほとんど知らなかった。
別の資料も手に取る。
「ここにも、こういうのあるんだな……」
気づけば、ページをめくる手が止まらなくなっていた。
ここへ行く。
そう決めたわけではない。
T大をやめる気もない。
けれど、これまで「滑り止め」という一言でまとめていた大学の一つ一つに、それぞれ違うものがある。
当たり前のことだった。
なのに青年は、それをほとんど見ようとしていなかった。
机の端に置いた腕時計へ目が向く。
予定していた時刻は、とっくに過ぎている。
今から全部取り戻そうとすれば、かなり遅くまで机に向かわなければならない。
以前なら、その瞬間に頭の中で計算を始めていただろう。
けれど今日は、時計を見たあとでも資料を閉じなかった。
「……もう少し見てみるか」
青年は次のページをめくった。
その頃。
則人と悟は、いつものようにゴンさんの店へやって来ていた。
「ただいまー」
「お邪魔しまーす」
「おう」
厨房の方から、ゴンさんの声が返ってくる。
店内にはすでに何組かの客が入っていた。
料理の匂い。
食器の音。
楽しそうな話し声。
その間を、美緒と咲子が忙しそうに行き来している。
「いらっしゃ――あっ、則ちゃん!」
注文の皿を運んでいた美緒が、則人を見つけた途端に目を輝かせた。
「聞いたよ! 今日また何かあったんでしょ!」
「うん」
「ものすごく速い人を追っかけたって本当!?」
「本当だよ」
「妖怪のおばあちゃんに乗って!?」
「乗ったんじゃないよ! 背負ってもらったの!」
則人がすぐに訂正する。
「ほとんど同じじゃん!」
「違うよ。おばあちゃん、すっごく嫌がってたんだから」
隣にいた悟が、ぼそっと付け加えた。
「それに、おばあちゃんって呼ぶと怒るよ」
「えーっ、何それ!」
美緒はますます食いついた。
「私も行きたかった!」
「すごかったよ。おばあちゃんの方が速すぎて、何回も追い越しちゃうんだ」
「追いかけてるのに追い越すの!?」
「うん。それで戻るの」
「何それ! 絶対面白いやつじゃん!」
「でも、お兄さんが急に曲がると、おばあちゃんは曲がれなくて、そのまま真っすぐ行っちゃうんだよ」
「見たかったー!」
美緒はすっかり仕事の手を止めていた。
横を通った咲子が、苦笑しながら声をかける。
「美緒、止まってるよ」
「あ」
次の瞬間。
「美緒! 無駄話してないでちゃんと仕事しろ!」
厨房からゴンさんの声が飛んできた。
「はーい!」
美緒は慌てて皿を持ち直し、仕事へ戻る。
それでも則人のそばを通り過ぎるとき、
「あとで全部聞かせてね」
と小声で念を押した。
「うん」
「ターボババアだけじゃなくて、天狗も来たんでしょ?」
「来たよ」
「タライ小僧も?」
「うん。八十五点だった」
「えっ、八十五? ちょっと低くない?」
「高いよ!」
「でも則ちゃんなら九十点台いけそうじゃん」
「ぼくだってそう思ったよ!」
そんな会話をしていると、悟がふと店の端へ顔を向けた。
「……あれ?」
「どうしたの、さとる君」
則人もそちらを見る。
店の隅で、ぬらりひょんが茶を飲んでいた。
いつからそこにいたのかは分からない。
あまりにも自然に座っているので、最初からいたようにも見える。
「またいる」
悟が小さく言った。
まだ悟には、妖怪の姿が誰にでも見えるものと同じようには見えていない。
それでも、以前よりは分かる。
そこに誰かいる。
声も、ぼんやり届く。
そんな感覚が少しずつ強くなっていた。
則人がぬらりひょんへ手を振る。
ぬらりひょんも、湯飲みを持ったまま軽く手を上げた。
それを見つけた美緒が、ぴたりと止まる。
そして、自分の頭についている猫耳へ両手を添えた。
「……あ」
咲子が気づいた。
「どうしたの?」
美緒は周囲を見てから、皿を片づけるついでのような顔をして、ぬらりひょんの近くへ寄った。
声を落とす。
「ねえ」
「なんじゃ」
「これ……返してって言わないよね?」
「何の話じゃ」
「これだよ、猫耳!」
美緒は頭の猫耳を指差した。
「だって、これって則ちゃんのアシスタントをするって約束で借りてるやつじゃん」
則人もその話を思い出した。
「ああ。そうだったね」
「そうだったね、じゃないよ!」
美緒は小声のまま則人へ振り返る。
「今回、私行ってないじゃん!」
「だって急だったもん」
「それは分かってるけど!」
美緒はすぐにぬらりひょんへ向き直った。
「だから、サボったわけじゃないからね? アシスタントやるの嫌になったとかでもないからね? 呼ばれなかっただけだからね?」
ずいぶん必死である。
ぬらりひょんは、のんびり茶を一口飲んだ。
「わしはまだ、返せなどと言っとらんが」
美緒の顔が一気に明るくなった。
「ほんと?」
「約束を忘れておらぬのなら、それでよかろう」
「忘れてない!」
ほとんど反射的に答えた。
「ちゃんとアシスタントするから!」
少し声が大きくなる。
「美緒! また手ぇ止まってるぞ!」
「今やります!」
美緒はびくっとして、慌てて仕事へ戻る。
その横で、咲子が笑いをこらえていた。
「さっちゃん、何笑ってるの」
「だって、美緒から返却の話を出さなくてもよかったんじゃない?」
美緒の足が止まった。
「……え?」
咲子は笑いながら続ける。
「何も言われてなかったでしょ?」
美緒は、そろそろとぬらりひょんを見る。
ぬらりひょんは、変わらず茶を飲んでいた。
「さっちゃん」
「何?」
「それ、今気づかせないでほしかった」
「でも返さなくてよかったじゃない」
「そうだけど!」
則人が思わず笑う。
「ミオちゃん、そんなに心配だったんだ」
「だって、この猫耳ないと、またみんな見えにくくなるじゃん!」
美緒は猫耳を押さえた。
今ではすっかり、この状態に慣れている。
妖怪がいる。
話ができる。
則人たちの周りで起きている不思議なことを、自分も少しだけ同じ場所から見られる。
それを簡単に手放したいとは思わなかった。
「だから、次なんかあったら絶対呼んでよね!」
「危ないときはダメだよ」
則人は即答した。
「私、アシスタントなのに!?」
「アシスタントでも危ないのはダメ!」
「じゃあ私、何するの!」
則人は少し考えた。
かなり考えた。
「……応援?」
「それアシスタントじゃなくない!?」
悟が吹き出した。
咲子も笑う。
美緒だけが不満そうに頬を膨らませた。
「じゃあ次までにアシスタントの仕事、ちゃんと考えようよ!」
「次って、何も起きない方がいいんだけど」
「それはそうだけど!」
「美緒! 咲子! 喋ってないで仕事!」
また厨房から声が飛んだ。
「はーい!」
「すみません!」
二人はすぐに持ち場へ戻っていった。
則人と悟も、仕事の邪魔にならないように席へ移動する。
店の端では、ぬらりひょんが変わらず茶を飲んでいる。
厨房から料理が運ばれ、客の注文が入り、美緒と咲子が店内を忙しく行き来する。
さっきまで妖怪の話をしていたのが嘘のように、店はいつもの夕方へ戻っていった。
少し騒がしい。
ちょっと変わったことも起きる。
けれど、則人にとってはすっかり馴染んだ場所だった。
そして、同じ頃。
青年はまだ机に向かっていた。
机の中央にはT大の資料。
その横には、別の大学。
さらにもう一冊。
最初は一冊だけだったはずの資料が、いつの間にか机いっぱいに広がっていた。
青年は、一つ読み終えると次を開く。
「……ここは、こういう感じなのか」
ページをめくる。
比較する。
少し考える。
だが、以前のように「どちらが上か」「どちらなら受かりやすいか」だけでは見ていなかった。
それぞれ違う。
どこにも、その場所なりのものがある。
その中で、自分は何をやりたいのか。
それを考えてみる。
腕時計を見る。
やはり予定は崩れたままだ。
問題集も、今日やると決めていたところまで終わっていない。
青年は数秒、時計を見つめた。
そして。
「……勉強も少しはやるか」
問題集へ手を伸ばしかける。
だが、その前に。
まだ開いていなかった一冊の資料が目に入った。
青年は少し迷ったあと、そちらを先に手に取った。
「これだけ見てからにしよう」
予定どおりではない。
けれど、それでいい。
少なくとも今日は。
青年は資料を開いた。
T大を諦めたわけではない。
目標を捨てたわけでもない。
ただ、そこへ向かう道しか見ないことをやめてみた。
すると。
これまで見えなかったものが、少しずつ見えてきた。
青年はまた一枚、ページをめくる。
今度は合格するためだけではなく。
その先で、自分が何をしたいのかを探すために。
――つづく。




