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着ぐるみモンスター  作者: 内田紀人
フレイムピジョン編

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第3話「T大でなければ」



『着ぐるみモンスター』 コヨーテライダー編


第3話「T大でなければ」


 図書館の窓には、少しずつ室内の明かりが映り始めていた。


 日が傾くにつれ、外の景色よりも、机に向かう人たちの姿の方がガラスにはっきり映るようになっていく。


 眼鏡の青年は、ノートに並んだ式を上からもう一度たどっていた。


 途中までは合っている。


 解答と違う形になったのは、その次の行からだった。


 消しゴムを手に取り、間違えたところだけを丁寧に消す。すぐに解説を見るのではなく、問題文まで戻り、条件を一つずつ確かめていった。


 すると、まだ式に使っていない数字が一つ残っていることに気づく。


「ああ……」


 思わず声が漏れかけ、青年は口を閉じた。


 もう一度最初から組み立て直す。


 今度は途中で迷わなかった。


 最後まで書き終えて答えを確認すると、解答と同じ数字が並んでいる。


 青年は小さく息を吐き、問題番号の横へ印をつけた。


 答えだけを覚えても意味はない。


 少し形を変えられただけで解けなくなるなら、本当に分かったことにはならない。


 どこを読み落としたのか。


 次に似た問題が出た時、何を先に確認すればいいのか。


 あとで見直せるよう、余白へ短く書き添える。


 そうして顔を上げた時、壁の時計が目に入った。


 青年の鉛筆が止まった。


 予定では、もう次の範囲へ進んでいるはずだった。


 ノートの端には、その日に終わらせるつもりだった項目が並んでいる。済んだものには一本ずつ線を引いていたが、まだ消せていないところが残っていた。


 さっきの問題で、思ったより時間を使った。


 その前にも――少し手が止まっている。


 青年は、斜め向かいの席へ目をやった。


 そこにはもう誰もいない。


 少し前まで、二人の男の子が図鑑を広げていた席だった。


 コウモリの写真を見ながら、机の上で自分たちの指をいっぱいに開いていた。


 片方が「傘みたい」と言えば、もう片方が「そんなことしても飛べないよ」と返していた。


 帰る時には大きな声を出さず、こちらへ小さく頭を下げていった。


 ちゃんと気をつけていたんだな。


 そう思うと、青年の口元がほんの少し緩んだ。


 けれど、視線を戻したノートには、まだ解き終えていない問題が残っている。


 あのあと、すぐに集中できていれば。


 もう少し短く説明していれば。


 そんな考えが浮かび、青年は眼鏡のつるへ触れた。


 教えなければよかった、とは思っていない。


 質問されるのも、一緒に図鑑を覗き込むのも嫌ではなかった。


 二人が説明を読み、自分たちで答えに近づいて顔を上げた時には、こちらまで嬉しくなった。


 コウモリの翼を見て目を輝かせる二人を見ているうちに、もう少し話したくなったのも自分の方だ。


 それでも。


 あの数分を勉強に使っていたら、もう一問くらいは進められたかもしれない。


 青年は、まだ線を引けていない項目を見つめた。


 次の問題を開きかけ、もう一度時計を見る。


 ここに長く残れば、その分だけ帰宅後の予定も後ろへずれる。


 問題集を鞄へ収め、消しゴムのかすを集めた。


 机を片づけて立ち上がる頃には、頭の中でもう、このあとの予定を組み直し始めていた。


     ◇


 帰り道で、青年はコンビニへ寄った。


 弁当の棚を眺める時間も惜しくて、おにぎりとカップ麺を手に取る。


 どこかの店に入り、ゆっくり食事をするつもりはなかった。


 家へ戻ってからも、まだやることがある。


 食事は手早く済ませて、できるだけ早く机へ戻りたかった。


 会計を済ませて店を出ると、自然と歩く速度も上がった。


 道を歩きながら、図書館で最後に解いた問題の手順を頭の中でなぞる。


 途中までは思い出せた。


 けれど、横断歩道で信号を待っている間に、その次の式がうまく出てこなくなる。


 鞄へ手を掛けかけて、やめた。


 ここでノートを取り出すより、帰って確かめた方が早い。


 信号が青に変わる。


 青年はすぐに歩き出した。


 自宅へ戻ると、鞄を置くより先に湯を沸かした。


 その間に上着を脱ぎ、机の上へ参考書とノートを並べる。


 カップ麺へ湯を注いでからは、出来上がるまでの数分で英単語を確認した。


 少しでも空いた時間があれば、何かできる。


 そう考えて動いているはずなのに、夜になると、いつも終わっていないものが残っていた。


 時間になり、蓋を開ける。


 立ち上った湯気で、眼鏡が白く曇った。


 青年は少し顔を引き、眼鏡を外してレンズを拭く。掛け直してから、ようやく麺を口へ運んだ。


 食べながら単語帳へ目を落とす。


 同じ行を二度読んでいることに気づき、青年は本を閉じた。


 先に食べ終えた方が早い。


 食事を済ませ、片づけて机へ戻る。


 図書館で残した問題を開く。


 予定より少し遅くなった分、次を手際よく終わらせればいい。


 机の端には、解き直し用の答案が置いてあった。


 赤い印の脇には、自分で書いた細かな文字が並んでいる。


 知らなかったこと。


 知っていたのに使えなかったこと。


 問題文を読み違えたところ。


 以前は、間違えた問題をまとめて「できなかった」で終わらせていた。


 それでは、次に同じところで間違える。


 だから今は、何が原因だったのかを一つずつ分けて残すようにしていた。


 少しずつ、解ける問題は増えている。


 今回の模試でも、前なら途中で止まっていた問題を最後まで解けた。


 その事実は、青年自身にも分かっていた。


 けれど、成績表へ目を移した途端、それらは急に小さく見えた。


 第一志望。


 T大学。


 その横に記された判定は、安心できるものではない。


 前よりできるようになったことがあっても、まだ届いていない。


 その事実は変わらない。


 青年は答案を一枚めくった。


 また、赤い印が現れる。


「ここも、取れたはずなんだよな……」


 問題文を読み、解答へ目を移す。


 知っている内容だった。


 落ち着いて条件を整理すれば、難しいことを聞かれているわけではない。


 今日、図書館で二人の男の子にも、写真だけで決めずに説明も見てみようと話した。


 答えを急がず、何が書いてあるのか確かめればいい。


 そう教えた自分が、試験では同じことをできていなかった。


 青年は問題文へ線を引いた。


 ふと、昼間に掛けられた言葉が浮かぶ。


 ――分かりやすかった。


 嬉しかった。


 それは本当だった。


 けれど、その気持ちを少しでも追いかけようとすると、すぐに別の言葉が頭へ割り込んでくる。


 まだ大学にも入れていない。


 自分が行きたい場所へも、まだ届いていない。


 だったら、まずはそちらをどうにかしなければならない。


 青年は成績表を答案の下へ重ね、鉛筆を握り直した。


     ◇


 翌日。


 予備校の面談室で、青年は担当講師と向かい合っていた。


 机の上には、今回の模試と前回の結果が並べられている。


「前に落としていたところは、取れるようになってるね」


「解き直しを増やしたので」


「うん。答案を見ると、その成果は出てると思う」


 講師の指が、青年も復習に時間をかけた箇所を示した。


 苦手な問題だけをまとめ直し、解説の文章をそのまま覚えるのではなく、自分なりの言葉で手順を書き直した。


 最初は面倒だった。


 それでも繰り返すうちに、以前より迷わず解けるようになった。


 今回も、その部分は取れている。


 青年は頷いた。


 けれど、その視線はすぐに志望校の判定欄へ移った。


「でも、T大は、まだ厳しいですよね」


 講師はすぐには答えず、用紙を青年の方へ少し寄せた。


「今の結果だけで安心していいとは言えない。ただ、前よりできるようになったところはある。そこは、ちゃんと見てほしい」


「はい」


「できた理由が分かれば、次の勉強にも生かせるから」


 言われていることは分かった。


 自分でも、以前より解ける問題が増えたことは知っている。


 それでも、判定欄の印を見ていると、ほかの数字は遠く感じられた。


「でも、ここで落としてます」


 青年は、赤い印のついた設問へ指を動かした。


「これも、解説を読めば分かりました。こっちも、時間があれば解けたと思います。だから、そこを取れていれば……」


「そうだね。そこは次の課題にしよう。ただ、できるようになったところまで、なかったことにしなくていい」


 青年は口を閉じた。


 今の結果で満足したくない。


 安心した途端、そこから先へ進めなくなるような気がした。


「安心できる点では、ないですよね」


「今のままで十分だとは言っていないよ」


 講師は穏やかな声のまま答えた。


「どこが伸びて、どこが残っているかを分けて見よう、という話だ」


 そして、青年のノートの一行を指す。


「ここに書いてある、間違えた理由の整理はいいと思う。このやり方で、残っているところを一つずつ確かめていこう」


 青年は頷き、その箇所へ付箋を貼った。


 勉強についての相談は、そのあともしばらく続いた。


 やり直す問題。


 先に確認しておいた方がいい範囲。


 時間を掛けすぎているところ。


 持ってきた手帳へ、一つずつ書き込んでいく。


 やることが明確になると、少しだけ落ち着いた。


 できていないところが分かれば、そこを埋めればいい。


 帰ったら、今日の予定へ加えよう。


 そう考えていたところで、講師が机の横から数冊の案内を取り出した。


「それから、志望校のことなんだけど」


 青年の視線が、差し出された表紙へ移る。


 並んでいたのは、T大ではない大学の名前だった。


「第一志望は、変えません」


 講師が続きを言うより先に、言葉が出ていた。


 一瞬だけ、間が空く。


「うん。それは聞いているよ。T大を外そうという話ではない」


 講師は案内を引っ込めず、青年の手元へ寄せた。


「併願先も含めて、少しずつ考えておこう。大学で学びたいのは、生物学だったね」


「はい」


「なら、こちらも一度見てみるといい。生物系の学科がある大学はほかにもあるから、まずは何を学べるのか、案内だけでも読んでみて」


 青年は表紙を見た。


 大学名の下には校舎の写真があり、その脇には学生たちの姿が写っている。


 開けば、学科や研究内容の説明があるのだろう。


 けれど、青年の指は表紙の端へ触れたまま動かなかった。


「僕は、そこへ行くために浪人したわけじゃないので」


 言ってから、自分でも少し強い口調になったと気づいた。


「すみません。ただ……」


「うん」


「今、ほかの大学のことまで考え始めたら、その分、T大の勉強が遅れる気がして」


「受験科目や日程もあるから、全部を片っ端から受けろという意味じゃないよ。調べたうえで、候補を絞ることもできる」


「それを調べる時間があるなら、T大の対策をした方がいいと思うんです」


 青年は、さっき書き込んだ手帳へ目を落とした。


 まだ直すところがある。


 講師も、今のままで十分だとは言わなかった。


 だったら、時間を使う場所は決まっているはずだった。


「ほかの道を考えることと、第一志望への勉強をやめることは、同じではないよ」


 静かな言葉だった。


 それでも青年には、もう届かないと思われているように聞こえた。


 口には出さなかった。


 聞けば違うと言われる気がしたし、もし少しでも迷われたら、それを聞く方が怖かった。


「……まず、今回の間違いを直します」


 手帳を閉じながら言うと、講師は小さく頷いた。


「それは進めよう。案内は持って帰って。今すぐ決めろとは言わないから」


 青年は少し迷ってから、冊子を受け取った。


 成績表と一緒に鞄へ入れ、面談室を出る。


 相談を始める前より、鞄が少しだけ重くなったように感じた。


     ◇


 帰宅すると、青年は受け取ったものを机へ広げた。


 成績表。


 答案。


 大学の案内。


 その横には、以前から置いてあるT大の資料があった。何度も取り出してきたせいで、表紙の角が少し柔らかくなっている。


 生物学を学びたいと思ったのは、本当だった。


 知らなかった仕組みを知ることも、似ているものの違いを調べることも好きだった。


 図鑑や本を読んでいれば、最初に知りたかったこととは別の疑問が見つかって、つい次のページまで読んでしまうことがある。


 T大の資料も、最初はそうやって読んだ。


 大学へ行けば、もっと詳しく学べる。


 自分でも調べたり、確かめたりできる。


 その先を思うと、早く行ってみたかった。


 青年はT大の資料を開いた。


 いつもよく見るところで手が止まる。


 入試に関するページだった。


 以前は、研究内容の紹介や施設の写真も何度も眺めていた。


 いつからだろう。


 大学で何をするかより、どうすれば受かるかを確認する時間の方が長くなったのは。


 そんな疑問が、一瞬だけ浮かぶ。


 だが、青年はすぐに首を振った。


 当たり前だ。


 入ってからのことを考える前に、まず入らなければならない。


 今日渡された冊子へ目を移す。


 一冊の端に、「研究室紹介」という見出しが見えていた。


 講師は、読むだけでもいいと言っていた。


 どんなことをしている大学なのか。


 生物学の何を学べるのか。


 それくらいなら、見ておいても損はないのかもしれない。


 青年は表紙へ指を掛けた。


 その隣に置いた成績表が視界に入る。


 指が止まる。


 ここで違う大学のことを考え始めたら、自分までこの判定を認めてしまう気がした。


 まだ届いていない。


 だから、もっとやる。


 それでいいはずだった。


 T大を目指すと決めたのは、自分だ。


 もう一度受験すると決めた時も、次こそそこへ行くつもりだった。


 そのために問題集を買い、予定を立て、今日まで勉強を続けてきた。


 今になって別の大学の名前を並べたら、何のためにここまでやってきたのか、分からなくなりそうだった。


「T大じゃなきゃ……」


 小さな声が、静かな部屋に落ちた。


 その続きは言わなかった。


 何が駄目なのか。


 何が意味を失うのか。


 そこまで言葉にしなくても、今は分かっているような気がした。


 青年は冊子から手を離し、重ねて机の端へ寄せた。


 T大の資料へ目を戻す。


 表紙の大学名を見れば、何をすればいいのかだけは、はっきりする。


 もっと勉強する。


 足りないところを埋める。


 届くまで続ける。


 青年は手帳を開き、今日の予定へ解き直す問題を書き足した。


 昨日終わらなかった分も、その下へ加える。


 書き終えた頃には、空いていた行がずいぶん少なくなっていた。


 少し詰め込みすぎた気もした。


 けれど、その考えが浮かんだ瞬間、青年はすぐに手帳を閉じた。


 時間が足りないのなら、空いているところを使うしかない。


 鉛筆を置き、壁を見上げる。


 机へ向かえば必ず目に入る場所に、一枚の紙が貼ってある。


 第一志望 T大学。


 自分で書き、自分で貼ったものだった。


 最初は、何のために頑張るのか忘れないためだった。


 今は、その文字を見ると、止まってはいけないと思う。


 紙の端が少し浮いていた。


 青年は立ち上がり、剥がれかけたところを指で丁寧に押さえた。


「……よし」


 椅子へ戻り、問題集を開く。


 机の端へ追いやられた大学案内は、その夜、一冊も開かれなかった。

本作品を含む、凛監修×生成AI合作作品は、同じ世界観の中でつながるシリーズ作品です。

それぞれ単独でもお楽しみいただけますが、同じ出来事が別作品では異なる視点から描かれたり、一方で起きた出来事が、もう一方の物語へつながったりすることがあります。

一つの作品だけでも楽しめる。

けれど、複数の作品を読むことで、初めて見えてくるものもある。

ぜひ、それぞれの物語をあわせてお楽しみください。

【人間×生成AIによる合作作品】

企画・原案・設定・ストーリー構成:時根脱才

文章制作・構成補助:ChatGPT(OpenAI)

本作品の世界観、キャラクター、各エピソードの原案・展開は作者が制作し、それをもとにAIと相談・推敲を重ねながら、小説として文章化しています。

本作品は「小説家になろう」「カクヨム」の両サイトに掲載しています。

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