第十九話:太刀の呼吸、鎖の泥
闘技場を圧殺していた五万人の「レオニダスコール」が、嘘のように止んだ。
砂の上には、膝をつき、喉を押さえて苦悶する黄金の男レオニダスと、脇腹から血を流しながら、セナの短剣を握りしめるハンの姿だけがあった。
(――演算成功。対象の精神的脆弱性への攻撃、および物理的拘束(盾)の解除。……勝率、十五パーセントから三十パーセントへ上昇)
ハンの脳内で、勝利への数式が高速で書き換えられていく。
だが、レオニダスは終わっていなかった。
彼はゆっくりと立ち上がった。喉元の気道が潰れ、呼吸は喘ぐような音を立てている。黄金の面の奥で、彼の瞳から「高貴な油断」が完全に消え失せ、代わりに燃え盛るような「殺意」が宿っていた。
「ほぉ……。泥まみれの記録係が、私の黄金に傷をつけたか。……なかなかやりおる」
レオニダスの声は、潰れた喉から絞り出されるような、不気味な低音だった。
「だが、ここからは本気だ。帝国の歴史ではなく、私自身の『暴力』でお前を解体してやる」
レオニダスは、左腕に通していた黄金の重盾を、無造作に砂の上に投げ捨てた。
ドォォン! という重い音が響く。
(――盾を捨てた!? 防御を放棄し、機動性と攻撃力を優先させる構えか)
ハンの予測が、またしても外れた。
レオニダスは、腰の鞘からもう一本の獲物を抜き放った。
それは、先ほどまで使っていた東洋刀(日本刀の原点)よりも、さらに長く、反りの深い「太刀」だった。白銀の刃が、太陽の光を浴びて、冷徹な輝きを放つ。
「東洋の古い兵法に、こういう言葉がある。……『盾は勇者の器にあらず』。真の強者は、刃一本で万軍を制す」
レオニダスは太刀を両手で上段に構えた。
盾という死角がなくなったことで、彼の全身から発せられる圧が、爆発的に膨れ上がる。
(――対象レオニダス、第二形態。使用武器、太刀。戦闘スタイル、超近接攻撃に特化した一撃必殺。……突きの速度は落ちるが、斬撃の威力とリーチは倍増している)
審判の合図は、もう必要なかった。
レオニダスが動いた。
速い。だが、ウェルスやガルスの速さとは違う。
一歩の踏み込みで五メートルの距離を詰め、上段からの太刀が、ハンの脳天を目がけて振り下ろされた。
(――攻撃軌道、垂直。回避時間、〇・一秒。……間に合わない!)
ハンは、右手の鎖斧を盾のようにたわませ、太刀の一撃を受け止めた。
キィィン! という金属音が響き、火花が散る。
(――重い! 腕の骨が砕ける!)
衝撃がハンの全身を駆け抜け、彼は砂の上を数メートルも吹き飛ばされた。
「損傷率、十五パーセント。……許容範囲外。……受ければ、次で終わる」
レオニダスは、追撃を仕掛ける。
太刀が、左右、斜め、あらゆる角度から、ハンの生命を刈り取ろうと襲いかかる。
ハンは、砂の上を転がり、跳躍し、泥にまみれながら、必死に太刀の射程圏外へと逃れる。
(――焦るな。思考を止めるな。パニックは死を招く。……奴の太刀の連撃パターンを、リアルタイムで記録する)
ハンの脳が、過熱しそうになりながらも、必死に新しい数式を組み始める。
「ハン……!」
倒れたライラが、血に染まった手を伸ばした。
「あの太刀は……まともに受けちゃ駄目よ……!」
セナもまた、激痛に顔を歪めながら、ハンを呼ぶ。
二人とも重傷だ。戦闘継続能力は、平時の三割以下まで低下している。
ハンは、二人を見なかった。
(――ノイズを、攻撃の合図に利用する。奴の太刀の風切り音が、歓声のリズムと同期している瞬間を狙う)
五万人の観客の声が、再び大きくなる。「レオニダス! レオニダス! レオニダス!」
ハンは、その声を逆手に取った。
「レオニダス!」の歓声と共に、砂を蹴り上げた。
真正面。太刀の射程圏内。
ハンは、千切れかけた鎖斧を大きく振りかぶり、レオニダスの太刀へと叩きつける。
「無駄だ!」
レオニダスは難なくそれを太刀で受け止め、十字に交差させてハンの斧を封じた。
これこそが、レオニダスの常套手段だ。相手の武器を拘束し、その至近距離から一方的な刺突を叩き込む。
(――来る! 最速の突き!)
黄金の面越しに見るレオニダスの瞳が、冷たく光った。
レオニダスの右手が、ハンの脇腹を突き刺そうと動き出す。
だが、その瞬間、ハンは右手の鎖斧を自ら手放した。
「何っ!?」
黄金の面越しに、レオニダスの瞳が、驚愕に目を見開く。
柄から離れた鎖の先端が、レオニダスの右腕に蛇のように絡みつく。
ハンは全体重をかけ、その鎖を引き絞った。
「がはっ……!」
レオニダスの右腕が強引に固定される。彼は反射的に左手の短剣で鎖を断ち切ろうとした。
(――今だ! 奴の黄金の自尊心に、致命的な誤差を生じさせた!)
レオニダスの左半身の防御が、一瞬だけ外側に流れる。
人生で初めて「自分の黄金(完璧さ)」に傷をつけられたレオニダスの、精神的な動揺。
ハンは、絡みついた鎖を支点に、レオニダスの懐へと踏み込んだ。
武器はない。だが、ハンの拳には、砂の上で鍛え上げられた泥まみれの「重さ」がある。
ドッ、という鈍い音が闘技場に響いた。
ハンの肘が、レオニダスの喉元を完璧に捉えた。
気道が潰れ、レオニダスの視界が白濁する。黄金の太刀が砂の上に落ち、カランと虚しい音を立てた。
闘技場が、本日六度目の、信じがたい静寂に包まれた。
「レオニダス!」の声が、嘘のように消え失せ、砂の上には、泥まみれの記録係と、膝をつく黄金の男だけが残された。
(記録:第十九夜。レオニダス、精神的脆弱性への攻撃に成功。致命的な誤差の投入。……泥の数式で、黄金の神を解体する。……演算、継続中)
ハンの右手の鎖が、砂塵を巻き上げて唸りを上げた。
絶望の底から、ハンの反撃の演算が、今、始まった。




