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忌まわしき満月の夜の後、蒼龍は燈照仙人に言われた通り、崑崙山脈の麓にある桔梗の里へと降った。しかし里の中に住む事はせず、半刻ほど離れた山中に小さな庵を建て、人の目から隠れるように暮らし始めた。
朝から昼間にかけては里の周囲に巡らせた結界に綻びがないか丹念に見回り、夕方近くになると里に一番近い大岩の上で坐禅を組み、地脈を伝って里を流れる小川の水脈を整える。夜は狐狸精の群れが里を襲わないよう常に気を張り、時には仙術を使い退治する。
里の者とはごく稀に、食料や生活必需品を買ったり、薬草を売ったり――たまに自らの龍の鱗を売ったり(はじめ里の薬師はとんでもなく貴重な品を目の当たりにして卒倒した)する以外の交流はない。
ただ人知れず、里を護っていた。
そして満月の夜には、里からなるべく遠くまで、隠れるように離れる。
龍になった時の自分は何をするか分からない。その恐怖心が、蒼龍をひたすら孤独へと向かわせていた。
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それから三年。
「あの人、今日もやってるねえ」
「いつもあそこに座って、一体何してるんだろうねえ」
「太公望って訳でもなさそうだしねえ」
里の者達は、農作業をしながら遠巻きに蒼龍の姿を見ていた。
日が西へ傾いた頃、四季折々の草花に満ちた美しい里の外では、今日も蒼龍が小川のほとりにどっしりと構える大岩の上で坐禅を組んでいる。その姿は大岩と相まって、まるで護神のようだ。
蒼龍の気は岩を伝い、土の様子を伺い、そしてそのまま小川の水へと巡っていく。何か引っ掛かりを感じたらそこへ集中的に気を送り、全ての循環が滞らないように整えてやる。豊かな土壌と美しい水があれば、農作物や植物が生き生きと育つ。
蒼龍のお陰で、桔梗の里では豊作が続き、草花は絶える事なく美しく咲き誇っていた。
里の脈を整えた後、蒼龍は久し振りに森で取れた薬草を薬師に売り、店を出た所で声を掛けられた。
「ツァン兄さん!」
水仙である。里では唯一、蒼龍に積極的に声を掛ける娘。蒼龍は軽く頭を下げる。これが彼なりの挨拶だ。
「薬草売りに来たの?」
「ああ」
「ツァン兄さんが採って来てくれる薬草、いつもすごく良いって薬師さんが喜んでたよ!」
「そうか」
「今日はうちの野菜持って帰る?」
「いや」
会話は続かず、あっという間に里の出口まで来てしまう。水仙は里の外が危険だと知っているので立ち止まり、そのまま里を出て自らの庵に戻っていく蒼龍の後ろ姿を見送る事しか出来ない。
「ツァン兄さん…もっと喋ってくれればいいのに」
水仙は呟く。
蒼龍は無愛想で口数も少ないし、里の者とも自ら関わろうとしない。だが、その目の奥に優しく、そして寂しそうな光が宿っている事を水仙は知っていた。
水仙だけではない、里の者は皆思っていた。
「変わり者だけど、優しくて…寂しいはず」
ただ、彼が心を開いてくれない。それだけが少しだけ悲しい。
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日が暮れる山道を、蒼龍は急いで庵へと向かう。今宵は満月。天頂に昇るまであと数時間、早く遠くへ行かなくてはならない。気持ちに合わせて歩が逸る。
ふと、道端の草むらから、ぐるるるる…と妙な音が聞こえた。視線をやると、黒くて細長い妙なものが生えている。里へ害なすものであれば大問題、蒼龍は臆せず草むらを掻き分けた。
そこには一人の少女が、眉を八の字にして情けない顔で倒れていた。妙な音は少女の腹の音、「生えてる」と思ったものは、彼女の持つ刀の鞘の先端だったようだ。
「……お腹空いた……死ぬ……」
絞り出すようなか細い声で、少女は呟く。どうやら空腹で遭難している様子である。見つけてしまった手前、放っておく訳にはいかない。蒼龍は迷わず少女の腕を取り、立ち上がるように促した。
「立て。飯を作る」
「…神様!」
「違う」
桔梗の里より山を登った樹々の間に、蒼龍の庵はひっそりと建っていた。木材を組み立てた、居間と台所、寝所だけの簡素な造りだが、檜造りのそれの中は仄かに爽やかな香りが漂う。
蒼龍が手早く作り食卓に並べたのは、薬膳を基本とした大皿料理だった。多種大量のご飯を前に目を輝かせる少女は「美味しい」を連発しながら、凄い勢いで片っ端から平らげていく。
「よく食うな」
蒼龍は特段驚く様子もなく、自身も食事を摂る。龍の血が入っている為か、こちらも負けじと大食漢だ。
「どれも美味しいし、食べた事ないものばっかり!この透明な大根みたいのは何?」
「冬瓜だ。食べ過ぎても浮腫まない」
「この茄子の揚げたのも美味しい!」
「茄子は胃もたれしない」
食べながらよく喋る少女に、蒼龍も自然と口数が多くなる。そういえば、こうして誰かと食事を共にするのはいつぶりだろうか。いつもとは違う食卓に、常に仏頂面の蒼龍の顔は僅かに綻んでいた。
大皿が全て綺麗に空になる頃、少女は箸を置き手を合わせた。顔には満足そうな笑みを浮かべている。
「あー、どれも本当に美味しかった!
私、緋夕紅。あなたに会わなかったらあそこで餓死してたかもしれない。本当に助かった!ありがとう!」
そう言って、少女――紅は合わせていた手を解き、蒼龍の前に差し出した。
「楊蒼龍だ。礼を言われるまでもない」
蒼龍は謙遜しながら、差し出された手を握った。温かい手の感触に、少し戸惑う。
「一夜の飯のお礼」と称して後片付けを申し出た紅だが、皿は割るわ水を撒き散らすわで台所が大惨事になり、結局蒼龍の仕事が増える羽目になった。
落ち込む紅を他所に、台所を片付け終えた蒼龍は野営の支度を始める。
「こんな夜にどこ行くの?」
「夜警だ。この辺は夜になると狐狸精の群れが出る」
それを聞いた紅は、椅子から勢いよく立ち上がった。
「じゃあ夜警を手伝う!」
「断る」
「何で!?」
「危険だ」
「大丈夫!私こう見えて結構強いよ?」
強い事は、先ほど握手を交わした時に悟っている。剣ダコの出来た、相当な手練れと受け取れる手をしているからだ。だが、蒼龍が断りたい理由はそこではない。
今日は満月なのだ。
龍化を知られる訳にはいかない。
もう一つの危険な姿に、この少女を巻き込んでしまったら――自分にはもう、絶望しか残らない。
しかし、事情を知らない紅は引き下がらない。いかにも頑固そうな瞳が蒼龍を真っ直ぐ見据える。
「一人よりも二人でやった方が安全でしょ?それに、このままお礼が出来ないのは私が悲しい!
ダメって言ってもダメ!勝手に着いていくからね!」
どうやら、相手から受けた恩は何らかの形で返さないと気が済まない質らしい。鼻息荒く迫る紅に、蒼龍は眉間に手を当てて大きく溜息を吐いた。恐らくこの少女を説得するのは難しいだろう。
こうなれば狐狸精を手っ取り早く片付けて、満月が昇る前に土遁を使って素早く紅の前から立ち去るしかない。蒼龍は腹を括った。
「…分かった、それならさっさと終わらせるぞ」
「やった!」
二人は連れ立って庵を出ると、すっかり日が暮れて闇に塗り潰された樹々の間へと入っていった。




