第二十一話:神格の共鳴、泥の黙示録
「レオニダス! レオニダス! レオニダス!」
マルクスが血を吐き、砂に沈んだその瞬間。闘技場を包んでいた静寂は、一転して鼓膜を破らんばかりの爆音へと変貌した。
五万人の観客が、一斉に立ち上がり、足を踏み鳴らす。
それは単なる野次や歓声ではない。帝国全土から集まったレオニダスの狂信的なファン(信徒)たちによる、熱狂的な激励だった。
「立て、黄金の英雄! 泥の奴隷どもを根絶やしにしろ!」
「帝国に勝利を! レオニダスに栄光を!」
ハンの視界が、音圧によって物理的に歪む。
(――音響データ、計測限界突破。五万人の思念が、一点に同期している。……不快だ。耳障りなノイズの数値が、演算回路を焼き切ろうとしている)
そして、ハンは見てしまった。
砂の上に立つ黄金の男が、その五万人の「声」を吸い込み、文字通り肉体を膨張させていく様を。
レオニダスは、太刀を構えたまま、黄金の面を天へと仰いだ。
全身から立ち上る陽炎が、熱狂の熱を受けてさらに色濃くなる。
応援を力に変える。それは、心理学的な高揚などという生ぬるいものではなかった。
五万人の期待、帝国の威信、無敗の誇り。それら全てのエネルギーを、レオニダスという個体が完璧に受信し、筋力、反射速度、動体視力へと変換しているのだ。
「聞こえるか、シム・ハン。これが世界の意思だ」
レオニダスの声が、ノイズの海を割って、ハンの鼓膜へと直接響いた。潰れていたはずの喉の喘鳴が消え、重低音が空気を震わせる。
「私は一人で戦っているのではない。この帝国そのものが、私の刃に力を与えているのだ。……お前のちっぽけな泥の計算など、この巨大な歴史のうねりの前には、一粒の砂に過ぎない」
レオニダスが、太刀を中段に構え直した。
その佇まいは、先ほどまでの「剣闘士」のそれではない。数万人の信仰を背負った「神」そのものの威容。
動いた。
先ほどまでの速度をさらに凌駕する、黄金の閃光。
(――速度、計測不能! 回避不――)
ハンの演算が完了するより早く、レオニダスの太刀が空間を薙いだ。
ハンは反射的に、右手の千切れかけた鎖と、左手に握ったセナの短剣を交差させて受け止めた。
ギィィィィン!!
耳を劈く金属衝突音。
ハンの体は、まるで大砲の直撃を受けたかのように、後方へと吹き飛ばされた。砂の上を十メートル近く転がり、壁に激突してようやく止まる。
「がはっ……!」
肺の空気がすべて搾り出され、口から血が溢れる。
受け止めた左手の短剣は、中ほどからポッキリと折れ、右手の鎖は無残に拉げていた。
(――両腕の筋肉、部分断裂。肋骨にヒビ。……ダメージ許容値、限界突破。……これが、熱狂を力に変えた怪物の出力か)
レオニダスは、追撃の手を緩めない。
五万人の「レオニダスコール」を翼にして、砂の上を滑るように距離を詰める。
上段からの、絶対的な断罪の斬撃。
「ハン……!」
「逃げて……!」
砂の上に倒れるライラ、セナ、マルクスが、それぞれの絶望の声を上げる。
だが、その声も、スタジアムを埋め尽くすレオニダス賛歌の前に、無力にかき消されていく。
完全な孤立。
五万人の敵。ただ一人の王者。
ハンは、折れた短剣を捨て、拉げた鎖斧だけを握りしめ、立ち上がった。
膝がガクガクと震え、視界は赤く染まっている。
(――記録。最終局面。対象レオニダス、群衆同期による出力ブースト状態。味方戦力、再起不能。自身の損傷率、六十五パーセント)
ハンの脳内台帳は、もはや真っ赤なエラーログで埋め尽くされていた。
普通の人格であれば、とっくに発狂し、戦意を喪失して膝をついている局面だ。
だが、ハンは違った。
台帳が赤く染まれば染まるほど、エラーログが積み重なれば積み重なるほど――ハンの瞳から、一切の感情が抜け落ち、絶対的な「無」の境地へと達していく。
(――これほどの熱狂、これほどのノイズ、これほどの計算外。……面白い。記録係の台帳の、最後の頁を飾るにふさわしい、最大級の『バグ』だ)
ハンは、ボロボロになった鎖斧を構え直した。
レオニダスの太刀が、ハンの脳天へと迫る。
世界のすべてが敵となったこの砂の上で、泥まみれの記録係が、神へと牙を剥く。




