46「シノビアラの実力」
「……本当に一人で大丈夫なのか?」
既に十メートル以上離れたが、構わずシノビアラさんは一人で草むらを進んでいく。
「うん。シノビアラさん、かなり強いから心配はないと思うよ。私達とはレベルの差もあるけど、何か走ってる音なんて、聞こえないし……」
「はぇ~……わたしには全然分かりません……」
ミリィは感心したように声を漏らしているが、お前は天使なんだからそういうの分かれよ。
そんな事を考えていると、不意にシノビアラさんがぴたりと足を止めた。
そして、すっと片手を上げる。
『止まれ』か『動くな』という合図だろう。
俺たちも慌ててその場で足を止める。
「……来ましたね~。ファングボアでしたか~」
間延びした静かな声。
だが、その赤い瞳は真っ直ぐ奥を見据えていた。
次の瞬間──地面を揺らすような大きな音が響く。
「うおっ……!?」
草むらを突き破るようにして飛び出してきたのは、巨大な猪のような魔物だった。
体長は二メートル近い。
全身を覆う黒茶色の毛並みは硬そうで、口元から突き出した二本の牙は、人間くらい簡単に串刺しにできそうなほど巨大だ。
「あれがファングボアですよ~。突進力が強くて危ないので、正面から受けちゃダメですからね~」
遠くから、大きな声で俺たちにも聞こえるように解説をし始めた……いや、解説してる場合か?
ファングボアは一直線にシノビアラさんへ突っ込んでいく。巨体のわりに速度も凄まじい。
普通の人間なら、恐怖で足が竦んでいてもおかしくない。
だが──。
「ふふ~、遅いですね~」
シノビアラさんは、笑っていた。
次の瞬間、その姿がふっと掻き消える。
「……え?」
俺がそう声を漏らした時には、既にシノビアラさんはファングボアの真横へ回り込んでいた。
そして腰に差していた短剣が、銀色の軌跡を描く。
ザシュッ──。
一瞬遅れて、ファングボアの首元から大量の血が噴き出した。
「フゴ……!?」
巨体が数歩ほど前へ進み、そのまま地面を大きく滑る。
しかしまだ息があるのか、ファングボアは足掻きながら再び立ち上がろうとする。
「知ってますかぁ? 血抜きって生きているうちにある程度済ませた方が効率がいいんですよ~」
あれだけ大きなモンスター相手でも、怯むこと無く余裕で解説を続けている。
一方で、首元から大量の血を流しながらも、ファングボアはまだ諦めていない。
呼吸の度に血飛沫を撒き散らしながら、前足で地面を掻き、再び突進する機会を窺っている。
「……まあ、無駄に苦しませる趣味も無いんですけどね~」
その言葉のすぐ後、早すぎて何をしたのかが一瞬分からなかった。
ただただ素早く地面を蹴って飛び上がり、ファングボアの目の前に一瞬で近づき、短剣を眉間に突き刺したのだ。
その一撃でファングボアは生気を失い、巨体はゆっくりと崩れ落ちた。
……終わった。
「え、終わり?」
「終わったね……」
俺とメルの声が綺麗に重なる。
シノビアラさんはそんな俺たちを気にした様子もなく、短剣についた血を軽く払うと、ふわりとした笑顔でこちらへ振り返った。
「大したことないモンスターで良かったですね~。でも、結構高値で売れるのでそのまま放置は勿体無いですし~……。町はすぐそこですから、ちょっと運んでくれる人を呼んできますね~。すぐ戻りますから、お二人は他のモンスターの警戒とか諸々お願いしますね~」
そう言ってシノビアラさんは、ステータスが上がった状態の俺よりも速いスピードで街まで走り去った。
改めて……とんでもない実力差だ。これがベテランの冒険者というものか……。
「……なあ、俺たちでこのファングボアってやつは倒せるのか?」
メルに問う。正直、こんなでかい猪は倒せる気がしない。ただの鉄の棒に近い今の俺の武器が通用するのだろうか。
「ギリギリ倒せなくは無いだろうけど、時間もかかるし私達も無傷じゃ厳しいだろうね……。私の石なんか効かないだろうし、ゴンゾーの武器でも致命傷を与えるのが難しいから……ゴンゾーが前足をまず狙って、突進力を奪ってから何とかする……くらいかな?」
「い、一応言っておきますけど、あんな巨体の突進はいくらなんでもわたしの結界魔法じゃ防げませんよ? 一回くらいならある程度威力は削げますけど……」
やっぱりそんなものか……。でも、倒せなくはないという評価なだけマシだろう。ミリィの結界については……そもそも戦闘中に結界に頼らざるを得ない状況がやばそうだ。
「とりあえず……どうしよっか? 血抜きはある程度済んでるだろうし……周りの警戒だけでいいのかな?」
「あ、じゃあわたしがこのファングボアに浄化をかけておきましょうか?」
ミリィの浄化魔法か……。
「いや、やめとこう。クリーンぐらいにしとけ」
浄化魔法なんかが使える事は既に言ってしまったが、やはりあまり目立つような事は避けたい。
「じゃあ、今回わたしはあまり役立てそうにないので、わたしがやっちゃいますね……綺麗になーれ! 汚れよ、さよならー!」
生活魔法スキルこそ持っていないが、ミリィも簡単な生活魔法くらいなら普通に使える。普段あまりやる事が無いので今回もこういった方面で役に立って貰おう。
さすがにクリーンの魔法だとスキルレベルの差でメルがやった方が綺麗にはなるのだが……それでも周囲の血の汚れはかなり消えたし、ファングボア本体にも付いていた汚れも綺麗になった。
こうして続けていけばミリィも生活魔法スキルを習得していくかもしれない。そうなると宿で同室の俺も色々便利になりそうだ。
「あら~? クリーンで綺麗にしておいてくれたんですか~?」
「え……? うわぁ! は、早いですねシノビアラさん……」
シノビアラさんが走り去ってからまだ三分も経っていない。この短い間に町に戻って、運ぶ応援を呼んで、そしてまた戻ってきたのだろうか。早すぎる……。
「う~ん……『シノ』でいいですよ~? ゴンゾーさんとは同じ前衛になりそうですから、呼び方は短い方が便利ですし~」
「あ、そうですか……じゃあ、シノさん……早すぎません? いくら近いって言っても往復でこんなに早いなんて……」
「ぱぱっと入口まで戻って運送依頼を頼んだだけですからね~。この大きさのファングボアなら五万アラドくらいにはなりますし、運送費用を差し引いても全員で分けても一人一万アラド以上にはなりそうですし~」
ぱぱっと言って運送を頼んだだけって……。
ただ、少し気になった事が一つある。
「あの……全員で分けるってのは……? シノさん一人で倒したじゃないですか」
そんな俺の疑問に対してシノさんは一瞬キョトンとしていたが、にっこりと笑い返した。
「パーティーメンバーで報酬を分けるのは当たり前では~? それに、お金が欲しくないんですか~?」
「お金は大事ですけど、俺たち何もしてないですし……。それに、シノさんはわざわざ俺たちみたいな駆け出しのランクアップの為に付いてきてくれてる訳ですから……」
謙遜しすぎたかもしれないけど、これでいいだろう。これが俺の本心だ。
「欲が無いんですねぇ。でも、そういう誠実な人、嫌いじゃないですよ~。あと、今回は短時間とはいえ、見張りとクリーンの代金と思ってくださいねぇ」
『軽度な信頼を確認。ステータスが微上昇します』
そして、何故かステータスが上昇する、いつものスキルのアナウンス。
嫌いじゃない、か。
初対面は顔のせいなのか不信感による嫌悪、なんて印象だったみたいだけど、少しだけ信頼して貰えたみたいで良かった。
「でも、ちょっと変ですよね……」
ファングボアの巨体を見下ろしながら、メルがぽつりと呟いた。
さっきまでの和やかな空気とは違い、その表情には少しだけ緊張が混じっている。
「メルランさん、どうかしましたか~?」
「あ、メルでいいですよ。……えっと、こんな町の近くでこんなモンスターがいるの、変かなって……。確か、ファングボアってもっと森の奥とか山の方に居るモンスターですよね?」
「いい質問ですね~!」
シノさんは嬉しそうに目を細めた。
間延びした口調は相変わらずだが、その雰囲気はどこか真面目なものへ変わっている。
「確かにファングボアって、この周辺だと森の奥まで行かないと遭遇することは滅多に無いんですよ~。つまり……」
そこでシノさんは一度言葉を区切る。
森を吹き抜ける風の音が、妙に大きく耳に残った。
「森で何か異変が起こっている、ということでしょうねぇ」
その言葉が、今回の依頼で起こりうる最悪の事態を想像させた。




