第二十話:崩壊の連鎖、血の様式
「――ハン! 今だ!」
通路の奥から、マルクスが吠えた。
彼の手には、クラウスから奪った重盾と、自らの大剣が握られていた。
マルクスは、ハンの「演算」を完全に理解していた。ハンが真正面からレオニダスの注意を引き、千切れた鎖で右腕を固定した、その空白の一秒。
(――帝国式の誇りなど、捨てた! 今の俺は、仲間を生かすための『泥』だ!)
マルクスは、重盾を低く構え、レオニダスの無防備な背後へと突進した。
狙うのは、兜と胴鎧の隙間――喉元の、チェーンメイルが剥き出しになっている部分。
これまでのマルクスなら、決して選ばない、卑劣で、泥にまみれた背後攻撃。だが、それこそが、ハンが授けた「泥の戦術」の極致だった。
(――勝率、三十パーセントから六十パーセントへ急上昇! マルクスの背後攻撃が成功すれば、レオニダスを解体できる!)
ハンの脳内で、勝利への数式が高速で書き換えられていく。
だが、レオニダスは終わっていなかった。
「ふん……。泥にまみれたのは、ガレノス、お前の方か」
黄金の面の奥で、冷徹な声が響いた。
レオニダスは、ハンの鎖に右腕を固定されたまま、左手に握った太刀を、怪異的なスナップで振り上げた。
下から上へ。物理法則を嘲笑うような、逆方向の軌道。
白銀の刃が、太陽の光を浴びて、冷徹な輝きを放つ。
「何っ!?」
背後から迫っていたマルクスは、自らの突進の慣性をそのまま利用し、刃の軌道へと飛び込む形になった。
肉を断つ嫌な音が闘技場に響き渡る。
レオニダスの太刀が、マルクスの左脇腹から右肩にかけて、深い袈裟斬りの軌道を刻んだ。
「損傷率、五十パーセント。……許容範囲外。……受ければ、次で終わる」
「がああああっ!」
マルクスの巨躯が、鮮血を撒き散らしながら砂の上へと転がり落ちた。
大剣が砂の上に転がり落ち、重盾がカランと虚しい音を立てた。
重傷だ。戦闘継続能力は、平時の二割以下まで低下している。
ハンは、立ち尽くしていた。
(――心拍数、急上昇。視覚野の情報処理遅延。……演算エラー。データにない挙動。左手での逆袈裟斬りという、変則的な応用力)
ハンの脳内で、これまで積み上げてきた勝利の方程式が、音を立てて崩壊していった。
レオニダスは、ただの「事前準備の秀才」ではなかった。彼は、砂の上のカオス(泥)をその場で吸収し、リアルタイムで自分の技術を最適化する、真の「天才」だったのだ。
「これが、お前たちの言う泥の戦術か」
レオニダスが、血に濡れた太刀の切っ先を砂に向けたまま、静かに歩を進める。黄金の甲冑には、傷一つついていない。
「小細工だ。私の前では、あらゆる策略がただの不格好な足掻きに成り下がる。……さて、次はお前だ、シム・ハン。記録係の命の重さを、その身で測らせてもらおう」
ハンは、手首に巻いた鎖を、血の気の引いた指先でギリリと引き絞った。
視界が狭まる。恐怖が、冷たい蛇のように背筋を這い上がってくる。
これまでの敵は、ハンの想定を超えなかった。だが、レオニダスはハンの想定を遥かに超えて、その先にある「絶望」を提示してきた。
(――落ち着け。思考を止めるな。パニックは死を招く。……マルクスの負傷。戦闘可能人員の完全な喪失。レオニダスの攻撃パターンの再構築が必要だ)
ハンの脳が、過熱しそうになりながらも、必死に新しい数式を組み始める。
「ハン……!」
倒れたマルクスが、血に染まった手を伸ばした。
「逃げ……ろ……! 俺は……ここまでだ……!」
ライラとセナもまた、激痛に顔を歪めながら、ハンを呼ぶ。
ハンは、三人を見なかった。
今、彼らを見れば、ハンの演算は「感情」に押し流され、完全に停止してしまうからだ。
(記録:レオニダスの攻撃特性。左手での逆袈裟斬り。回避予測を逆手に取るフェイント。……損傷率、マルクス五十パーセント。……だが、俺は、まだ無傷だ)
ハンの脳が、過熱しそうになりながらも、必死に新しい数式を組み始める。
黄金の男、レオニダス。
帝国最強の嫡男に対し、泥まみれの記録係が、ついに自らの命をチップにした、最後の大博打に打って出る。
(記録:第二十夜。レオニダス、第二形態へ移行。味方戦力の完全な喪失。……ここからが、真の『泥仕合』の始まりだ)
ハンの瞳の奥で、静かに、青白い火花が散った。
不敗の黄金と、泥まみれの鎖。
世界のすべてが、今、砂の上の数式へと収束しようとしていた。




