48「森の調査」
森の中へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わったような気がした。
畑周辺ではあまり感じられなかった、草と土の匂いが濃い。
それに、木々が日差しを遮っているせいか、まだ昼間だというのに少し薄暗い。
そこまで街から遠くないのに驚くほど静かで、自然と声も小さくなる。
「……森って、こんな感じなんだな」
「まだ入口付近だから安全な方だけどね」
メルも周囲を警戒しながら、小声で返す。
一方でシノさんは、しゃがみ込んでは地面を見たり、時々木の幹へ触れたりしながらゆっくり進んでいた。
「足跡とか痕跡って、そんなに分かるものなんですか?」
俺が聞くと、シノさんは小さく笑う。
「う~ん、綺麗に残ってる事の方が少ないですよ~? 土が硬い場所だとほとんど残ってませんし~」
そう言いながら、シノさんは地面の草を指差した。
「でも、ほら~。ここだけ草の倒れ方が変なんですよねぇ~。それに、この枝も折れてますし~」
言われてみれば、確かに周囲より不自然に草が潰れている。
俺一人なら絶対気付かなかっただろう。
「ゴブリンって群れで動くので~、一匹だけなら痕跡を消せても、数が増えると結構雑になるんですよねぇ~」
そう言ってシノさんは、今度は木の幹へ軽く触れた。
「あと、この辺り……少し臭いますねぇ~」
「臭う?」
俺も鼻を利かせてみるが、土と草の匂いくらいしか分からない。
「スカウトスキル持ちですからね~、他の人よりは気付きやすいんですよ~。獣臭さと、生ゴミみたいな臭いが混じるんです~」
スカウトスキルがあればそういう事にも気付けるようになるのか。
でも……凄い事だし、こういう場では大事な事だけど、そういう臭いに敏感になるのはちょっと俺は遠慮したいな……。
「でも……周辺にモンスターがいる気配が全然無いですねぇ。もうちょっと奥まで進んでみましょうか~」
そういった痕跡探しでは俺たちは役に立てなさそうなので、大人しくシノさんの言う事に従う。
先へ進みながらも、シノさんは周囲をしっかりと観察している。俺たちも色々と見てはいるのだが……ハッキリ言って何がどう違うのか、どうおかしいのかがわからない。
メルはまだ旅慣れているだけあるのか、多少なり理解できるのだろうが……俺とミリィは正直言って調査では役立たずだ。しかし何もしない訳にもいかないので、とりあえず周囲の木なんかをしっかり見ている。
「あ、ゴンゾーさん。これ見てくださいよ」
他の皆が周りをしっかり見ている中、ミリィが俺にこっそり声をかけてくる。
何だろう、何か内緒の話でもあるのだろうか。
「どうした……? って、おいこれ……」
ミリィが指さした先には、十五センチ近い大きさの、キラキラと輝くカブトムシによく似た昆虫がいた。
「凄いでしょう、サンライトヘラクレスですよ! カッコいいですよね……」
その名を聞いた瞬間、俺の胸の中で何かが弾けた。
指先でそっと触れてみると、驚くほど硬質な感触が指に伝わってくる。光を受けて虹色に揺らめくそのツノは、少年時代の自分が図鑑のページをめくりながら憧れ続けた『最強の甲虫』の姿そのものだった。
「凄ぇカッコいいな……異世界にもいるんだなぁ、こういうの」
未知の脅威なんかで張り詰めていた俺の心が、一瞬で少年のそれに塗り替えられる。
気が付けば、さっきまでの緊張感なんて頭から吹き飛んでいて、俺は夢中でその雄姿を観察していた。
完全に見入っていた……だから気付かなかった。
「……あの~? 二人とも、遊ばないでくださいね~?」
「うわぁ! す、すみません……見慣れない虫だったので……」
シノさんの呆れたような声で、俺とミリィは慌ててサンライトヘラクレスから距離を取る。
確かに今はモンスターの調査中だ。森の中で虫に夢中になるのはさすがに緊張感が無さすぎた。
「……まあ、確かにサンライトヘラクレスは珍しいですけど。……それにしても、虫が好きだなんて変わってますねぇ」
シノさんは少し不思議そうに首を傾げている。
メルもどちらかと言えば、虫は苦手そうな顔をしていた。
「そうですか?」
「ええ、普通は虫なんかは気持ち悪がるものですからね~」
まあ、それは分かる。
実際日本でも虫が苦手な人は多かったし、蜘蛛やムカデなんかは俺もちょっと嫌だった。 でも、カブトムシやクワガタだけは別だ。あいつらは少年の心をくすぐるフォルムをしている。
「うーん……それは魅力を知らないからじゃないですかね」
俺は少しでもこのカブトムシという特別な虫の魅力を伝えたくなり、言葉を続けた。
「実際に知ってみると、案外面白かったりするんですよね。まず、見た目。特にこのツノがカッコいい! こんなに小さいのに自分の重さ以上の物でも動かせるパワーがあるし、よく見るとつぶらな瞳してて可愛い所もありますし。よく知ればきっと好きになると思うんですよね」
そこまで言ってから、俺はもう一度サンライトヘラクレスへ視線を向ける。
硬質な外殻が光を反射して、きらきらと様々な色に変えていた。
やっぱりカッコいい。
「そうですかぁ……」
シノさんは少しだけ不思議そうに目を細め、サンライトヘラクレスを見続けていた。
それはまるで、何か別のものを重ねるような視線だった。
「皆が、あなたみたいに深く知ろうとしてくれれば、いいんでしょうけどねぇ……」
どこか寂し気な声だった。
何も理解されなかった……というよりも、理解される事を諦めたかのような、そんな風にも聞こえた。
「……ともかく、調査を続けましょうか~。ゴブリンは昆虫も食べるので、サンライトヘラクレスがここにいるという事は、周辺にはゴブリンは居なさそうですねぇ。先に進んじゃいましょうか~」
ああ、ゴブリンって昆虫も食べるんだ。
サンライトヘラクレスよ、頑張って生き延びるんだぞ……。
それから更に奥へ進み、また同じように調査を続けていた。
しかし、モンスターと一向に出会う事が無い。安全面で言うならば嬉しい事なのだろうが……やはり何も出てこないというのは逆に不気味にも思える。
「森ってのはこんなに静かなものなんですか?」
「いいえ~、普通なら何体かモンスターと遭遇していてもいいんですけど、ここまで出会わないのは不自然ですねぇ。結構奥まで来ましたけど……とりあえずこの辺りの痕跡を探してみましょうかぁ」
「はーい。……ゴンゾーもミリィちゃんも、今度はサボっちゃだめだよ?」
先ほどサンライトヘラクレスに二人で夢中になっていた事をメルに注意される。
……今度はちゃんと真面目に探そう。さすがにミリィも今度は探しているみたいだし。
ただ俺は普段と違う異変のような痕跡はわからない。
せめて、分かりやすい足跡のようなものがあればいいのだが……。
「ん……?」
顔を地面に近づけて、しっかりと確認していると、茂みの奥に向かっていくような足跡のようなものが見つかった。ただ、これは本当に足跡なのだろうか?
もっと近づいて確認しようと思い、茂みの方に足を踏み入れた。
その時だった。
「うおっ!?」
茂みの向こう側――そこは普通の地面ではなかった。平地ではなく、急な傾斜になっていたのだ。
俺はバランスを崩して、慌てて周りの草なんかを掴もうとするが、掴めたのは頼りない葉先だけだった。次の瞬間には、俺の体はなす術もなく斜面を転げ落ちていった。
「うわあああああ!」
ズザザザッ、と地面を削るような音が聞こえる。
「ゴンゾー、大丈夫!?」
遠くからメルの声が聞こえる。しかし、今の俺からは皆がどこにいるかはわからない。
体が痛い。しかし、斜面が終わり視界が開けた瞬間、背中の下が無になるのを感じた。
……崖だ。
そう気づいた時、俺は一瞬の浮遊感を味わった。
風を切り、数メートルの虚空を舞う。ほんの一瞬の滞空時間だったが、それはとても長く感じられた。
それから、視界がぐるりと回転したかと思うと、俺の体は崖下の茂みへと叩き付けられた。
「ぐ……はっ……」
ドスン、と大きな音がした。俺自身が落ちた音、嫌な音だ。
全身が痛い。衝撃のせいか、息が吸い込めなくて苦しい。
「大丈夫ですか!?」
シノさんの声が聞こえる。いつもの間延びした口調ではなく、緊迫した声だ。
視界はぼやけている。
「ゴンゾーさん! ゴンゾーさぁん!!」
今度はミリィの声だ。今にも泣きそうな、聞いた事のないような声。
ああ、皆を心配させてしまった。ただの俺のドジだったのに。
とにかく、俺はまだ生きている。なんとかそれだけはすぐに伝えてやらないと。
「だ、大丈夫……。何とか……生きてるよ……」
思った以上に声量は出なかった。確認はできないが、思ったより怪我は酷いのかもしれない。
まだ全身が痛む。どこかの骨にヒビくらいは入ったかもしれない。しかし体感だが、死ぬような怪我では無いだろう。
「ど、どうしよう……あんな崖下に落ちちゃって……。私達も早く下りないと……!」
慌てたメルの声だ。いつもの元気さが無い。
「……とにかく、落ち着きましょう。……五メートル近くありますねぇ。これは私一人でも降りるのは厳しいです。どこか下りる場所を見つけて、ミリィさんの回復魔法を早くかけてあげないと……」
こういう時でもシノさんは冷静だ。確かに体中は痛いが、こういう時は焦ってはいけないという事は俺もよく知っている。武道の練習でも事故はあるからなぁ……。
「大丈夫です。わたしに任せてください」
崖上からは、普段とは違う凛としたミリィの声が聞こえた。
いつもの幼女ではなく、俺を間違えて殺した、初対面の時。
天使長だった頃を思い出させるような声だった。




