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その日の深夜、ローエングラード城の地下牢で、ヴェルデは座り込んでいた。石造りの天井から染み出した水がぽたり、と落ち、かびた臭いが鼻に付く。
持っている情報は既にアオイとテオドールに話した。先程まで地下牢が騒がしかったのは、捕らえられたヴィルヘルムの臣下達が次々と放り込まれて来たからだろう。話した甲斐があったというものだ。
ヴェルデはグラスティア家の中でも、突出した暗殺能力の持ち主だった。毒を使い、痕跡を一切残さず暗殺を遂行する。相手が誰であれ、容赦しない。
だが今回は違った。
王太子とは聞いていたが、まさかあんな子供だとは思わなかった。金髪の、少し背伸びした、どこか憂いを帯びた顔をした少年。
弟――アオイを思い出して、躊躇した。
ヴェルデは白いジャケットの袖口から、指に綺麗に収まってしまうほど小さな瓶を取り出した。中に入っている緑色のとろりとした液体は、グラスティア家秘伝の毒薬。一口飲んでしまえば、苦しむ事なくあっという間に逝ける。
「失敗したんだもの…当然よね」
諦めたように微笑むと、小瓶を口元に当て、中身を一気に煽ろうと顎を上げる。
その時、小瓶を持った手首を強く引かれた。
ヴェルデは不服そうな顔で、その人物――アオイを睨み付けた。
ヴェルデの手首を掴んだアオイは小瓶を取り上げると、壁に向かって投げ付ける。ガラスが砕け散り、毒薬が一気に気化して、緑色の煙を一筋残して消えた。
「…何をするの。余計なお世話よ」
刺々しいヴェルデの抗議の声に臆する事なく、アオイは静かに告げた。
「甘いもの」
「…?」
眉をひそめるヴェルデに構う事なく、アオイは言葉を続ける。
「まだ僕の髪が金色だった頃、姉さんは任務から戻って来る度に甘いもの買って、食べさせてくれたでしょ?だからかな、今でも甘いものが好きで、ついつい食べ過ぎてしまう。
姉さんと一緒に甘いものを食べた時間は、僕にとって『家族』と過ごした、温かい思い出になってるんだ」
ヴェルデは思い出す。
暗殺者として、愛情など知らずに育った姉弟。しかし、四つ下の弟だけは、何故か可愛くて、愛おしくて――可哀想だった。
せめて暗殺者として初めて仕事をするまでは、子供らしく純真でいて欲しい。そんな仄かな願いを込めて、甘いものを買って、一緒に食べた。
多くの人を手に掛ける内に、いつの間にか忘れ去っていた、柔らかい時間。
「僕にとって姉さんは、多分…『大事な人』の一人なんだと思う。
だから、まだ死なないで欲しい。『大事な人』と出会って、『家族』を知って欲しい」
アオイはヴェルデの背を、開いた牢の扉の前へと押しやった。抜かりないアオイの事だ。地下牢に難なく侵入して来た事も考えると、恐らく国王辺りから何らかの温情を賜っているのだろう。
ここから踏み出しても、これまでの罪が消える訳ではない。罪を背負って生きていかなければならない。自分はもう、愛情を知らない暗殺者ではなくなる。
ヴェルデは一瞬戸惑うも、扉の外へ一歩踏み出した。アオイの想いが、心の中に流れ込んで来るような、そんな気がした。
「……生意気ね」
ヴェルデは振り返り、アオイの頭を優しく撫でる。そしてそのまま、ふっと姿を消した。
「また会おう…姉さん」
アオイの静かな声は、誰に聞かれる事もなく、溶け消えた。
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数日後、フェリクスが病を理由に退位を表明し、テオドールは正式に王位に就く事になった。
事件の後処理もあり簡素な戴冠式となったものの、王冠を戴き、民衆を目の前に演説を行うテオドールは、紅達と出会った時、無理に背伸びしていた頃よりも遥かに堂々としていた。
「私はまだ無知であり、未熟である。真の賢王となるには時間がかかるだろう。
だが、この国に住む全ての民を、私は家族として愛そう。共に笑い、共に泣き、互いに赦し合い、互いに手を取り合い生きていく為に、全ての者達を護ろう。それが私の、この国の王としての役目だ」
集まった民衆から、大きな歓声が上がった。
演説を聞いていた紅が、嬉しそうに笑う。
「テオ、いい事言うね。家族ってこうやって増えていくんだ」
「そうだな」
蒼龍が隣で頷いた。
「それにしても王様となると、家族の数も半端ないわねえ」
卓は茶化すように言う。だが、その顔は晴れやかだ。
「ま、悪くねえ考え方だな」
アンバーは腰に手を当てて、安心したように肩を落とす。
アオイは、民衆を前に演説するテオドールを見守る。
テオドールの横には摂政として、ヴィルヘルムが控えている。後ろには、幾分顔色の良くなったフェリクスと、ツンと澄ました顔をするアーデルハイトの姿。
関係が拗れてしまっても、何度でもやり直せばいい。それが「家族」。
「…うん、悪くないね」
テオドールがバルコニーから手を大きく振ってくる。アオイは微笑み、小さく手を振り返した。
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ローエングラードを出発したその日の夜、適当な場所を見繕って久し振りの野営となった。蒼龍の作る料理は相変わらず絶品で、アオイの淹れるお茶は相変わらず美味しい。お腹の満たされた五人は、交代で火の番をしながら眠りにつく……予定だった。
「こいつ速攻で寝てんじゃねえか」
スキットル片手にアンバーがぼやく。「宮殿で贅沢三昧だったから、野営で寝られるか分かんないわあ」と宣っていた卓だが、お腹を満たした途端に爆睡を始めた。
「仕方ない。最初はアオイ、頼めるか?」
「もちろん」
「悪りぃな。交代時間になったら起こしてくれ」
蒼龍は寝床に入る。アンバーも毛布を被り横になった。二人ともすぐに寝息が、アンバーに至っては鼾まで聞こえてくる。
紅は既に深く眠っているようで、相変わらず「ご飯…」と寝言で呟いている。アオイは思わずくすり、と小さく笑った。
焚き火の火が小さくなり、一筋の煙を残してふっと消える。
風が吹き、アオイの前髪を揺らした。
その目に宿るのは――迷い。
アオイは白衣のポケットから、くたびれた小さな紙片を取り出して広げる。そこに書かれている、『暗殺対象 コウ・ヒユウ』という文字を、アオイは揺れ惑う目で見つめた。
いつからだろうか、暗殺対象として見られなくなっていた。むしろ、「殺す」という考えすら出てこなくなってしまった。
付け加えられていた一文。
『対象者となるべく長い時間、共に過ごす事』
その結果が、「対象者」を「家族」に変えてしまった。
「…どうして」
アオイは溜息を吐いて、破り捨てたい衝動を抑えながら、紙片を折り畳みポケットに仕舞う。そしてすやすやと眠る紅の蹴飛ばした毛布をそっと掛け直し、静かに呟いた。
「どうして僕は、殺せなくなってしまったんだろう」
アオイは目を伏せた。エメラルドのような瞳から、光が消え去る。
誰にも打ち明けられない秘密に、心の中の均衡が、少しだけ崩れる音がした。




