第二十二話:算譜の終着、泥の投網
「レオニダス! レオニダス! レオニダス!」
スタジアムを揺るがす地鳴りのような咆哮。五万人の熱狂を背負い、現人神と化したレオニダスの太刀が、ハンの脳天へと振り下ろされる。絶対的な光の速度。これを受け止められる物質は、この砂の上にはもう存在しない。
だが、ハンは受け止めなかった。
彼は右手の千切れかけた鎖斧を、躊躇なくレオニダスの顔面へと投げつけた。
「無駄だ!」
レオニダスは、鼻で笑いながら太刀の軌道をわずかに変え、飛来する斧を叩き落とした。鉄と鋼が激突し、火花が散る。斧は無残に砂の上へと転がった。
(――武器を捨てた!? 自暴自棄か!)
レオニダスが、勝利を確信して踏み込んだその瞬間。ハンの左手が、背後の腰布の奥から「それ」を引きずり出した。
茶褐色に汚れ、ところどころが破れ、砂と魚の油が染み付いた、ただの太い麻縄の塊。
それは、ハンがこのルドゥスに奴隷として引き摺り込まれた最初の日、武器すら与えられずにあてがわれた「漁師の投網」だった。
「何だと……!?」
黄金の面の奥で、レオニダスの瞳が驚愕に見開かれる。
華麗な剣術、重厚な盾、最速の突き。レオニダスがこれまで収集し、対策を練ってきた「剣闘士のデータ」の中に、ただの魚捕りの網などという「ゴミ」は存在しなかった。
ハンの脳内では、最後の演算が、限界を超えて火花を散らしていた。
(――音響ピークと、奴の踏み込みの同期。四拍子のリズム。……三、二、一。今だ!)
ハンは、両腕の筋肉が千切れる激痛に耐えながら、麻の網を砂の上に大きく展開した。
シュアッ、という、水面を打つような湿った音が闘技場に響く。
五万人の「レオニダスコール」の熱狂的なリズム。レオニダスの絶対的な速度は、そのリズムに完璧に同期していた。だからこそ、ハンにはその「次の一歩」が、数秒前から完全に予測できていた。
レオニダスの足元に、巨大な泥の網が広がった。
「網など、切り裂いてくれるわ!」
レオニダスが太刀を横に一閃させ、網を両断しようとした。しかし、麻の網は鋼の盾とは違う。刃の衝撃を受け止めるのではなく、受け流し、絡みつく。
太刀の白銀の刃が、無数の麻縄の繊維に絡め取られ、その尋常ならざる速度を物理的に相殺された。
「何だ、この絡みつきは……!? 抜けない!」
焦燥。レオニダスが力任せに太刀を引き抜こうとしたその瞬間、網の裾に仕込まれた「重り(砂鉄の袋)」が、彼の黄金の足甲へと絡みついた。
3. 泥の物理法則
(――質量、抵抗値、摩擦係数。すべて計算通り。……美しき様式は、この泥の繊維の中では呼吸すらできない)
ハンは、網の端に結びつけられた太い主縄(引き綱)を、自らの肩に巻きつけ、全体重をかけて後方へと飛び退いた。
「ぐあああっ!?」
レオニダスの巨躯が、自らの太刀の慣性と、網の重りに引かれて、前方に大きくつんのめった。
完全な無防備。美しい姿勢の完全な崩壊。
ハンは、砂の上に転がっていた、先ほどマルクスが落とした大剣を、血塗れの右手で掴み取った。
一歩。ハンの足が砂を踏みしめる。
二歩。レオニダスの黄金の面が、ハンの視線の高さまで落ちてくる。
「馬鹿な……! 私は皇帝の嫡男だ! 世界の理そのものなのだぞ!」
網に絡まり、砂の上に膝をついたレオニダスが、黄金の面越しに絶叫した。その声には、もはや現人神の威厳はなく、未知の逆境に直面した、ただの怯えた人間の悲鳴しかなかった。
「システムなら、バグ(不具合)で落ちる」
ハンの声は、五万人の観客の罵声を切り裂くほどに、静かで、冷徹だった。
ハンは大剣を両手で握り直し、レオニダスの黄金の兜の隙間――無防備に剥き出しになった喉元へと、全力で突き立てた。
ドス、という、肉と骨が断たれる鈍い音が闘技場に響き渡った。
大剣の刃が、レオニダスの喉を深々と貫き、背後の砂へと突き刺さった。
黄金の男の体が、ビクンと大きく跳ね、やがて、ゆっくりと脱力していく。
手から離れた太刀が砂の上に転がり、彼を象徴していた黄金の陽炎が、陽に灼かれた陽炎のように、静かに霧散していった。
五万人の歓声が、一瞬で、完全な真空の静寂へと変わった。
誰も、声を出すことができなかった。
帝国の嫡男、不敗の黄金の神が。地方の、傷だらけで、泥にまみれた、一人の記録係の手によって、魚のように網で捕らえられ、屠られたのだ。
ハンは、大剣を引き抜いた。
返り血が、ハンの顔を、泥の衣を、さらに黒く染め上げる。
(記録。最終試合、レオニダス戦。勝者、シム・ハン。……対象の完全な機能停止を確認。システムの強制終了に成功。……生存者、四名)
ハンは、倒れたレオニダスの骸を跨ぎ、砂の上に倒れるライラ、セナ、マルクスへと歩を進めた。
「……終わったぞ」
ハンの呟きは、誰の耳にも届かないほど小さかった。
だが、その手の中の、血と砂にまみれた不格好な「投網」だけが、砂の上の真実を、静かに物語っていた。




