第5話「これなら間に合う」
『着ぐるみモンスター』 コヨーテライダー編
第5話「これなら間に合う」
翌朝、青年は目覚ましが鳴るより少し早く目を覚ました。
枕元のスマートフォンへ手を伸ばし、時刻を確かめる。あと数分は眠っていられたが、もう一度目を閉じる気にはならなかった。
数分あれば、昨日間違えた問題を一つ見直せる。
そう考えた時には、もう布団を抜け出していた。
顔を洗い、朝食を済ませる。その間にも、頭の中では今日の予定をなぞっていた。
昨日の解き直しをしてから予備校へ行く。講義前の自習時間に残っている範囲を進め、講義が終わったら図書館へ向かう。帰宅後には復習もある。
昨日より、やることは多い。
だったら、止まっている時間を減らせばいい。
机へ向かうと、端の方に、昨夜あの黒服の男から渡された小さなものが置かれていた。
一瞬だけ目には入った。
けれど、手に取ることも、何なのか調べることもしなかった。
今の予定には関係がない。
分からないものについて考えている時間があるなら、一問でも多く解いた方がいい。
青年は問題集を開いた。
昨日間違えた問題を解き直す。
今度は、条件を読み落とさなかった。
答えも合っている。
「よし」
小さく呟き、時計を見る。
もう出た方がいい。
青年は鞄をつかみ、家を出た。
◇
駅へ向かう道でも、青年の頭の中では英単語が繰り返されていた。
一つ思い出す。
意味を確認する。
次。
また次。
歩きながらでもできることはある。
信号に捕まれば、そこで続きをやればいい。電車を待つ時間も使える。
青年にとって、移動そのものは目的ではなかった。
目的と目的の間にある、できるだけ短くしたい時間だった。
だから、自分の身体に起き始めた変化にも気づかなかった。
いつの間にか、青年の身体は見慣れた服装ではなくなっていた。
コヨーテを思わせる意匠。
バイクの機構を思わせる外装。
人の身体を包む、奇妙な着ぐるみ。
それでも、顔にはいつもの眼鏡が掛かっている。
青年本人より先に、その姿を見た通行人たちが足を止めた。
「え……?」
一人の女性が、すれ違う直前で道の端へ避けた。
「何、あれ……」
少し離れた場所で、別の誰かがスマートフォンを取り出す。
青年はその横を通り過ぎた。
ざわめきは耳に入っていた。
けれど、自分とは関係のない何かだと思っていた。
頭の中にあるのは、まだ覚えきれていない単語と、その次の予定だけだった。
ふと時計を見る。
「まずいな」
少し遅れている。
青年は足を速めた。
その瞬間、景色が一気に後ろへ流れた。
「きゃっ!」
「うわっ!」
悲鳴が上がった。
前方を歩いていた人たちが、慌てて左右へ分かれる。
青年はその間を駆け抜けた。
普段ならあり得ない速さだった。
それでも、立ち止まらなかった。
速く進めている。
今は、それで十分だった。
なぜそうなっているのか。
自分がどれほどの速度で走っているのか。
そんなことを確かめるより、予備校へ着く方が先だった。
◇
予備校の入口を通った瞬間、受付にいた女性が顔を上げた。
その表情が、見る間に固まった。
「……え?」
青年はその前を通り過ぎる。
「あ、あの……!」
呼び止める声が背中に届いた。
青年は少しだけ振り向きかけたが、時計を見て、そのまま廊下へ進んだ。
講義までの時間は限られている。
自習室で昨日の続きを進めたい。
向こうから来た生徒が、青年の姿を見て立ち止まった。
「か、怪……!」
最後まで言わず、そのまま踵を返して走り出す。
青年は眉を寄せた。
「朝から走ったら危ないのに……」
自分のことだとは思っていない。
その先でも、教室から顔を出した生徒が青年を見るなり悲鳴を上げた。中へ引っ込み、今度は反対側の扉から何人もの生徒が飛び出していく。
いつもより、やけに騒がしい。
何かあったのだろうか。
少し気にはなったが、確認するために時間を使うほどではなかった。
青年は自習室の扉を開けた。
中には数人の生徒がいた。
全員の顔が、一斉にこちらを向く。
一瞬、しんと静まり返った。
次の瞬間だった。
「うわああっ!」
「逃げろ!」
「怪人だ!」
椅子が倒れ、机の上の筆記具が床へ転がった。
生徒たちは鞄を置いたまま、出口へ殺到した。
青年はぶつからないように半歩だけ横へ避ける。
その脇を、何人もの生徒が駆け抜けていった。
「……?」
あっという間に、自習室には誰もいなくなった。
青年は入口に立ったまま、少しだけ首を傾げた。
避難訓練でもあっただろうか。
それとも、何か連絡を見落としたのか。
ただ、誰もいなくなったおかげで席は選び放題だった。
「まあ、いいか」
青年はいつものあたりの席へ向かった。
鞄を置き、問題集とノート、筆箱を机に並べる。
廊下から遠ざかっていく足音や、誰かが叫ぶ声が聞こえていた。
「今日は騒がしいな……」
そう呟きながら、問題集を開く。
数分もしないうちに、周囲の音は青年の意識から消えていった。
◇
昨日間違えた問題を、もう一度解く。
今度は正解した。
なぜ間違えたのかを余白へ短く書き込み、そのまま次へ進む。
普段なら、自習室にはページをめくる音や、筆記具が紙を擦る音が絶えず聞こえている。
今日は何も聞こえなかった。
静かだった。
むしろ集中しやすい。
青年は時計を見る。
講義開始までは、まだ少しある。
「もう一問いけるな」
すぐに次のページを開いた。
考えてみれば、今日はここへ来るまで妙に身体が軽かった。
階段を上がっても息が乱れない。
いつもなら少し疲れるはずの距離も、ほとんど気にならなかった。
だが、その理由について考えようとはしなかった。
今解いている問題とは関係がない。
青年にとって、それだけで後回しにするには十分だった。
問題を解き終え、答えが合っていることを確認する。
「よし」
そこで時計を見ると、そろそろ講義が始まる時刻だった。
青年はテキストと筆記用具をまとめ、席を立った。
◇
廊下へ出て、初めて少し違和感を覚えた。
誰もいない。
普段なら、同じ時間の講義へ向かう生徒たちが行き交っているはずだった。
青年は歩きながら周囲を見た。
「早かったかな」
しかし、時計を見る限り、そうでもない。
教室へ入る。
そこにも、誰もいなかった。
青年はいつもの席へ座った。
テキストを机へ置き、時計を見る。
講義開始までは数分ある。
だったら、その間にも課題を進められる。
ページを開き、鉛筆を動かし始めた。
やがて開始時刻になる。
教員は来ない。
生徒も来ない。
青年は一度、扉の方へ目をやった。
遅れているのかもしれない。
そう考えて、またテキストへ視線を戻した。
ただ待つだけなら、その時間で一問でも進めた方がいい。
五分。
十分。
それでも、誰も来なかった。
青年の鉛筆がようやく止まった。
「……おかしいな」
顔を上げる。
広い教室には、自分一人しかいない。
スマートフォンを取り出し、予備校からの連絡を確認する。
休講の知らせはない。
「教室、間違えた?」
口にしてから、自分で否定した。
何度も受けている講義だ。
間違えるはずがない。
青年は席を立ち、廊下へ出た。
やはり、誰もいなかった。
自習室の方も静まり返っている。
あれほど騒がしかった予備校が、今は妙なくらい静かだった。
「……何なんだ?」
その時になって初めて、青年の意識が今日の予定から外れた。
廊下の窓へ、何気なく目を向ける。
ガラスには自分の姿が映っていた。
青年は、そのまま数歩通り過ぎた。
そして止まった。
ゆっくり戻る。
もう一度、窓を見る。
「……え?」
眼鏡を掛けた顔。
そこだけは、自分だった。
けれど、その周囲が違う。
コヨーテを思わせる姿。
バイクの部品のようなものが組み込まれた外装。
いつもの服ではない。
青年は自分の腕を見る。
手を見る。
身体を見る。
それから、窓へ映った姿をもう一度確かめた。
「……何だ、これ」
さすがに、しばらく動けなかった。
いつから。
どうして。
何が起きた。
昨夜、住宅街で出会った黒服の男の姿も、一瞬だけ頭をよぎった。
けれど、それ以上考える前に、視線が壁の時計へ向いた。
講義が始まってから、すでにかなり時間が過ぎている。
「……」
青年は窓へ映る自分を見た。
教室に置いたままのテキストを思い出す。
もう一度、時計を見る。
今ここで考え続けても、答えが出るとは限らない。
一方で、今日やるつもりだった課題は、目の前に残っている。
「……あとでいいか」
青年は教室へ戻った。
◇
自分が何になっているのか。
なぜ、こんな姿になったのか。
本当なら、それを調べた方がいいのだろう。
青年にも、それくらいは分かっていた。
けれど、理由が分からないことを考え続けても、時間だけが過ぎていく。
机の上にある問題には、少なくとも答えがある。
教員が来ないのなら、講義の時間まで無駄にする必要はない。
「ここまでは、今日やる予定だったし」
青年はテキストを開いた。
問題を読み、式を書く。
分からなければ前のページへ戻る。
必要なところを確認し、もう一度考える。
さっきまでと何も変わらないように、勉強を続けた。
ただ、鉛筆を動かすたびに、見慣れない腕が視界へ入る。
気にはなった。
何度か手元を見てしまう。
それでも、そのたびに問題文へ目を戻した。
「今はこっち」
予備校の外では、その間にも騒ぎが広がっていた。
職員たちは生徒を建物から離れた場所へ誘導し、誰も戻らないようにしている。
予備校の中に怪人がいる。
そんな話が、あっという間に周囲へ広まっていた。
遠巻きに建物を見る人まで集まり始めている。
けれど、その中心にいる青年は何も知らず、静まり返った教室で一人、テキストの問題を解き続けていた。
◇
本来なら講義が終わる時刻になった。
青年は時計を確認し、鉛筆を置いた。
「……ここまでか」
予定していた範囲には、少し届かなかった。
それでも、何もしないで待っているよりは進んだ。
残っているところへ印をつけ、手帳を開く。
次の予定は、図書館だった。
青年はテキストを閉じる。
立ち上がると、改めて自分の身体を見下ろした。
「これ……どうするかな」
理由を調べた方がいい。
誰かに相談した方がいいのかもしれない。
だが、それを始めれば、どれだけ時間が掛かるか分からない。
今から図書館へ行けば、まだ予定していた勉強時間を確保できる。
「帰ってからでいいか」
青年は鞄を持ち、教室を出た。
◇
予備校の入口を出た瞬間、青年はようやく、外で何が起きていたのかの一端を知った。
建物から離れた場所に、大勢の人が集まっている。
職員や生徒だけではない。
通行人まで足を止め、こちらを見ていた。
青年が姿を現した途端、そのざわめきが一気に大きくなる。
「出てきた!」
「逃げろ!」
「こっち来るぞ!」
人々が一斉に後ろへ下がった。
青年はそこで、さすがに足を止めた。
「……?」
自分を見ている。
自分から逃げている。
さっき窓へ映った姿を思い出す。
「ああ……」
ようやく、全部が少しだけつながった。
朝から人が避けていたこと。
予備校で生徒たちが逃げたこと。
講義に誰も来なかったこと。
「まあ……そうなるか」
普通の姿ではない。
それはもう、自分でも分かっていた。
青年は少し困ったように自分の腕を見た。
だが、その次には時計を見ていた。
思っていたより時間を使っている。
「まずい」
このまま立ち止まっていたら、図書館へ着くのが遅れる。
青年は歩き出した。
前方にいた人たちが、さらに慌てて道を空ける。
それなら、そのまま進めばいい。
青年は、いつものように少し急ぐつもりで足へ力を入れた。
次の瞬間、身体が一気に前へ飛び出した。
「うわっ!」
「危ない!」
強い風が人々の間を抜ける。
自転車に乗っていた男性が慌ててブレーキを掛け、店先の紙がまとめて舞い上がった。
青年は止まらない。
足を動かすほど、街の景色が勢いよく後ろへ流れていく。
普通ではない速さだった。
それくらいは、もう分かった。
けれど、自分がどれほど速くなったのか確かめるために立ち止まるという発想はなかった。
速い。
だったら、使えばいい。
図書館へ早く着ける。
その分だけ、勉強する時間が増える。
「危ない!」
横断歩道の近くで誰かが叫んだ。
青年は、人の隙間を抜ける。
避けた人がよろめき、自転車が急停止する。
店先から軽い物が吹き飛び、周囲で悲鳴が上がる。
けれど青年は、それらを自分が起こしているとはほとんど意識していなかった。
図書館へ行く。
今日の残りを終わらせる。
頭の中にあるのは、それだけだった。
道の先では、青年の姿を見た人々が次々に避けていく。
そのたびに、声が上がる。
スマートフォンが向けられる。
何が起きているのか分からず、立ち尽くす人もいる。
それでもコヨーテライダーは走り続けた。
青年の頭には、もう図書館で開く予定の問題集が浮かんでいた。
いつもなら、まだ移動している時間だ。
けれど今なら、もう着ける。
今まで待つしかなかった時間を、問題へ使える。
今まで終わらなかったところまで進められる。
もっとできる。
まだ間に合う。
青年の口元に、久しぶりに小さな笑みが浮かんだ。
「これなら、間に合う」
その声を残し、コヨーテライダーは人々の間を駆け抜けていった。
本作品を含む、凛監修×生成AI合作作品は、同じ世界観の中でつながるシリーズ作品です。
それぞれ単独でもお楽しみいただけますが、同じ出来事が別作品では異なる視点から描かれたり、一方で起きた出来事が、もう一方の物語へつながったりすることがあります。
一つの作品だけでも楽しめる。
けれど、複数の作品を読むことで、初めて見えてくるものもある。
ぜひ、それぞれの物語をあわせてお楽しみください。
【人間×生成AIによる合作作品】
企画・原案・設定・ストーリー構成:時根脱才
文章制作・構成補助:ChatGPT(OpenAI)
本作品の世界観、キャラクター、各エピソードの原案・展開は作者が制作し、それをもとにAIと相談・推敲を重ねながら、小説として文章化しています。
本作品は「小説家になろう」「カクヨム」の両サイトに掲載しています。




