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朝霧村での出来事よりひと月前。
まだ薄暗い朝靄に包まれた中、炎帯人一族の本家である緋夕家の屋敷の勝手口が静かに開く。紅はひょこっと顔を出し、辺りに誰もいない事を確認すると、目一杯荷物を詰め込んだ背嚢を背負い、そろりそろりと忍び足で屋敷から出て来た。
そのまま勝手口の門へと向かい、敷地の外へ出ようと、歩を進めた。
「何してるんですか」
背後から声を掛けられ、紅は思わずびくっと身を竦ませる。ゆっくりと振り返ると、そこには紅と同じような赤茶色の髪をツーブロックにした青年が、同じような柘榴色の瞳をジト目にして立っていた。炎帯人の象徴である赤い羽織りに、背には大きな両刃剣を背負っている。
「あ……臙脂、朝早いね…」
「付き人が当主より朝早いのは当然です。それに、『夕』の人間と違って、『朝』の人間なので早起きは得意なんですよ」
青い顔で頬をひくつかせて笑う紅に、分家出身の付き人――緋朝臙脂はバッサリと言い放った。
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伊勢国の南側のどこか、炎帯人の一族が住む集落。決して大きくない集落には、西に大きな本家の屋敷、東に小さな分家の屋敷がある。西の本家・緋夕は女性、東の分家・緋朝は男性が代々取り仕切っていた。
一族は基本的に集落の中で暮らすが、どこかで争い事があればそこに赴き平定する。そのまま赴いた地に定住する者もいるが、ほとんどの者が集落へ戻り一生を終える。
よって炎帯人の一族は、子供の頃から歳を取り死ぬまで、皆が皆の事をよく記憶していた。
ところが紅には、一年前より以前の記憶がない。
ふと気付いたら十五歳の身でこの世に存在していて、緋夕家の当主として炎帯人を取り仕切る立場にあった。周囲の年寄衆や臙脂をはじめとした付き人達は、甲斐甲斐しく自分の世話をしてくれる。
そして、過去の話は頑なに口を閉じるのだった。「過去の事など何も知らなくて良い」といった風に。
今の生活に不満がある訳じゃない。過去の事がどうしても知りたい訳じゃない。
けれど、常に付き纏う、自分なのに自分じゃない、もやもやとした感覚。
「私は何者なんだろう」という、漠然とした疑問。
誰も教えてくれない、本当の私。
――ならば、自分で探しに行こう。
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紅は臙脂に向かって摺り足で寄ると、手を合わせて小声で懇願した。
「お願い臙脂!当主なのに身勝手なのは分かってる!けど私、『本当の自分』が分からないままじゃ、みんなを導く、ちゃんとした当主になれないと思ってるの。
外の世界を見たら、何かの形で『本当の自分』が分かる気がする…だから、このまま旅に出させて!」
柘榴色の真っ赤な目が臙脂を見つめる。臙脂は溜息を一つ吐いた。
「…構いませんよ」
「…え?」
臙脂の意外な返答に、紅は思わずつぶらな瞳を大きく見開く。臙脂は困ったように笑った。
「紅様の『本当の自分』について、僕の口から語る事はありません…出来ない、と言った方が良い。それはご自身で探す他ないのですから。
人生とは己を探す旅、人は皆、自分を知る権利がある。
そして紅様にももちろん、自分を知る権利がございます」
臙脂は、勝手口の門を静かに開ける。かちゃり、と小さく錠が開く音がした。臙脂は促すように、門の外へと腕を伸ばす。
「紅様、世界は広いです。色々な事を経験し、そしてご自分の糧とされて下さい。きっとその中にご自身の求める『本当の自分』も見つかる事でしょう。
どうぞお気を付けて行ってらっしゃいませ。そして、必ず無事にお戻り下さい」
「……ありがとう、臙脂!」
紅は臙脂の手を握ると、背嚢を背負い直し、門を潜る。
門の外には、朝露の残る草原が広がっている。紅は一歩踏み締め、朝の空気を胸一杯に吸い込んだ。程良く湿気を帯びた心地良い朝霧が、全身に染み渡る。
「行ってきます!」
こうして、一人の少女は「本当の自分」を見つける為に、密かに旅立って行った。
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朝もやの中に消えていく紅の姿を見送る臙脂の背後に、いつの間にかもう一人立っていた。
「行ったの?」
投げ掛けられた低い声に臙脂が振り返る。炎帯人らしからぬ蜂蜜色の長い髪、すらりとした美しい肢体の持ち主は、空色の瞳に気怠げな、しかしながらどこかしら楽しげな雰囲気を湛えて、勝手口横の壁にもたれていた。
臙脂は笑って答える。
「ええ、ようやく」
「アンタこれから怒られるんじゃないの?緋夕のババア共に。当主が出奔なんて、シャレになんないわよ」
「怒られるに決まってるじゃないですか」
「損な役回りねえ」
金髪の人物は呆れたように言う。臙脂は苦笑しながら続けた。
「そもそも紅様が言う事聞く訳ないでしょ。
それに紅様はこれから、たくさんの人と出会って、たくさん笑って、たくさん泣いて……たくさんの愛を知るでしょう。
その中で本当のご自身の姿を知り…幸せになっていただく。それが僕が紅様を止めなかった理由です」
臙脂の言葉に、金髪の人物も壁から背を離す。豊かな金髪を長い指で優雅に掻き上げると、その美貌に笑みを乗せた。
「そうね」
二人は並んで、今はもう見えなくなった、紅が走って行った方向をいつまでも見つめていた。
「元気でやんなさい、紅ちゃん」
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時は戻り、朝霧村を出発した紅は、当てもない旅を続ける。大きな背嚢を背負い、佐吉から受け取った、トメの作った大きな握り飯を頬張りながら山道を一人歩く。
穏やかな陽気は紅の身体を暖かく包み込み、時折吹く風もどこか優しく、紅の髪を揺らす。
「一人もいいけど…」
紅は空を見上げて、一人呟いた。
「やっぱ誰かと一緒にいた方が楽しいよねえ」
空高く鳶が舞う。
その下には、まだ何も知らない十六歳の少女。
その先には、まだ誰も知らない、数え切れない出会いが待っている。
少女の旅は、まだ始まったばかりだ。




