66「個別指導の初日」
「いいですかキャサリーナ。これは正式な仕事なんですからね。アダチヤマさんが文字を覚えられるように、しっかり教えるんですよ」
「はいはい。ちゃんとやるから、もうオバさんは出て行ってよ」
初対面の印象も最悪だったが、この口の利き方の悪さでまともに人に何かを教えられるとは到底信じられない。
思いきり『チェンジ!』とでも叫びたい気分だが……コヨンさんの姪っ子なんだろうし、コヨンさんには世話になってるしなぁ……ここは我慢するしかないか。
「それでは……私は近くの魔道具室で作業をしていますから、何かあれば呼んでください」
コヨンさんも普段とは違う、なんだか不安そうな目をしながら俺たちを見つめつつ、退室していった。
どうしよう、俺も凄く不安だ。まあ、シノも仕事しながらとはいえ見てくれているわけだから、何かあればシノに頼るか……。
「えっと、それじゃあお願いします。一応紙とペンは持ってきてるんですが、教科書なんかが無くて……」
本当はこんな無礼な人間に敬語なんて使いたくないが、一応こちらが教えてもらう立場だ。金を払っているとはいえ、最低限の礼儀だけは守るべきだろう。
「あー、本は図書室で見繕ってきたからこれ見なよ」
キャサリーナさんはそう言うと、ぽいっとテーブルの上に投げるように一冊の本を置いた。
態度や本の扱いはちょっと気になるが、一応俺の為に図書室で教科書を見繕っておいてくれたのだろうか。態度は悪いが、ひょっとしたら勉強については真面目な人なのかもしれない。
とりあえず置かれた本をめくり、中を見てみる。
うん、当たり前だが何が書いてあるのかさっぱりわからない。
「じゃ、まず一ページ目を書き写しといてよ」
「え……?」
書き写せと言われても、俺にとってわけの分からない記号を、わけの分からないままただ書き写しても、何の勉強にもならない気がするんだが……。
「いや、その……文字が何一つわからない状態なので、どれがどういう文字なのかがわからないと、書き写してもあまり意味が無いんじゃないかと……」
「はぁ? マジで一文字も読めないとか、田舎の子供以下って事ぉ? 今時子供でも名前くらいは書けるっつーのに、本当にゼロからやるのかよ……めんどくさいなぁ……」
うん、俺こいつ嫌いだ。
「キャサリーナさ~ん、ちゃんと見てますからね~? もっと丁寧に! ……指導してくださいね~?」
声色で何となくわかる。シノも少し怒っているようだ。
まあ、一応これはギルドに頼んだ依頼なんだし、その依頼を受けた人間がこんなんじゃあ、ギルドとしてもちょっと問題ありそうだからなあ……。
「はあ……こんなの幼児コースじゃん。黒板も無いのにさあ……」
そんなシノの圧なんか気にもせずに態度も変えないキャサリーナさんは、ある意味では凄いのかもしれない。
しかし、百歩……いや、千歩ぐらい譲って考えて、もしかしたら本当にゼロから教えるのを想定していなかったのかもしれない。
確かに俺も、いきなり幼稚園児に文字の書き方をゼロから教えろと言われたらどう教えるべきかちょっと困惑するからな。それはそれとして、やっぱりこの人は好きになれる気がしないけど。
「オッサン、ちょっとその紙一枚使うよ」
オッサン……というのは俺の事だろうか、まあそうなんだろうな。少し懐かしくも思える、俺のあだ名の一つだったわ。
俺が返事をする前にキャサリーナさんは紙を一枚取り、サラサラと何かを書きだした。
「これが『あ』で、これが『い』で、これが──」
なるほど、五十音表のようなものを書いてくれたのか。教えようとする気持ちが全く無い訳じゃないんだな。
でも早口すぎてまだよくわからない。せめて書いた隣に日本語に置き換えた文字でも書いたらもっとわかりやすいんだろうけど……。
「す、すみません……もう少しゆっくりお願いします……」
我慢だ我慢……。ゆっくりもう一度教えて貰いながら、隣に対応する日本語でも書いて覚えていこう。
しかしこれなら、変なプライドを捨ててミリィに教えて貰った方が何倍もマシだった……。
「オッサン、大学に行ってたんじゃねーのかよ……一回で覚えろよ……」
まったく知らない他の言語を、たった一度で覚えられる奴がどれだけいるんだよこの野郎。それに別に俺は大学生じゃねーし。まあ、日本での高校生がこっちでは大学くらいなんだろうけどさぁ。
じゃあお前も日本語の五十音表書いたら一度で覚えられるんだろうなぁ?
……と、思いきり言ってやりたい気分だ。
「……ったく、ちゃんと覚えろよな」
ただ、文句は言いつつも、今度はゆっくりと一文字ずつ教えてくれている。
今度はちゃんと覚えやすいように、キャサリーナさんが言った文字に対応する日本語を書いていく。
もうこの人にあまり期待はできないからな。せめて自分なりに覚えやすい方法を模索しないと。
「覚えた? じゃあその表を何度も書き写したらいいんじゃね? 反復練習が結局一番覚えられるんだし」
ちょっとだけ正論を言っているのが更にムカつく。
確かに地味な反復練習が大事なんだよな……。
それから数十分、ずっと書き写しを続けていると、少しだけ気付いたことがある。
意味の分からない記号化と思っていたけど、多少は法則性があって、英語とかローマ字とか、そういう物に近いんだと思う。ある程度法則が分かってきたら、覚えるのも少しは早くなると思うんだけど……。
日本語でいう所の『め』と『ぬ』みたいな、微妙な違いで分かりにくいものがちょいちょいあるんだよな……なんか覚え方のコツとかないだろうか。
「ちょっと質問なんですけど、この文字とこの文字の違いが分かり難くて……」
ダメ元で聞いてみよう。
というか、これは個別指導と言えるのだろうか? せめて少しくらいはちゃんと教えて欲しい。
「は? そんなの見れば分かるじゃん」
「いや、だから分からないから聞いてるんだけど……」
「頭良いんじゃ無かったのかよ……はぁ……」
こいつ……本当に教師を目指してんのか?
生徒が質問してきても同じように返すつもりなんだろうか?
さすがに苛立ってきて、何か一言言い返してやろうかと思ったその時。
「キャサリーナさん?」
作業していた手を止めて立ち上がり、顔は笑顔のままなのに恐ろしいオーラを振りまいているかのように見えるシノがそこにいた。
「教師を目指しているそうですけど~、教師という職をちゃんと理解してますか~? 師となり、教え導く事なんですけど~、あなたのそれは誰かを教え導くものでは無いですね~。あなたの今の態度を見る限り、それは教えるというよりも、ただ自分の優位性を確認して悦に入りたいだけに見えますね~。教師という職を、随分と都合の良いサンドバッグと勘違いしていませんか~?」
『憐憫と愛憐と執愛を確認。体力を回復しステータスが上昇します』
スキルがなぜか発動したと思ったら……何だ、この聞いた事の無い単語の羅列は。
たぶん、シノはギルドの為とかそういう事じゃ無くて、俺の為に怒ってくれて、その関連で発動したんだろうけど……初めて聞いた言葉だらけでもはや何が何だかわからない。
ただ、どれも純粋な感情では無い気がする……。
「だ、だって! アタシだって人に教えるとかやった事無いし!」
コヨンさんもそんな事を言っていたが、確かにそうなんだろう。
自分が理解していることを他人にも理解できるように教えるのは、思った以上に難しい。頭がいくら良くても、教えるのが下手な人なんてのは珍しくもないからな。
だからといって態度が悪すぎたのはどうしようもないと思うけど。
「その練習に最適の機会だったんですけどねぇ。教師というのは、知識があるだけだったり、知識を並べるのだけが上手な人の事ではありませんよ~。相手に届く言葉を選び、一緒に悩んだり怒ったり、生徒と共に成長しようとする人の事です。今のあなたの態度は、導く事とは対極にある、ただの自己満足ですよ~。──それと、私も好きな人を貶されてずっと黙っていられるほど、優しくは無いんですよねぇ……」
……驚くほどのシノの正論だ。でも、俺もキャサリーナさんには正直苛立っていたし、シノの言う通りだと思う。
そして、まだ俺を好きな人だと言ってくれるのは、ちょっと嬉しい。
「はぁ? 何なの、アンタ等付き合ってんの!? 共謀してアタシを陥れようって事!?」
「今さら私をおだてても無駄ですよ~? ちゃんとコヨンさんには報告しますからね~」
……いや、おだててない、おだててないぞシノよ。
付き合ってるって言われたの、嬉しかったのだろうか?
「意味わかんないんだけど! アンタには関係ないでしょ!」
「理解できていないみたいですけど、あなたは今日、仕事をしてるんですよ~? 私はその監視役です。関係は大ありですよ~?」
ああ、もうすっかり二人で言い争いが始まってしまった。いや、争いというよりはキャサリーナさんが一方的に何か言ってるだけか。
何だか本当に、嫌いだった女生徒を思い出すなぁ……。
それからしばらく、ぎゃーぎゃーとキャサリーナさんが騒いでいたのだが、シノは静かに怒りながら反論していた。それも、敬語は崩さないままだ。そこまでシノとも年齢差は無いはずだが、ちゃんとした社会人と学生の差を感じるな……。
「何かあったんですか? 先ほどから他の部屋まで声が響いてますよ?」
保護者……コヨンさんがとうとう騒ぎを聞いて部屋に戻って来てしまった。
「ちょっとオバさん、話が違うんだけど! ここまで何もできない奴に教えるとか聞いてない!」
「……何があったんですか? キャ……いえ、シノビアラ。教えて貰えますか?」
一瞬、キャサリーナさんに事情を聴こうと思ったのだろうけど、すぐにシノに事情を聴くことにしたようだ。実際、キャサリーナさんに聞いても言い訳しか出てこないと思う。
「まあ、想像通りだと思いますけどね~……」
そこから先は、シノが惨状を説明して、キャサリーナさんが反論というか言い訳をして、それを二人から冷静に詰められ、説教されていた。
あまりいい印象は持てない人だけど、二人からいっぺんに詰められて何も言えなくなっている様は少しだけ可哀そうだった。
本当は勉強はできる人なのかもしれないけど、それ以外が色々と未熟だったんだろうな。
特に人に接する態度は、自業自得と言うしかない。
「……教師って、こんな難しいと思わなかった」
そして最後にそんな台詞を言い残したキャサリーナさんは、コヨンさんに促されて退室していった。
俺の個別指導の初日は、散々なスタートだった。




