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『鉄鎖の解体者(レティアリウス)』  作者: 水前寺鯉太郎


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第十八話:黄金の残響、泥の静寂

「レオニダス! レオニダス! レオニダス!」

五万人の観客の声が、巨大な地鳴りとなって闘技場を揺るがした。

レオニダスが、最速の突きをフェイントに用い、ライラとセナを切り裂いた瞬間。世界から音が消え、ハンの脳内には無数の「数式」が走り始めた。

(――心拍数、急上昇。視覚野の情報処理遅延。……演算エラー。データにない挙動。最速の突きをフェイントに用いるという、変則的な応用力)

ハンの脳内で、これまで積み上げてきた勝利の方程式が、音を立てて崩壊していった。

レオニダスは、ただの「事前準備の秀才」ではなかった。彼は、砂の上のカオス(泥)をその場で吸収し、リアルタイムで自分の技術を最適化する、真の「天才」だったのだ。

「レオニダス! レオニダス! レオニダス!」

観客の声は、次第にリズムを帯び、一つの巨大な「叫び」へと変わっていく。

黄金の鎧を着た皇帝の嫡男。彼が刃を振るい、地方の奴隷剣闘士の血を撒き散らすたびに、観客は狂喜し、彼の名を叫ぶ。

それは、神を讃える賛歌であり、弱者を蹂躙する暴力を肯定する狂気の儀式だった。

(――ノイズレベル、最大。音圧による平衡感覚の乱れ。……感情指数、計測不能。五万人の殺意が、砂の上に集中している)

ハンは、周囲の狂騒を「ノイズ」として処理した。

耳を劈くような歓声も、ライラとセナの呻き声も、すべてはハンの演算を妨げる「不確定要素」に過ぎない。

彼は、自らの意識を極限まで集中させ、世界を数値だけで捉えようとした。


「ハン……!」

倒れたライラが、血に染まった手を伸ばした。

「逃げ……なさい……! あいつは……化け物よ……!」

セナもまた、激痛に顔を歪めながら、ハンを呼ぶ。

二人とも重傷だ。戦闘継続能力は、平時の三割以下まで低下している。

ハンは、二人を見なかった。

今、彼らを見れば、ハンの演算は「感情」に押し流され、完全に停止してしまうからだ。

「逃げない。……コストの計算は、まだ終わっていない」

ハンの声は、自分でも驚くほど冷徹で、平熱だった。

(記録:レオニダスの攻撃特性。最速の突きからの変則的な薙ぎ払い。回避予測を逆手に取るフェイント。……損傷率、ライラ四十パーセント、セナ三十五パーセント。……だが、俺は、まだ無傷だ)

ハンの脳が、過熱オーバーヒートしそうになりながらも、必死に新しい数式を組み始める。

黄金の男、レオニダス。

帝国最強の嫡男に対し、泥まみれの記録係が、ついに自らの命をチップにした、最後の大博打に打って出る。


ハンは、千切れかけた鎖斧を、左手から右手へと持ち替えた。

そして、砂の上に落ちていた、セナの血に濡れた短剣を、左手で拾い上げた。

「武器を拾うか。無駄な抵抗を」

レオニダスが、一歩を踏み出した。黄金の甲冑には、傷一つついていない。

「無駄かどうかは、これからの演算が決める」

ハンの瞳の奥に、青白い炎が再び灯った。

今度は、冷静な計算ではない。自らの血と、仲間たちの血を燃料にした、狂気的なまでの「生存への意志」だった。

「レオニダス! レオニダス! レオニダス!」

観客の声が、さらに大きくなる。

ハンは、その声を逆手に取った。

(――ノイズを、攻撃の合図に利用する。奴の動きが、歓声のリズムと同期している瞬間を狙う)

ハンは動いた。

「レオニダス!」の歓声と共に、砂を蹴り上げた。

(――真正面。最速の突きの射程圏内。……だが、俺には、奴のデータにない『二刀流』がある)

ハンは、右手の鎖斧を大きく振りかぶり、レオニダスの頭上へと叩きつける。

「遅い!」

レオニダスは難なくそれを黄金の重盾スクトゥムで受け止めた。

十字に交差させてハンの斧を封じる。

これこそが、レオニダスの常套手段だ。相手の武器を拘束し、その至近距離から一方的な刺突を叩き込む。

(――来る! 帝国最速の突き!)

ハンの脇腹を狙って、黄金の面越しに見るレオニダスの瞳が、冷たく光った。

4. 黄金の処理落ち(エラー)

レオニダスの右手が、ハンの脇腹を突き刺そうと動き出す。

だが、その瞬間、ハンは左手の短剣を、自らの脇腹へと突き立てた。

「何っ!?」

黄金の面越しに、レオニダスの瞳が、驚愕に目を見開く。

ハンの短剣が、自らの脇腹を貫き、同時にレオニダスの黄金の鎧に突き刺さった。

「がはっ……!」

凄まじい衝撃がハンを襲うが、彼はそれを耐え抜いた。

「損傷率、十パーセント。……許容範囲内。……俺の血が、奴の黄金を汚すコストだ」

(――今だ! 奴の黄金の自尊心プログラムに、致命的な誤差バグを生じさせた!)

レオニダスの左半身の防御が、一瞬だけ外側に流れる。

人生で初めて「自分の黄金(完璧さ)」に傷をつけられたレオニダスの、精神的な動揺。

ハンは、絡みついた短剣を支点に、レオニダスの懐へと踏み込んだ。

武器はない。だが、ハンの拳には、砂の上で鍛え上げられた泥まみれの「重さ」がある。

ドッ、という鈍い音が闘技場に響いた。

ハンの肘が、レオニダスの喉元を完璧に捉えた。

気道が潰れ、レオニダスの視界が白濁する。黄金の重盾スクトゥムが砂の上に落ち、カランと虚しい音を立てた。

闘技場が、本日五度目の、信じがたい静寂に包まれた。

「レオニダス!」の声が、嘘のように消え失せ、砂の上には、泥まみれの記録係と、膝をつく黄金の男だけが残された。

(記録:第十八夜。レオニダス、精神的脆弱性への攻撃に成功。致命的な誤差バグの投入。……泥の数式で、黄金の神を解体する。……演算、継続中)

ハンの右手の鎖が、砂塵を巻き上げて唸りを上げた。

絶望の底から、ハンの反撃の演算が、今、始まった。

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